狩りとは?/ ディック
[ 191] 言葉狩り - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%91%89%E7%8B%A9%E3%82%8A
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その社会で支配的なイデオロギーに対立するイデオロギーの用語が過度に規制された場合や、特定の国、被差別集団の抗議に対してマスコミ等がその用語を放送禁止用語として自主規制をした場合に、これを行き過ぎとして揶揄または否定的にとらえる文脈で使用する。 差別語の場合はマスコミ各社、教育機関、政府が差別語の不使用という点で一致していることからはじまった不使用運動が揶揄または否定的にとらえる文脈でこのように呼ばれる。 現代日本では主にいわゆる「差別用語」とされる語を一般的な用語に言い換えることを強制する風潮を指し、このような言い換えを筆者が拒否する場合には出版社や放送局などがその文章を雑誌に掲載しないことがある。このことから出版後に訴訟が起きて用語使用の是非が議論された例もある。 何をもって言葉狩りとするかは、差別そのものと同様、用語が使用された場合ごとの関係者の主観に基く部分が大きい。規制が過剰あるいは不適切と考える立場からそのような用語規制を否定的な意味合いで言葉狩りと呼ぶ。 ある差別表現が使用される歴史的・社会的文脈を無視した言い換えが強制される場合には表現の自由が侵害されることにもなりかねず、特に文学作品など表現の独自性が問われる分野で問題になる。この場合その表現(描写などを含む)が人権侵害にあたるか否か及び公共の福祉に反するかどうかが問われねばならないが、しばしば感情的に扱われ、耳慣れない新語の不自然さや人権擁護団体の感情的な論調が風刺されることがある。差別表現を批判する側からも、言葉狩りによる単なる用語の言い換えや使用禁止を行うだけでは差別の実態を有耶無耶にする事になり、真の差別撤廃から遠ざかる事になる、という批判がある。 一般的に差別表現は差別の結果生まれるものであり、差別の原因ではない。一見言葉が原因で差別が生まれると思われるときも、基本的には差別感情が先に存在する。その点を看過し、言葉という枝葉末節にこだわるあまり、差別の実態という本質を見失う。すなわち、差別を解消するために代替用語を用いても、差別感情が解消しない限り代替用語自体が差別用語化する可能性がある。代替用語がまた差別用語となる一例として、学校で備品の管理や設備の維持にあたる人への用語問題が挙げられる。「小使いさん」との呼び方は差別的だとして「用務員」と言い換えられた。しかし現在ではその「用務員」も差別的とされるようになり、「校務員」や「管理作業員」といった新造語に置き換える動きがあるが、その呼称の対象に対する意識は変化していないという批判がこれにあたる。用語を用いる側と用いられる側の意識の問題であるだけに、用語の言い換えのみをもって意識の変革を求めることは容易ではない。同様に「かたわ」などを「身体障害者」に言い換えたものの、短縮形の「身障」を含め、既に差別用語化しているのが実情である。これは「障害者」を「障碍者」(国語としては代用文字を元に戻すだけ)、あるいは「障がい者」(単に一部を平仮名にしただけ)に変えようという児戯的な運動では解消できない。 一部の団体には言葉狩りを行うことで差別的な人間を矯正したと自己満足に陥る、あるいは自らの権力欲を満足させているだけであるとの批判もある。 上記のような「言い換えを行っても差別感情を解消することは不可能」とする言い換え否定論に対し、肯定論側の反論として以下のようなものがある。すなわち、発話者に差別感情が無くとも、被差別者の立場に立てば差別用語そのものによって傷つけられる可能性があるというものである。 ただし、ポリティカル・コレクトネスの運動においても、一部に過剰とも言える言い換えが存在することに批判を浴びた経緯があり、それを風刺した『政治的に正しいおとぎ話』のような本がベストセラーになった。 このように、ある語に対する規制が言葉狩りかどうかは当事者の主観に左右される部分が大きく、差別全般についての考察なしに規制という事象のみをとらえて論じることは本質から外れた議論になりかねない。最初から否定的な意味合いを含んでいる言葉狩りという言葉には、すでにその使用によって使用者の立場を明らかにしてしまっていると言うことができる。 被差別者による糾弾に対しても「感情的な差別批判」として言葉狩りとすり替えて揶揄する場合などによく使われる。 言葉狩りという語の持つイメージは強く、ある団体が人権を擁護するために用語規制を呼びかけても、言葉狩りと決め付けてしまえば先入観を持って見られるようになることが考えられる。 一般に、ある国の体制を認めない場合、メディアにおいてその国の自称する正式な国名を使用せず独自の呼称を使用するなど、言葉の強制的な言い換えがみられる。 このようなイデオロギーによる言葉狩りの例として、1970年代までの旧西独では旧東独のことを「ソ連占領地域」または「中ドイツ」とのみ呼び、「ドイツ民主共和国」という正式名称を使えば共産主義のシンパとして言論界から追放された。日本でも、日中国交正常化まで中華人民共和国のことを「新中国」ないし「中共」と呼称した。また、「北朝鮮」について「朝鮮民主主義人民共和国」の名称が使用されて続けているのと異なり、日中国交正常化以前から「中華民国」政府については日本及び国連でも「国府」または「台湾」と呼ばれたことがあり、現在でも「台湾」の名称が使用され続けている。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国は自国を正統とする立場から、相互に相手を「南朝鮮」「北韓」と呼び合っている。 |
[ 192] 魔女狩り - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E7%8B%A9%E3%82%8A
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このページは荒らしを理由として方針に基づき、新規ユーザーおよび未登録 (IP) ユーザーによる編集が禁止されています。 かつて魔女狩りといえば「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かったが、このような見方は1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「もともと民衆の間から起こった魔女狩りは15世紀から18世紀までにかけてみられ、全ヨーロッパで最大4万人が犠牲になった」と考えられている。 なお「魔女」と称するものの犠牲者の全てが女性だった訳ではなく、男性も「男性の魔女」ともいうべき形で含まれていた。 古代以来、人々は自らの限界を超えた大きな力、自然をコントロールしたり、超自然に干渉できる力を何らかの方法で持つことができると考えていた。これがヨーロッパにおいてラテン語で「マレフィキウム」(Maleficium)と呼ばれる「魔術」の概念につながっていく。もともとヨーロッパの各地では民事に関しては、権力者でなく民衆が自発的に行う民衆裁判によって治安を維持する伝統があった。その中で暴力や窃盗とならんで、「魔術によって出た害」も裁きの対象となっていたが、特別重い刑が科せられるというわけでなく、他の犯罪と同じように被害に応じた刑が科されていた。また同じ魔術でも良い目的に用いられると考えられたもの、いわゆる「白魔術」は一般的に良いものとみなされていた。 中世に入ると、キリスト教社会において(公式な教会の教えではないにせよ)悪魔が人間や動物を使って悪のわざを行うことが信じられるようになった。このような考え方はキリスト教以前からの民族信仰の名残りや十字軍兵士たちによって東方から持ち帰られた思想・文化などが融合して生まれたと考えられている。また古代以来、悪魔が人間に影響をおよぼすことができるという考え方も根強くあり、人々はそれを根絶しようとしてきた。その一つとして悪魔のしもべとされた人間への糾弾があった。悪魔の使いとされたのは人間だけでなく、動物も含まれており、中世ヨーロッパで見られた動物裁判では「悪魔のしもべとなった」という動物の罪状もあった。人々は「悪魔につかれた」と思われた人々を捕らえては民衆法廷で裁いていた。 女性研究家マックス・ダシュー(Max Dashu)によれば、中世の人々が持っていた魔女観はキリスト教以前の社会にさかのぼるものも見られるという。たとえばローマの民族宗教であったバッカス信仰やローマの伝説に出る怪物ストリクス(女性の姿をし、ふくろうに化けて空を飛ぶとされた。)と魔女像との関係が指摘されている。 かつて「魔女狩り」といえば「中世ヨーロッパにおいて12世紀のカタリ派の弾圧やテンプル騎士団への迫害以降にローマ教皇庁の主導によって異端審問が活発化し、それに伴って教会の主導による魔女狩りが盛んに行われるようになり、数百万人が犠牲になった」のように語られることが多かった。しかし1970年代以降、さまざまな研究によってこのようなステレオタイプな見方は覆されることになった。特に有名なノーマン・コーン(Norman Cohn)とリチャード・キークヘファー(Richard Kieckhefer)の研究によれば、魔女狩りはスイスとクロアチアの民衆の間で始まり、やがて民衆法廷という形で魔女を断罪する仕組みがつくられたという。異端の追求は行っていても、魔女裁判には長く関与していなかったカトリック教会が異端審問を通して魔女狩りとかかわりを持つようになるのは15世紀に入ってからのことである。これは1384年と1390年にミラノの異端審問所に、魔術を用いた容疑で訴えられた二人の女性に対して、異端審問所ではこの種の訴えを裁くことはできないという判断が出されていることからもわかる。 12世紀に始まった異端審問が、それまで民事裁判で裁かれていた魔術を扱うようになったのは15世紀に入ってからであるが、それはワルドー派が多かったスイスやフランスのアルプスに近い地方で始められた。ノーマン・コーンによれば記録に残るものでは1428年にスイス、ヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともとこの地方の異端審問所はワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子供をとらえて食べるといった魔女の集会の持つイメージはかつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった(魔女は本来群れるものとされていたのであり、森に一人で住む魔女というイメージはグリム童話などに負うところが大きい)。 さらに魔女の概念が当時のヨーロッパを覆っていた反ユダヤ主義と結びつくようになると、「子供を捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像がつくられていった。魔女の集会がユダヤ人にとって安息日を意味する「サバト」という名称で呼ばれるようになるのも反ユダヤ主義の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。 魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩りが衰退したのかということについてはさまざまな説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば17世紀はガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)、ルネ・デカルト(1596年-1650年)、あるいはアイザック・ニュートン(1643年-1727年)など近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、出版物によって人々の意識を変えた時代であったため、前近代的な魔女狩りが一気に衰退したという説明がされることがある。しかしこのような見方はあくまで現代人の見方である。印刷術が普及したといってもメディアの発達していない当時の社会ではある思想が階級や国境を超えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートンが錬金術に夢中であったことからわかるように、当時の先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考スタイルから抜けていなかったことを理解する必要がある。 ただ、17世紀末期になると知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリック・プロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かなことである。依然として一般庶民の間では魔女や悪魔への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていった。イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となったものはいなかった。 魔女狩りの根拠とされたのは聖書の旧約聖書『出エジプト記』22章18節律法「呪術を使う女(ヘブライ語でメハシェファ)は生かしておいてはならない」という記述であった。しかし、これはもともと何をさしていたのかがよくわからない言葉であり、別に中世的な意味での「魔女」を指したものではなく、単なる占い師の意味であっただろうと現代では考えられている。だが、欽定訳聖書(1611年)の編集時に「魔術を行う女性」というあいまいな表現がはっきりと「魔女」(Witch)という言葉で、当時の人々のイメージに合わせて書き換えられた。このため、この部分が魔女狩りの聖書における根拠になりうると考えられた。 魔女として訴えられたものには、町や村、もしくはその近郊に住む女性で、貧しく教養がない、あるいは友人が少ないといった特徴を持つものが多かったようである。近代に入ってもカトリック・プロテスタントを問わず、宗教界の権威者たちは非キリスト教的な思想を嫌った。それは旧約聖書にあるヘブライ人たちの多神論への攻撃にその論拠を求めたものであった。 裁判において訴えられたものが魔女であるか否かは取調べによって明らかにされた。取調べでは拷問が用いられることもあり、もっとも残酷なものとしては熱い釘をさしたり、指を締め上げたりといった恐ろしい方法も用いられた。ただ、このような拷問が全員に対して行われたわけでなく、拷問の使用の是非は地域や取調官の性格によっていた。たとえば清教徒革命の時代(17世紀)にイギリス東部で「魔女狩り将軍」を名乗ったマシュー・ホプキンスなる人物がいた。彼は魔女とおぼしき人物を探し出し、体にある「魔女のしるし」を見つけては魔女であることを確定していた。彼は魔女狩りの歴史において最悪の「裁判者」の一人であるが、彼の裁いた件であっても訴えられた女性がすべて魔女とされたわけではなく、無罪放免になったケースも多かったことが明らかになっている。ただ、このホプキンスの魔女に対する取調べでは残酷な拷問が用いられたり、魔女であることの証明を得るため、拷問によって本人の自白を得るか、知人や隣人に証言させるという方法を用いたことが知られている。 魔女狩りの歴史を研究するジェニー・ドビンス(Jenny Dobbins)は魔女狩りの最盛期(1567年-1640年)に民衆法廷から教会裁判へ持ち込まれた魔女裁判の容疑の半分以上が証拠不十分として無罪宣告され、拷問は用いられず、被告は「自分が魔女でない」ことを宣誓してくれる証人を呼ぶ権利を認められていたといい、さらに訴えられたケースのうち21%のみが教会裁判で裁かれたが、教会がなんらかの罰や刑を課すことはなかったという。 ただ、教会裁判の実情が以上のようなものであっても、実際にはほとんどの魔女とされた者は民衆法廷で裁かれており、民衆法廷には厳密なシステムやルールが存在しないだけに、行き過ぎた拷問や刑罰が行われたものと考えられる。 処刑法としてはヨーロッパ大陸では焚刑(火あぶり)が多く見られたが、イギリスでは絞首刑が主流であった。ほかにも溺死刑などがあった。 魔女狩りはかつて「長期にわたって全ヨーロッパで見られた現象」と考えられていたが、現代では時期と地域によって魔女狩りへの熱意に大きな幅があったことがわかっている。全体としていえることは、魔女狩りが起きた地域はカトリック・プロテスタントといった宗派は問わないということであり、強力な統治者が安定した統治を行う大規模な領邦では激化せず、小領邦ほど激しい魔女狩りが行われていたということである。その理由としては、小領邦の支配者ほど社会不安に対する心理的耐性が弱く、魔女狩りを求める民衆の声に動かされてしまったことが考えられる。 また、地域別に見るとドイツ、フランスは同じ国内でも地域によって差があり、イタリア、スペイン(バスク地方を除く)、アイルランド、オランダではほとんど見られなかった。ヴェネツィアでは裁判は多かったが、鞭打ちで釈放されることがほとんどで、処刑はほとんどなかった。ポーランド、スウェーデン、少し遅れて18世紀のハンガリーでは激しい魔女狩りが起こった。イングランドでは1590年代がピークであったがすぐに衰退した。対照的に隣接するスコットランドでは1590年代〜1660年代と長きにわたった。北アメリカの植民地ではあまり見られなかったが、1692年にニューイングランドのセイラムで起こった大規模な魔女騒動(セイラム魔女裁判)が例外的なケースであった。セイラムのケースは例外的であったがゆえに人々に衝撃を与え、アメリカ合衆国の歴史に暗い影を落とすことになる。 19世紀に入って近代的な歴史学が発展すると、魔女狩りを歴史の中でどのように理解すべきかについて多くの説が提示された。 たとえばドイツの歴史家ウィルヘルム・ゾルダン(Wilhelm Soldan)は魔女狩りとは権力者や教会関係者が金銭目当てで行ったものだという説を唱えたが、被告のほとんどが財産をもたない貧しい人々であったことや、告発者が利益を得る仕組みがなかったことが明らかになっているため、現在では否定されている。他にも、19世紀のフランス人ジュール・ミシュレ(Julet Michelet)やエジプト研究家マーガレット・マリ(Margaret Murray)は「魔女とされた人たちは、実はキリスト教の陰で生き残っていた古代宗教を信じていた農民であった」と考えたが、実際には被告のほとんどがキリスト教徒であって、当時の農民の中に異教の信仰があったという証拠は依然として何も得られていない。20世紀に入ってもゲラルド・ガードナー(Gerard Gardner)が「魔女というのはヨーロッパに古代から伝わっていた女神信仰(ウィッカ)を信じていた女性たちである」と唱え、自らウィッカなる新興宗教の主宰者となった。他にもアメリカのフェミニスト研究者バーバラ・エーレンライク(Barbara Ehrenreich)とディアドラ・イングリッシュ(Diedore English)は、「魔女とされた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちによる女性医療師への大規模な弾圧であった」という説を唱えた。しかし、この理論ではなぜ農民自身が魔女狩りを推し進めたのか、魔女狩りの被告となった少なからぬ数の男性たちがいた事実をどう説明するのかなど、理論としての精確さに欠けている。そのため、これらの説は現代の研究者たちには受け入れられていない。 20世紀に唱えられた説では、完全ではないものの複合的に要因の一つと考えうるものがある。たとえば魔女狩りが戦争や天災に対する庶民の怒りのスケープゴートであったという説。この説はペストや戦争が起こっていた時期と地域が、魔女狩りの活発さと関連していると主張するが、実際には三十年戦争のピーク時には魔女狩りが沈静化しているなど、それほどはっきりとしたつながりが見られない。次にイギリスの歴史家ヒュー・トレヴァ=ローパー(Hugh Trevor-Roper)らが唱えた「魔女狩りはカトリックとプロテスタントの宗派間抗争の道具であった」という説がある。つまりカトリックが優位な地域では、少数のプロテスタント市民に対し、魔女の烙印を押して迫害し、逆にプロテスタント地域ではカトリック市民が魔女とされたということである。しかし、この説も対立する宗派の人間がほとんどいなかった地域(たとえばイングランドのエセックス州、スイスのジュネーヴ、イタリアのヴェネツィア、スペインとフランスにまたがるバスク地方など)においても激しい魔女狩りが行われ、逆にカトリックとプロテスタントが激しく争った地域(たとえばアイルランドやオランダ)であっても魔女狩りがほとんどなかったところがあることを説明できないなど、確実な説とは言いがたい。 また、J.H.エリオット(J.H.Elliot)は魔女狩りが中央集権化した国家や教会の中枢による臣民のコントロール手段であったと考えたが、この理論では権力者が白魔術に対して寛容であったのはなぜか、あるいはなぜ教会や世俗権力が中央集権化した中世盛期に魔女と魔術を放置しており、近世初期になって突如魔女狩りが始まったのかを説明できない、権力者を一概に悪に決め付けているなどの批判がある。また魔女狩りという言葉は1970年代アメリカでフェミニストの研究者たちによって、キリスト教誕生以降起こったすべての女性への迫害をさす言葉として用いられるようになり、その犠牲者数は19世紀に女性の権利を訴えていた研究者マティルダ・ジョスリン・ゲージが出した900万人であるとさえした。時にこれを「女性へのホロコースト」という言い方をすることもある。しかし、現代の研究者たちは、女性に対する敵視が魔女狩りの原動力の一つであったことは否定しない一方で、魔女裁判の被告が必ずしも女性だけでなかったということ(たとえばアイスランドでは裁判を受けたものの80%が男性であった)も明らかにしている。 確実にいえることをまとめると、当時のヨーロッパを覆った宗教的・社会的大変動が人々を精神的な不安に落としいれ、庶民のパワーと権力者の意向が一致したことで魔女狩りが発生したということである。現代の歴史学ではかつての魔女狩りについてのイメージの多くが否定されているにもかかわらず、多くのメディアなどでは依然として魔女狩りをステレオタイプのまま捉えて「キリスト教会主導で行った大量虐殺」としている。 あるコミュニティ間で、偏見にもとづいて行われる糾弾・排除行為のことを「魔女狩り」と隠喩することがある。たとえば1950年代のアメリカ合衆国で吹き荒れたマッカーシズムの嵐や、1960年〜1970年代中華人民共和国で約2千万人が虐殺された文化大革命での騒動もこの意味での「魔女狩り」になる。吊るし上げや総括と似た意味を持つが、より「理不尽さ」の面を強調する時に用いる事が多い。 |
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