雄二とは?/ ディック
[ 1191] 堀井雄二 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E4%BA%95%E9%9B%84%E4%BA%8C
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テレビゲーム業界に多大なる影響を与えた人物の一人。性格は温和で謙虚であることで知られているが、プレイヤーとしてゲームをみる眼は非常に厳しい。彼の作品に見られる独特の文章や台詞回しは「堀井節」といわれファンに親しまれている。 ゲーム製作のほか、本田 一景の名前で漫画原作も手がけている。「桃太郎電鉄」シリーズの作者さくまあきらとは学生時代からの友人。 実家は淡路島で堀井ガラス店というガラス屋を営んでいた。兵庫県立洲本高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。大学在学中は漫画研究会に所属。小池一夫の劇画村塾の第三期生。大学卒業後フリーライターとして活動。『月刊アウト』(みのり書房)の読者投稿コーナー「ゆう坊のでたとこまかせ」を連載し、読者からは廃刊後の現在も「ゆう坊」のニックネームで親しまれる。 1981年にパソコンが流行っている事を知り「でたまかの常連投稿者の為に、会員番号の管理にでも使えないか」という軽い動機からPC-6001(通称パピコン)を購入する。しかし当時のパソコンではそうした管理機能は使いにくく、パソコンゲームに熱中し、自ら作って遊んでいた程だった。 すると『週刊少年ジャンプ』で鳥山明の担当編集者でもあった鳥嶋和彦にエニックス(現スクウェア・エニックス)の第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの取材を依頼されるが、参加者としてPC-6001で自作した『ラブマッチテニス』を応募し、入賞することとなる。同年、コンテストの授賞式で森田和郎や中村光一とも出会っている。その後、1983年にパソコンのアドベンチャーゲーム『ポートピア連続殺人事件』を手がけ、ゲーム界に名を知られるようになる。この年、エニックスは堀井雄二、中村光一らをアップルフェストに派遣している。この頃出会ったApple II版『ウィザードリィ』『ウルティマ』、そしてクリスタルソフトによる国産パソコンRPG『夢幻の心臓』は『ドラゴンクエスト』の誕生に大きな影響を与えた。 また『週刊少年ジャンプ』で連載していた「ファミコン神拳110番」というコーナーを、ゆう帝というペンネームで記事を執筆していた。現在では、他者の作品に対して文句を言うことは、全くといっていいほど無いが、『週刊少年ジャンプ』に連載していたゲーム批評コーナー「ファミコン神拳110番」を担当していた頃は、「あわびゅ! なんだこのシステムは!? わけがわからないぜ〜!」などの批判コメントをよく載せていた。 1986年に、家庭用ゲーム機初の本格的ロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」のデザインを手がけ、以後ドラクエシリーズは現在まで、堀井の手により続いている。 他に有名なゲームとしては、モノポリータイプのボードゲーム「いただきストリート」のデザインも担当。いただきストリートはさくまあきらと「お互いにボードゲームを1つ作ってみよう。」ということになり、さくまは桃太郎電鉄を、堀井はいただきストリートのデザインをした。 「でたまか」が単行本として出版された際、巻末特別付録として「ゆう坊のゲームデザイナー入門」を書き下ろし、実際に『ドラゴンクエスト』のデザインに使われた用紙まで掲載された。「でたまか」は『アウト』廃刊より先に連載終了したが、その理由は「ゲームデザイナーの仕事が忙しすぎて、時間がとれなくなった」からであった。「気がついたら副業が本業に代わっていた」を地で行った一人である。 現在、自身のウェブサイトを公開しているものの、諸事情により更新がほぼ滞っており、事実上の閉鎖に近い状態が続いている。 ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド(エニックスのスタッフと共同、開発総指揮も兼任) この「堀井雄二」は、人物に関する書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(ウィキプロジェクト 人物伝)。 |
[ 1192] 青木雄二 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E9%9B%84%E4%BA%8C
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京都府加佐郡大江町(現・福知山市)出身。岡山県立津山工業高校土木科を卒業。在学中は野球部に所属し、ポジションはキャッチャーだった(同校の後輩にはプロ野球選手の高橋信二がいる)。卒業後は神戸市の山陽電気鉄道に入社。会社の学歴を重視する方針に不満を感じ3年程で退職。退職後は地元岡山県に戻り久米南町役場の職員に就くが、3ヶ月で辞表を出して退職。辞表を出したその足で大阪に出てビア・ホールでアルバイトを始める。その後はパチンコ店の店員やキャバレーのボーイ等の水商売を中心に約30種類以上の職を転々とした。この経験が漫画を描く上で大いに参考になったという。 1970年に「屋台」がビッグコミック新人賞佳作に入選。佳作賞金として7万円を手にするも、連載等の声が全くかからなかった為、佳作に入選した「屋台」を持ってデザイン会社に売り込みをして就職する。3年間勤めた後に、独立してデザイン会社「青木デザイン」を起業する。起業当初は一人で全ての業務を行っていたが、事業拡大の為に従業員を雇うようになる。経営は順調に思えたが、数々の取引先から支払いを「もう少し待ってくれ」と言われ続け、資金繰りが苦しくなる。そんな状況にも関わらず、青木の「他者に金銭的迷惑をかけない」という信条により、従業員の給料や自社からの支払いは一度も遅れる事なくしっかりとこなしていた。次第に状況が悪化して借金を背負い倒産。ここでの経験がその後の作品を描く上で大いに参考になったという。1989年に「50億円の約束手形」でアフタヌーン四季賞佳作に入選、1990年に「彼岸と此岸の間で」で準入選を受賞し、同年に代表作の「ナニワ金融道」(ナニ金)(モーニング)で漫画家として44歳でデビューした、遅咲きの漫画家であった。 自らマルクス主義者を標榜し、現代社会への批判が常に著作の根底にあった。そのため右翼団体によって攻撃の対象とされていた。日本共産党の演説会に弁士として招かれたことがあったが、あまりに教条的なマルクス主義論を壇上でぶったため、二度とお呼びが掛からなかったという逸話もある(しかし講演会や赤旗紙上には晩年までたびたび出ていた)。新左翼系の都政を革新する会の支持者名簿に名を連ねることもあったが、当人は「『目的のためには手段を選ばず』ではなく、目的達成のためには手段は選ばなくてはならない」と冒険的な武力闘争を否定するなど、過激派的路線とは一線を画していた。また、マルクスとともにドストエフスキーに傾倒しており、著書ではドストエフスキーの作品についてしばしば言及している。 契約書の一字一字や畳の目の一本一本を描きこむなど、緻密な描き込みをポリシーとしていた。その為、腱鞘炎になってしまい、『ナニ金』の連載終了とともに漫画家を引退したのはこの事による過労のためとも言われる。緻密な描き込みについては「スクリーントーンを全く使わない」と形容されることがあるが、実際には多少は使用している。 漫画家引退後は朝日新聞夕刊にコラム「ナニワ資本論」を連載していた。イラストも自らが描いていた。原稿料は3pで10万円。 著作の『ナニワ金融道』は金融ネタの漫画がブレイクする嚆矢となった。後発の高利貸しを主人公にした作品『ミナミの帝王』に対しては、同作品の映画で著作権を侵害されたせいか、作中で"パクリの帝王"なる作品を描写するなど敵視していたらしい。また、『ミナミの帝王』主人公の「萬田銀次郎」をパロディにしたトイチの闇金「銭田掏二朗」を敵役として登場させ、灰原たちにへこまされるというエピソードも描いた。なお、この著作権問題は訴訟となり、『ミナミの帝王』側がモーニングに謝罪広告を出している。 現在、青木雄二監修・原案とクレジットの入った作品がいくつか存在するが、実際には『カバチタレ!』のように、原作に加筆・修正した作品から、監修を超えてネームまで手がけていた作品まで様々のようだ。 岡山県で少年期を過ごした経験から「岡山の人間は薄情だ」と非難していたとされる(但し売れてからも岡山を何度か訪れ、講演や選挙での応援演説などを行なっていた)。 「お国は一切信用していません」と言って、国民年金を支払わず、そのことを本人は誇りに思っていた。しかし、国民健康保険は支払っていた。 漫画家になる前は様々な職業を経験した。本人曰く一番楽だった仕事は公務員で、一番辛かった仕事はパチンコ店の店員だったとのことである。当時のパチンコ店内は大音量のBGMが流れタバコを吸う客が多く店内の空気が凄く悪かった為、パチンコ店の店員はかなり大変だったと本人が語っていた。 かつて「講演料はいくらか?」と聞かれ、本人は”100万”と言った事があった。これは冗談で、そもそも講演はあまりやりたくなかったので悪ふざけで100万と言っただけのようである。実際は講演料はいくらでもよかったようで、どんなに安い講演料でも引き受けていた。大学から3万円で講演を引き受けた際は、講演後に学生に食事を奢り支払いが講演料の3万円を遥かに超えた事もある。 車の免許を持っていなかったので、ドライブするときは奥さんの運転だった。後に免許を取得し、スウェットにつっかけ姿で黄色いポルシェに乗っていた。 飼い犬の名前はドーベルマンの”龍太郎”。大嫌いな自民党の首相である橋本龍太郎を飼い犬に名付ける青木らしいセンスだが、その名前に反し、可愛がりすぎて人なつっこくなってしまい、ドーベルマンなのに番犬として役に立たなかったらしい。 究極の無神論者として有名であり、日々「神はおらん」と言っていた。その考え方は青木の作品によく出ており、青木作品の人気要素でもある。愛読書でもあるカール・マルクスの『資本論』やドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ影響から、無神論者になったようである。 スクリーントーンを一切使わない事で有名。「あんなもんは手抜きや」と言って使わなかったが、デザイン会社時代の経験から「手抜きしたら、売れへんと思った」からであったという。また、自分の思っている事を描く漫画作品という物において、既存のスクリーントーンを使う事は読む人に気持ちが伝わらないという考えがあったからである。その為、ナニワ金融道連載中に腱鞘炎になった事もある。読者や関係者からは「これだけ細かく書いてれば腱鞘炎にもなるよ」と言われる程、作品に拘りを持っていた。 カバチタレ!(監修。作画は元アシスタントの東風孝広、原作はナニワ金融道に一部のネタを提供したといわれる田島隆) |
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