惣之助とは?/ ディック
[ 966] 佐藤惣之助
[引用サイト] http://members.jcom.home.ne.jp/ksmiracle/Literature/Person/SatoS.html
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手紙有り難う。その後どうしたかしらと心にかかりながら、つい手紙を送らなくなつてすまない。ゆるしておくれ。 山の五月の湖はよいだろう、「湖畔の宿」は全く榛名湖のことであるが、あの中のことは全く夢だよ。あゝいふ人もあるだろうと思つたので、書いたもの。 宿は湖畔亭にして置こう。あの曲がよいので、高峰も唄ひよかつた。今になつて人がさわいでゐるが、あれは一昨年のことだよ。 CD版「パレード」に収録されている曲。かつて無声映画の伴奏や、下座音楽で使われていた「竹になりたや」という愁嘆の曲を挿入して、芝居小屋の感じを狙ってみたそうです。 そこで、ぐっと下世話に話を方向転換させると、話題子の好きな懐メロに「緑の地平線」というのがある。その三番の歌詞「山の煙りを慕いつつ/いとし小鳩の声聞けば/遠き前途(ゆくて)にほのぼのと/緑うれしや地平線」(作詞・佐藤惣之助、作曲・古賀政男)。戦争中から戦後にかけて大流行した。殺伐とした時代だからこそ、こうした歌がはやったのだろう。 昭和10年代、コロムビア、テイチク、キング、ビクター、ポリドール、タイヘイなどの各社では月4枚ほどのレコードを発売していましたが、自主規制していたので発売前に検閲で禁止処分になるものは数少なかったといわれています。発売後に、行政当局、軍、憲兵隊、警察、学校、その他「愛国」的諸団体から「いちゃもん」をつけられて販売禁止、歌唱演奏禁止、歌詞の改変命令に処せられるのはけっこうあったようです。すでに版を重ねてきているものでも次々と槍玉に挙げられていったのです。 富士見通り、横浜地方裁判所川崎支部と川崎市体育館にはさまれて碑があります。詩集「華やかな散歩」の序詩。 川崎宿の本陣を代々務めた佐藤家の詩人・佐藤惣之助の碑が市体育館前と生家跡とされる川崎信用金庫本店前にある。 わたしは熱い春の天城の天辺から火のついた鵜のやうに飛むで来た港は恋しい春の夕の港は一目見たばかりで異様に美しく埋もれてゐる 「大正歌謡誌ノート」で「上海だより」に触れたので言っておくと、この歌は戦場の現実への想像力を欠いている。たとえば、 自慢できるほど兜に敵弾を浴びた兵士が無事でいられるはずはない。当然、弾は体にも当たる。こんな能天気な歌を歌って戦地へおもむ青年たちがいたとすれば、アニメソングを歌いながらサリンを撒きにいった青年たちとどこが違うか。 自分の場合を言えば、この歌はかなりの程度まで血肉化していて、今でも口をついて出ることはある。ただし、人前で歌っていい歌ではない。 「コスモクリーナー」をオウムが作つたから「宇宙戦艦ヤマト」を見てはいけない、と云つた「理屈」は屁理屈である。上の意見には個人的に贊同出來ない。 「軍國主義への協力」のせゐかどうかは知らないが、佐藤の作つた詩や歌の資料は比較的手に入れづらい。幾ら現在の御時世には副はないからと言つて、安易に排斥するのはいかがなものか。私は日本の民主主義が餘りにも寛容でないのに不滿を覺える。 『満洲開拓歌曲集 第一巻』(監修・山田耕筰、編纂・満洲移住協会 一九四〇年)。この歌曲集は作詞では、北原白秋、白鳥省吾、佐藤惣之助、西條八十など、作詞では、山田耕筰、中山晋平などの大家を擁し、満洲の地に「興亜の大合唱」(緒言)を高唱しようという意図が見える。 今や、佐藤惣之助と云へば「阪神タイガースの歌」である。ウェブで檢索をかけると、阪神タイガースの歌(六甲颪)を掲載したサイトが數限りなく出て來る。 正式名は「阪神タイガースの歌」。作詞佐藤惣之助・作曲古関祐而は、巨人軍「闘魂こめて」と同じコンビである。 問題を聞いた瞬間、「これは作った! しかも、「六甲おろし」だけでなく、「闘魂こめて」の作曲者でもあるから、勘違いはないはず。」と自信を持って「古関裕而」を解答。ボードを上げてから一瞬間をおいて、岡村さんや沼屋がいる観客席側から「おお!」という歓声が上がる。神野は「三木露風」と、なぜか詩人を解答していた。自分の勝ち抜けを信じ、解答が読まれるのを待つ。正解として「古関裕而」が読まれたことによって、私が最後のPART2進出者となった。 宮沢賢治の『春と修羅』が世に出た時、ほとんど世間から黙殺されたが、辻潤と佐藤惣之助だけが話題にしたということである。 生前から賢治を高く評価し、その名を世間に広めた草野心平や詩友高村光太郎、また、「春と修羅」を絶賛した佐藤惣之助など、いつの世にも世間の風評に流されない、確かな目を持つ人間はいるものだ。 ところで、『春と修羅』出版後の紹介や批評記事のうち、大正十三年分では三つばかりその存在が知られている。一つ目は出版の約十日後の五月一日付「東京日日新聞」の新刊紹介記事(14)で、二つ目は七月二十三日付「読売新聞」で辻潤が「惰眠洞妄語(二)」において、三つ目は十二月発行の「日本詩人」で佐藤惣之助が「十三年度の詩集」においてそれぞれ批評をしている。それらの記事を全て同時期に賢治が読んだかどうかは詳らかではない(15)が、いづれにせよ、早い時期に『春と修羅』は少ないながらも評価がなされたことがわかる。 その後処女詩集「秋の瞳」が新潮社から出版される。この詩集を機に佐藤惣之助主宰の「詩の家」の同人となった。 法政大学に入学すると、はじめ詩人を志して佐藤惣之助の「詩の家」同人となり、『駿馬』などの詩集を出す。 詩は、北原白秋、西条八十等の詩誌「日本詩人」、佐藤惣之助主宰の詩誌「詩之家」等に発表し、詩人として評価される。 朝買い物に出たついでに、駅前のNTTギャラリーで「フォト百楽」というグループの写真展を見てきた。定年を過ぎた人たちの同好会でまだ3年しかたたないとのことだったが、なかなかどうして作品は心打つ見事な出来栄えだと感じた。また別会場の書道展では、「惣之助詩」と書かれていたので、多分佐藤惣之助の散文だと思うがいい詩だった。先生が書かれたものだそうだがいい筆使いで詩も映えた。「金堂の内の、幽かな幽かな壁画、薄い薔薇色で、花を持った天人、水から上がった女體」 越中おわら中興の祖といわれる初代おわら保存会会長の川崎順二が、ともすれば野卑に陥りがちだった当時のおわらの歌詞を立て直そうと、昭和初期に小杉放庵や野口雨情、長谷川伸、佐藤惣之助、川路柳虹等の著名な文人墨客らを私財を注ぎ込んで八尾に招き、「八尾四季」をはじめとする秀歌を詠ませ、現在のおわら歌詞の基礎を築いたといわれています。 昭和16年 東京重機工業社歌(作詞 佐藤惣之助)と云ふ記述が見られる。探せばまだほかにも見つかるだらう。 |
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