津田とは?/ ディック
[ 869] 津田梅子 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%AD%90
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津田うめは、津田仙(旧幕臣・東京府士族)・津田初子夫妻の次女として、江戸牛込の南御徒町に生まれた。下総佐倉藩の家臣小島氏の出身の仙は、幕臣であった津田家の婿養子となっている。幕臣であった仙は、幕府崩壊とともに職を失ったが、1869年(明治2年)に築地のホテル館へ勤めはじめ、津田家は一家で向島へ移った。仙は西洋野菜の栽培なども手がけ、幼少時の梅子は手習いや踊などを学び、父の農園の手伝いもしている。1871年、仙は明治政府の事業である北海道開拓使の嘱託となり、津田家は麻布へ移る。開拓使次官の黒田清隆は女子教育にも関心を持っていた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応募させ、1871年(明治4年)には、岩倉使節団に随行して渡米。5人のうち最年少の8歳であった。11月に横浜を出港し、サンフランシスコを経て同年12月にワシントンへ到着。 アメリカではジョージタウンで日本弁務官書記のチャールズ・ランメン家に預けられる。5月には森有礼の世話で、留学生はワシントン市内に住まわされるが10月には2名が帰国し、梅子は再びランメン家に預けられ、十数年を過ごすことになる。梅子は英語、ピアノなどを学びはじめ、市内のコレジエト・インスティチュートへ通う。日本へ宛てる手紙も英文で書くようになる。この頃にはキリスト教への信仰も芽生え、ランメン夫妻には信仰を薦められていないが、1873年7月には特定の宗派に属さないフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受ける。1878年にはコレジエト校を卒業し、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ。また、ランメン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行している。1881年には開拓使から帰国命令が出るが、在学中であった山川捨松とうめは延長を申請し、1882年7月に卒業。11月には日本へ帰国する。 うめらは帰国したものの、儒学の価値観が色濃く残る日本においては女子留学生の活躍できる職業分野にも乏しく、山川捨松と永井繁子はそれぞれ軍人へ嫁した。また、長い留学生活で日本語能力は通訳が必要なほど退化しており、日本的風習にも不慣れであった。1883年には、外務卿井上馨の邸で開かれた夜会に招待され、伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾・桃夭女塾を開設していた下田歌子を紹介される。このころ父・津田仙との確執もあったことから、梅子は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在、歌子からは日本語を学び、「桃夭女塾」へ英語教師として通う。1885年には伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。1886年には職制変更で嘱託となる。 梅子は華族女学校で3年余り教えているが、上流階級的気風には馴染めなかったと言われ、この頃には何度か薦められていた縁談も断っている。1888年には、留学時代の友人アリス・ベーコンが来日し、彼女に薦められて再度の留学を決意。父の仙の知人で、日本の商業教育に携わっていたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘クララの仲介で留学希望を伝えて学費免除の承諾を得て、校長の西村茂樹から2年間の留学を許可される。1889年7月に再び渡米。 当時は進化論においてネオ・ラマルキズムが反響を呼んでおり、梅子はフィラデルフィアのブリンマー・カレッジ (Bryn Mawr College) で生物学を専攻する。3年間の過程を切り上げて終了させ、留学2年目には蛙の発生に関する論文を執筆。使命であった教授法に関する研究は州立のオズウィゴー師範学校で行う。梅子に留学を進めたアリス・ベーコンは日本習俗に関心を持ち、日本女性に関する研究をしていた。ベーコンがアメリカへ帰国し、研究を出版(『日本の女性』)する際には手助けをしている。これは梅子が日本の女性教育に関心を持つきっかけになったとも言われており、留学を一年延長すると、梅子は日本女性留学のための奨学金設立を発起し、公演や募金活動などを行う。 大学からはアメリカへ留まり学究を続けることを薦められるが、1892年8月に帰国。再び女子華族院に勤める。梅子は教師生活を続けるが、自宅で女学生を預かるなど積極的援助を行い、1894年には明治女学院でも講師を務める。成瀬仁蔵の女子大学創設運動や、1899年に高等女学校令、私立学校令がそれぞれ公布されて法整備が整い、女子教育への機運が高まると、1900年に官職を辞職。父の仙やアリス・ベーコン、大山捨松、瓜生繁子、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、7月に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府知事に提出。認可を受けると東京麹町区に開校し、塾長となる。 華族平民の別のない女子教育を志向して、一般女子の教育を始める。それまでの行儀作法の延長の女子教育と違い、進歩的で自由なレベルの高い授業が評判となる。独自の教育方針を妨害されず貫き通すため、資金援助は極めて小規模にとどめられ、梅子やアリス・ベーコンらの友人ははじめ無報酬で奉仕していたものの、学生や教師の増加、拡張のための土地・建物の購入費など経営は厳しかったと言われる。1903年には専門学校令が公布され、塾の基盤が整うと申請して塾を社団法人とする。 梅子は塾の創業期に健康を損ない、塾経営の基礎が整うと1919年1月に塾長を辞任。鎌倉の別荘で長期の闘病後、64歳で死去。 |
[ 870] 津田恒実 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E6%81%92%E5%AE%9F
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山口県立南陽工業高等学校では、1年時からエースピッチャーとして活躍していた。1978年には春のセンバツに出場してベスト8の成績を残し、同年の夏の甲子園では2回戦まで駒を進めた。卒業後は社会人野球の協和発酵を経て、1981年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。1年目の1982年、先発投手として11勝6敗の成績を残し、球団初の新人王に輝いた。しかし2年目以降は、ルーズショルダーや中指の血行障害などに悩まされ、登板機会が激減する。 その後、血行障害を治すため、世界初となる中指の靭帯を摘出する手術を受ける。1985年「恒美」から「恒実」へと改名し、1986年に抑え投手として復活、カムバック賞を獲得すると共に、チーム5度目のリーグ制覇に大きく貢献した。1988年には、肩痛などが遠因しリリーフ失敗を繰り返すなど9敗を喫し、『サヨナラの津田』とも揶揄されたが、翌1989年は12勝5敗28セーブを挙げる活躍で最優秀救援投手に輝き、再び復活を遂げる。縦横の鋭いカーブや得意の剛速球を武器に相手打者に敢然と立ち向かう姿は『炎のストッパー』と形容され、ファンを魅了した。 しかし、再び故障の為に登板数が減った1990年のシーズン終了後から、頭痛をはじめとする体の変調を訴えるようになる。1991年、前年から続く体調不良を抱えたまま開幕を迎え、4月14日、無理を押して広島市民球場で行われた読売ジャイアンツ戦に登板するが、大乱調のためたった9球でマウンドを降り敗戦投手となる。これが、津田の生涯最後の登板となった。 この試合後広島大学病院に入院し、精密検査を受けた結果、手術で摘出できない位置に悪性の脳腫瘍があることが判明。同年限りで現役引退し、闘病生活に入る(球団は本当の病名を伏せ「水頭症のため引退」と発表した)。一時は奇跡的な回復を見せ、現役復帰に向けたトレーニングも行われるようになったが、1992年秋頃を境に再び病状が悪化、1993年7月20日、32歳の若さでこの世を去った。 広島市民球場にはその功績と人柄を讃え、「直球勝負 笑顔と勇気を忘れないために」と刻まれたメモリアルプレートが設置されている。同球場に設置された個人の記念碑は、連続試合出場記録を樹立した衣笠祥雄に次いで2人目。後日、大野豊ら広島の選手は、試合に出場する時必ずこのプレートに触れていくというエピソードが勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー内で紹介された。 アマチュア時代から剛球投手として名をはせていた津田だが、それと相反するように、自他ともに認めるメンタル面の弱さも持ち合わせていた。高校時代には、監督から精神安定剤と偽ったメリケン粉を渡されたこともあったという。『弱気は最大の敵』『一球入魂』といった座右の銘や、打者に真っ向から立ち向かう投球スタイルは、元々はそのような自らの精神的な弱さを克服するために心がけていたものであった。二つの座右の銘を書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板する前には必ずそのボールに向かって気合を入れていた。 明るくひょうきんな性格でチームメイトやファンから愛されていた。ドラフト直前のTVインタビューで「希望の球団は特にないですけど・・・広島ですねぇ〜」、ドラフトで広島に指名されたあとの記者会見で「新人王ですか?ウ〜ン・・・狙いますねぇ〜」、『麹の良さが決め手』がキャッチフレーズの味噌のCMで「ウチのチームといっしょですね!ねぇ、浩二さん!」など、数々の言葉からそのキャラクターが窺える。 リリーフピッチャーとしての責任感が非常に強い選手だった。清川栄治のプロ初勝利が掛かった試合に登板し、メッタ打ちにされて清川の勝利を消してしまった時は、試合後に合宿所の清川の部屋へ、30分おきに何度も謝りに行ったという。 1986年9月24日の巨人25回戦で津田と対戦した原辰徳はストレートをファウルした際に左手の有鉤骨を骨折し、残りシーズン全て欠場した。後年、原は「あの時の津田との勝負に悔いはない」と、当時から現在に至るまで繰り返し語っている。 当時絶頂期にあった阪神タイガースのランディ・バースに対して全て150km/h超のストレートで挑み、3球三振に斬って取ったこともある。試合を実況していた毎日放送アナウンサーの城野昭は「津田、スピード違反」と叫び、試合後にバースは「ツダはクレイジーだ」というコメントを残している。 1986年の日本シリーズで広島は、西武ライオンズに初戦引き分けの後3連勝して日本一に王手をかけながら、5戦目の延長12回に工藤公康にサヨナラ安打を浴び、その後勢いに乗った西武に4連敗、日本一を逃すという屈辱を喫している。この延長12回のサヨナラ安打を浴びたのが、リリーフ登板した津田だった。 1991年4月14日、津田からタイムリーヒットを打って生涯最後の対戦打者となったのは、奇しくもかつて左手首を骨折させた原辰徳であった。 津田の病を知った当時の山崎隆造選手会長は、すぐに全選手を集めその事実を知らせるとともに、「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」と涙ながらに訴えた。広島ナインはこれに奮起し、この年チームは夏場まで独走していた中日ドラゴンズを逆転でかわし、5年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした。この時、津田とダブルストッパーを組むことになっていた大野豊を始めとする投手陣は、リーグの投手部門の主要タイトルを独占するという大活躍を見せている(最優秀救援投手:大野、最多勝利・最優秀防御率・沢村賞:佐々岡真司、最高勝率:北別府学、最多奪三振:川口和久)。 チームメイトであった森脇浩司とは無二の親友だった。1987年のシーズン中に森脇が南海ホークスへトレードされた時は、夫人に対して「お前か浩司のどっちかをとれって言われたら、オレは浩司をとる」と言い、夫人を呆れさせたという。 晩年、福岡市内の病院に入院して闘病生活を送っていた津田及び周辺の諸々の世話を積極的に行っていたのも森脇だった。津田が一時回復を見せた時、森脇は「オレの年俸を半額にしてでも、お前を現役復帰させられるように球団(福岡ダイエーホークス)にかけあってやる」と言ったとされる。1994年に森脇が結婚し披露宴を挙げた際には、亡き津田のために席を用意し、津田のグラスにシャンパンを注いでキャンドルサービスを行い、同席した金石昭人、清川栄治ら友人の涙を誘った。 逝去した当日、東京ドームでオールスターゲーム第1戦が行われていた。そのため、津田の死は試合途中に速報で伝えられ、地元広島のテレビ各局で津田と親交のあったアナウンサーは、号泣しながら訃報を伝えていた。山本浩二監督を始めとする広島の選手は、全員喪服ではなくユニフォーム姿で津田の葬儀に参列した。 その燃え尽きるような野球人生は、多くのファンに強い印象を残した。2000年には、晃代夫人の著書「最後のストライク」が、岸谷五朗主演でドラマ化されている。 |
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