交響曲とは?/ ディック
[ 1139] 交響曲第9番 (ベートーヴェン) - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125(ドイツ語:Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125)は、ベートーヴェンの9番目にして最後の交響曲である。副題として合唱付きが付されることも多い。また日本では親しみを込めて第九(だいく)とも呼ばれる。第4楽章はシラーの詩『歓喜に寄す』が用いられ、独唱および合唱を伴って演奏される。その主題は『歓喜の歌』としても親しまれている。古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えたと同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的な大作である。 第4楽章の「歓喜」の主題は欧州連合の歌に制定されているほか、コソボ共和国の暫定国歌として制定、ベルリン国立図書館所蔵の自筆譜資料は2001年にユネスコの『世界の記憶』(『世界記録遺産』とも)リストに登録された。 元来、交響曲とはソナタの形式で書かれた器楽のための楽曲で、第1楽章がソナタ、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット、第4楽章がソナタやロンドという4楽章制の形式が一般的であった。ベートーヴェンはその交響曲の第3楽章にスケルツォを導入したり、交響曲第6番では5楽章制・擬似音による風景描写を試みたが、交響曲第9番では第2楽章をスケルツォとする代わりに第3楽章に瞑想的で宗教的精神性をもった緩徐楽章を置き、最後の第4楽章で4人の独唱と混声合唱を導入した。ゆえに「合唱付き」(Choral)[1]と呼ばれることもあるが、ドイツ語圏では副題は付けず、単に「交響曲第9番」とされることが多い。この第4楽章の旋律は有名な「歓喜の歌(喜びの歌)」で、フリードリヒ・フォン・シラーの詩『歓喜に寄せて』から3分の1程度を抜粋し、一部ベートーヴェンが編集した上で曲をつけたものである。交響曲に声楽が使用されたのはこの曲が必ずしも初めてではなく、ペーター・フォン・ヴィンターによる『戦争交響曲』などの前例があるものの、真に効果的に使用されたのは初めてである。 ちなみに、ベートーヴェン以降もなお、声楽付き交響曲は珍しい存在であり続けた。ベルリオーズやメンデルスゾーン、リストなどが交響曲で声楽を使用しているが、声楽付き交響曲が一般的になるのは第九から70年後、マーラーの『復活交響曲』が作曲された頃からであった。 まぎれもなくこの交響曲は、ベートーヴェンの最高傑作の一つである。大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった打楽器(シンバルやトライアングルなど)の使用、ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章(第3楽章)の存在、そして独唱や混声合唱の導入など、彼自身のものも含むそれ以前の交響曲の常識を打ち破った大胆な要素を多く持ち、シューベルトやブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えた。また、ベートーヴェンの型破りな精神を受け継いだワーグナーやリストは、交響曲という殻そのものを破り捨て全く新しいジャンルを開拓した。このように、交響曲作曲家以外へ与えた影響も大きい。 日本では、年末になると各地で第九のコンサートが開かれる。近年では、単に演奏を聴くだけではなく、実際に合唱を行う方に回る、参加型のコンサートも増えつつある。日本での圧倒的な人気の一方で、ヨーロッパにおいては、オーケストラに加え独唱者と合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は決して多くない。 ウィーン初演での演奏時間は、明確な数字が明らかでないが、1825年3月21日にロンドンで『第九』を初演したジョージ・スマートがベートーヴェンと会見した際の質疑応答の断片が「会話帳」に残っており、この63分が『第九』のロンドン初演時の演奏時間とされている[3]。 CD時代に入って、それまで重要視されて来なかった楽譜(普及版)のテンポ指示を遵守して演奏された『第九』が複数出現したが、ベンジャミン・ザンダー指揮ボストン・フィルによる演奏は全曲で58分を切った。研究家が考証を行なった古楽器による演奏では大概63分程度に収まっており、ほぼ妥当なテンポと見なされている。ただし、研究が進んでテンポの数字も代筆されたものという事が判明し、ベートーヴェンが望んだテンポが不明のままという可能性も出て来ている。 ベートーヴェンがシラーの詞『歓喜に寄す』にいたく感動し、曲をつけようと思い立ったのは、1792年のことである。ベートーヴェンは当時22歳であり、まだ交響曲第1番も作曲されていない時期であるが、ベートーヴェンは永きに亘って構想を温めていたことがわかる。ただし、この時点ではこの詞を交響曲に使用する予定はなかったとされる。 交響曲第7番から3年程度を経て、1815年頃から作曲が開始された。さらに1817年、ロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の委嘱を受け、これをきっかけに本格的に作曲を開始したものと見られる。実際に交響曲第9番の作曲が始まったのはこの頃だが、ベートーヴェンは異なる作品であっても何度も旋律を使いまわしているため、部分的にはさらに以前までさかのぼることができる。 当初、第4楽章は声楽を含まない器楽のみの編成とされる予定であり、声楽を取り入れたものは別に作曲を予定していた『ドイツ交響曲』(交響曲第10番)に使用される予定だった。しかしさまざまな事情によって、交響曲を2つ作ることを諦めて2つの交響曲のアイディアを統合し、現在のような形となった。歓喜の歌の旋律が作られたのは1822年頃のことである。なお、当初作曲されていた第4楽章の旋律は、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章に流用された。 初演に携わった管弦楽・合唱のメンバーはいずれもアマチュア混成で、管楽器は倍の編成(木管のみか金管を含むか諸説ある)、弦楽器奏者も50人ほどが集まり管弦楽だけで80 - 90名の大編成。合唱はパート譜が40部作成された事が判っており、原典版を作成したジョナサン・デルマーは「合唱団は40人」としているが、劇場付きの合唱団が少年・男声合唱団総勢66名という記述が会話帳にあり、楽譜1冊を2人で見たとすれば「80人」となる。 この作品は、当初はロシア皇帝アレクサンドル1世に献呈される予定だったが、崩御によりフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に献呈された。 ミサ・ソレムニスの「キリエ」「クレド」「アニュス・ディ」、「献堂式」序曲とともに初演された。ベートーヴェンはこの曲を当初、ウィーンの聴衆には自分の音楽がそぐわないと判断し、ベルリンでの初演を希望していた。だが、聴衆の署名活動等によりベートーヴェンはベルリン初演を思い留めた。 ベートーヴェンは当時既に聴力を失っていたため、ウムラウフが正指揮者として、ベートーヴェンは各楽章のテンポを指示する役目で指揮台に上がった。ベートーヴェン自身は初演は失敗だったと思って、演奏後も聴衆の方を向くことができず、また耳の病により拍手が聞こえなかったため、聴衆の喝采に気がつかなかった。見かねたアルトの歌手がベートーヴェンの手を取って聴衆の方を向かせ、はじめて拍手を見ることができた、という逸話がある。観衆が熱狂し、アンコールでは2度も第2楽章が演奏され、3度目のアンコールを行おうとして兵に止められたという話まで残っている。 初演は好評[4]であったが、その後は曲の長さが問題になり、特に第4楽章が理解不能という理由で、演奏機会に恵まれないでいた。実際にベートーヴェンも初演の後、第4楽章を器楽のみの編成に書き改める事を計画していた。作曲者の死後しばらくの間は、未完の交響曲のような扱いとして、第4楽章を除いて第1 - 3楽章までしか演奏されない事もあった。現在のような大衆的な人気が出たのは、ワーグナーによるこの曲のロマン派的な解釈の後である。 1918年6月1日に、徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所で、ドイツ兵捕虜による全曲演奏がなされたのが、日本における初演とされている。この事実は1941年に、この初演の2ヶ月後に板東収容所で第九(第1楽章のみ)を聴いた徳川頼貞が書いた『薈庭楽話』で明らかにされていたが、長く無視され、1990年代になって脚光を浴びた。映画『バルトの楽園』(出演:ブルーノ・ガンツ、松平健ほか)は、このエピソードに基づくもの。 東京音楽学校での初演については、この演奏を聴いた最後の生き残りであった作家の埴谷雄高によれば、「演奏中にコンサートミストレスの安藤幸子(幸田露伴の妹。姉の幸田延子ともども「上野の西太后」と呼ばれた)が早く弾きだした部分があり、演奏はガタガタとなってしまった」と証言している。 全員が外来演奏家による日本初演はカール・ベーム指揮のベルリン・ドイツ・オペラにより1963年11月7日、日生劇場にて行われた。 この演奏の終了後、行動的なファンがベームの足に抱きつき、ベームの身動きを取れなくしたハプニングもあった。 1937年にヨーゼフ・ローゼンシュトックが新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の音楽総監督に就任した際、「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏している」と紹介し、年末の演奏が始まった。実際に当時から現在まで年末に第九を演奏しているドイツのオーケストラとして、著名なところではライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が挙げられる。日本で年末に第九が頻繁に演奏されるようになった背景には、戦後まもない1940年代後半、オーケストラの収入が少なくて、楽団員の年末年始の生活に困る現状を改善したいと、合唱団も含めて演奏に参加するメンバーが多く、しかも当時(クラシックの演奏の中では)「必ず(客が)入る曲目」であった第九を日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)が年末に演奏するようになり、それを定例としたことが発端とされる[5]。1960年代から、国内の年末の第九の演奏は急激に増え、現在に至っている。 1872年、バイロイトに祝祭劇場を建設する際、その定礎の記念として選帝侯劇場にてリヒャルト・ワーグナーの指揮で第九が演奏された。その所縁もあり、第九はバイロイト音楽祭においてワーグナーの歌劇・楽劇以外で演奏される唯一の曲となっている。以後、何度か演奏されている。1933年リヒャルト・シュトラウス、1951年と1954年ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、1953年パウル・ヒンデミット、1963年カール・ベーム、2001年クリスティアン・ティーレマン。後述のように、1951年の演奏は「不朽の名演」として有名。 第二次世界大戦後の1951年、はじめてバイロイト音楽祭が再開された際、前述のようにヴィルヘルム・フルトヴェングラーが第九を指揮し、再開を祝した。この演奏がフルトヴェングラーの死後にレコードとして発売されると、日本の評論家達は大絶賛し、今でも「第九のベスト演奏」に挙げられることが多い。 1955年に、戦争で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建された際にも、ブルーノ・ワルター指揮・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で第九が演奏された。なお、再建のこけら落しはカール・ベーム指揮の歌劇『フィデリオ』だった。当初音楽監督のベームはワルターに『ドン・ジョヴァンニ』の指揮を依頼したが、ワルターが高齢を理由に辞退し、代わりに第九を指揮することになったものである。 1989年のベルリンの壁崩壊の直後の年末にレナード・バーンスタインが、東西ドイツとベルリンを分割した連合国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連)のオーケストラメンバーによる混成オーケストラを指揮してベルリンで演奏した。この際には、第4楽章の詩の"Freude"をあえて"Freiheit(自由)"に替えて歌われた。また、翌年のドイツ再統一の時の統一前夜の祝典曲としてクルト・マズア指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団がライプツィヒで演奏した。なおゲヴァントハウスでは毎年大晦日の16時半から、ベルリン・フィルのジルベスターコンサートに対抗して演奏され随時TV中継されている。 ピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンはベートーヴェンの交響曲では使用例が少なく、他に交響曲第5番、交響曲第6番で使用されているのみである。また、ホルンが4本、打楽器は他の交響曲では使われていないトライアングル、シンバル、バスドラムを使用しており、この時期の交響曲の編成としても最大級のものである。また、前述の通り声楽を交響曲に用いるのはきわめて奇抜なアイディアである。 指揮者ワインガルトナーの助言に従い、第3楽章終了後すぐに第4楽章を開始する指揮者が今なお多い。ただし初演された当時、ティンパニはペダルが無かったためチューニングが必要で、ホルン、トランペットも同様に管の交換に時間を要したので、少なくともこの方法は作曲当時にはあり得なかった。ジョナサン・デルマー校訂のベーレンライター版(後述)の校訂報告でもこの記述が有り、新しい楽譜を使う際、演奏楽器の新旧に関わらず第3楽章と第4楽章の間隔を空ける指揮者も増えつつある。 全体で約70分に及ぶ演奏時間に関わらず、声楽パートが用いられるのは第4楽章(終わりの約20分)だけである。そのため、ホールでの演奏時では、合唱および独唱は第2楽章と第3楽章の間に入場する場合が多い。また、合唱のみ冒頭から待機する場合もあるが、この際は休憩用の椅子が用意される。 もっとも、これは合唱に限ったことではなく、ピッコロ、コントラファゴット、およびティンパニ以外の打楽器も第4楽章だけしか用いられない。にもかかわらずこれらの奏者は第1楽章から舞台上で待機していることが多く、このことを「不公平」とする意見もないわけではない。この意見のもとでは、合唱・独唱も第1楽章から舞台上で待機することが要求されるか、あるいは打楽器奏者のみ合唱と同時に遅れて入場することが認められるような場合もある。管楽器の場合はこのようなことが認められることは滅多にない。 一般的な交響曲の「アレグロソナタ - 緩徐楽章 - 舞曲 - 終楽章」という構成と比べ、第2楽章と第3楽章が入れ替わり、第2楽章に舞曲由来のスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章が来ている。このような曲順は初期のハイドンなどには見られたが、次第に第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がメヌエット(舞曲)という構成が固定化して行き、ベートーヴェンによって再び取り上げられた形となった。以後この形式は定着し、後の作曲家はこの形式でも交響曲を作るようになった。全体の演奏時間は約70分であり、ベートーヴェンの交響曲中で最長である。 通常平行調または属調で現れる提示部第2主題が下属調の平行調になっている(通常のソナタ形式であれば第2主題はヘ長調で現れるべきだが、ここでは変ロ長調が使用されている。この調性は、第3楽章や第4楽章で重要な働きをする)。 再現部の冒頭が、展開部と第1楽章のクライマックスを兼ね添えていて、提示部のそれとかなり異なる雰囲気である。 冒頭の弦楽器のトレモロにのせて第1主題の断片的な動機が提示され、それが発展して第1主題になるという動機の展開手法は非常に斬新なものである。第1主題は、ニ音とイ音による完全五度を骨格とした力強い主題であり、この完全五度の関係は、この作品全体にわたって音楽に大きな律動感を与えている。 コーダの不気味な半音階オスティナートは、メンデルスゾーンの交響曲第3番や、とりわけブルックナーの交響曲第2番・第3番に強い影響を与えている。 曲調は第1楽章を受け継ぐような形で、第1楽章同様DとAの音が骨格になっている。弦楽器のユニゾンとティンパニで構成される序奏を経て、提示部ではフーガのようにテーマが絡み合い、確保される。 経過句ののち第2主題に移るが、主調が短調の場合、第2主題は通常平行調(ニ短調に対してはヘ長調)をとるところ、ここではハ長調で現れる。また、1小節を1拍として考えると、提示部では4拍子、展開部では3拍子でテーマが扱われる。 展開部ではティンパニが活躍する。このことから、この楽章はしばしば「ティンパニ協奏曲」と呼ばれることがある。ティンパニは通常、主調のニ短調に対してDとAに調律するところを、ここではFのオクターヴに調律されているのが独特である(ベートーヴェンは、既に第8番の終楽章(ヘ長調)で、Fのオクターブに調律したティンパニを使っている)。 中間部の旋律は、歓喜の主題に似ている。速度は更に速められてプレスト。オーボエによる主題提示の後、弦楽器群のフーガ風旋律を経てホルンが同じ主題を提示する。フルートを除く木管楽器群の主題提示の後、今度は全合奏で主題を奏する。 2つの主題が交互に現れる変奏曲の形式と見るのが一般的であるが、一種のロンド形式、また一種の展開部を欠くソナタ形式と見ることもできる。 瞑想的な緩徐楽章である。4番ホルンの独奏は、当時のナチュラルホルンでは微妙なゲシュトプフト奏法を駆使しなければ演奏することができなかった(ちょうど作曲当時はバルブ付きの楽器が出回り始めた頃だったので、この独奏はバルブ付きホルンで演奏することを前提にしていたという説もある)。これは当時ホルン奏者のみならず、指揮者なども大変気を遣った難しいパッセージであったことで有名。この楽章の形式は後世のブルックナーのアダージョ楽章に大きな影響力を与えた。そのほかにこの楽章と似ているのはメンデルスゾーンの交響曲第3番の第3楽章やブラームスのセレナード第1番の第3楽章、ドヴォルザークの交響曲第6番の第2楽章などがある。 第1楽章の葛藤、第2楽章の諧謔、そして第3楽章の瞑想に続いて、管楽器が強烈な不協和音を奏でて、終楽章が始る。しかし、すぐさま低弦(チェロとコントラバス)のレチタティーヴォがこれに答える。その後再び、管楽器が冒頭の音楽を奏でるが、再度低弦が答える。 管楽器が、この交響曲でそれまでに断片的に姿を現した動機を演奏し、この動機を基に、低弦が静かに第1主題(「歓喜」の主題)を演奏しはじめる。すると、ヴィオラがそれに続き、ファゴットとコントラバスの対旋律がそれを支える。さらに、歓喜の主題はヴァイオリンに渡され、四声の対位法によって豊かなハーモニーを織り成す。最後に管楽器に旋律が渡され、全管弦楽で輝かしく歌い上げられる。 再び冒頭部の厳しい不協和音が、今度は管弦楽の全奏で演奏される。バリトン独唱が低弦のレチタティーヴォと同じ旋律のレチタティーヴォで"O Freunde, nicht diese Tone!"(「おお友よ、このような音ではない!」)と、これを否定する。ここで初めて声楽が導入され、冒頭から繰り返された低弦のレチタティーヴォの意味が明らかとなる。(譜面には、このバリトン独唱部分には複数のメロディーラインが併記されており、あまり歌われないメロディーを選んだために音程が悪いと酷評されている大歌手もいる)歓喜の主題に続き、合唱が入る。 その次は久しぶりに純粋な管弦楽のみによる演奏が続き、一度静かになったあと、合唱が「歓喜」の主題を歌う。ここがいわゆる「第九の合唱」として有名な箇所である。 この終末に合唱が入る形式は後にメンデルスゾーン、リスト、マーラー、ショスタコーヴィッチなどが取り入れている。 この作品は、その斬新な作風から解釈やオーケストレーションについて多くの問題を含んでおり、19世紀後半のワーグナー、マーラー、ワインガルトナーといった名指揮者・作曲家によるアレンジが慣例化している。それらは演奏実践に有益な示唆を含んでいるが、同時に作曲当時には存在していなかった楽器法を取り入れた結果、曲本来の姿を伝える上では障害ともなっている。 また自筆スコアの他にスコア・パート譜から修正チェック用のメモ、テンポは会話帳の1ページに甥のカールによって記され、出版社への修正依頼が記された書簡まで数多くの筆写史料が残っており、微妙な違いが無数にあるため食い違いが作曲者の意図なのかそれとも写し間違いなのか決定しにくい点が問題となってきた。 『ミサ・ソレムニス』という更なる大曲と並行して作られ、また出版やウィーン以外の国でも初演される事が決まっていたという前提があり、加えて長年ベートーヴェンの筆跡判読を行なっていた筆写作業の統括者ヴェンツェル・シュレンマーが1823年に亡くなり作業は停滞する。後継の写譜師達からは仕事を断る者、途中放棄する者が出たほどである。自筆スコアが書き上がった後も初演に向けてベートーヴェンは執拗に改訂を行なった。自筆スコアとは別にスコア+パート譜が1825年までに3種類作られた。膨大な譜面の校正も困難で、ベートーヴェンも誤写を見過ごしてしまい、体調不良から校正を第三者に委ねようと依頼して断られるなど、混乱は初版第1刷発行後も続いた。 このような状況で1826年に出版された初版スコアは、その版下と比べて食い違いがおびただしい。修正刷りのチェックなど校正がほとんど行われなかったためとみられる。1864年に出たブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(ドイツ)の旧全集版は自筆スコア、筆写史料、初版に基づいて作成されているが、テンポの問題は解決されず、歌詞の誤り、写譜師の誤写や初版のミス、ベートーヴェンの改訂前の形を採用するなど問題が多く、さらに元の資料に無い同社独自の改変も見られる[6]。この改訂の実態は校訂報告が存在しないので長年この旧全集版こそ決定版と認識されて来たのである。 ベートーヴェンが死の直前にシントラーに贈った自筆スコアはシントラーの死後ベルリン国立図書館に収められたが、第二次世界大戦中に散逸。1924年に出版されたファクシミリ(写真版)を参照して修正を加える岩城宏之、クレンペラーなどの例も有った[7]のだが、旧全集版に慣れた考え方からすると自筆スコアに残る音形は奇異に思われる物も多く、なかなか全面的には受け容れられて来なかった。 20世紀末になると、東西ドイツの統合とソ連の崩壊に伴い行方不明になっていた資料が発見され、それらの素性も明らかにされて来た。『第九』に関しては残っているだけで20点もの原典資料が、ヨーロッパからアメリカの各地に散らばっていたのである。自筆スコアも'77〜90年代に大部分がベルリンに戻ったが、数ページがパリの国立図書館やボンのベートーヴェン研究所にあるなど分散している。 イギリスの音楽学者・指揮者のジョナサン・デルマーがこうした新旧様々な資料に照らし合わせて問題点を究明し[8]、この研究は楽譜化され1996年にベーレンライター社から出版された。自筆スコアから誤まって伝えられてきた音が元通りに直されたため、ショッキングに聴こえる箇所がいくつもあり大いに話題を呼んだが、ベートーヴェンの書きたかった音形を追求した結果、旧全集同様どの資料にも無い音形が数多く表れている点もこの版の特徴である。[9] 21世紀に入って旧ベートーヴェン全集の出版社であるブライトコプフ社もペーター・ハウシルトの校訂で原典版を出版した。こちらは先行するデルマーの版と同じ資料に基づきながらも、資料ごとの優先度が違い、異なる見解がいくつも現れている[10]。 いずれも国際協力と新しいベートーヴェン研究の成果、現場の指揮者や演奏家達の助言も入れて編集された批判校訂版である。また将来、ボン・ベートーヴェン研究所のベアテ・アンゲリカ=クラウス校訂による新ベートーヴェン全集の版がヘンレ社から刊行される予定である。 時計じかけのオレンジ - 主人公が大好きな曲として使われ、シンセサイザーやオーケストラで演奏され、BGMとして使われた。 ショスタコーヴィチ:映画音楽「五日五夜」中の曲「ドレスデン解放」 - 心から喜びきっていないかのような、変な対旋律をつけて引用している。 ヘルプ!4人はアイドル - リンゴ・スターが地下壕に閉じこめられトラに襲われそうになるが、歓喜の主題を聴くとトラはおとなしくなり危機を回避する。 新世紀エヴァンゲリオン - 第弐拾四話「最後のシ者」での使徒侵攻時のBGMとして使われた。因みに本編でのBGMはこれ1曲だけである。歌詞と内容が微妙にリンクしている事で有名。 東京ゴッドファーザーズ - ムーンライダーズのアレンジにより、独自の歌詞が当てられ、エンディング曲として使われた。 のだめカンタービレ - 第2話で第1楽章が演奏された。また、第4話でもフランツ・フォン・シュトレーゼマンがAオケのリハーサルで第1楽章の指揮をした。 長野オリンピックの開会式では、長野県県民文化会館での小澤征爾の指揮による演奏(ソリストを含む)に合わせて、開会式場の合唱団及び五大陸の合唱団が、衛星同時中継により、第4楽章を演奏・合唱した。 上海太郎舞踏公司B - 第4楽章を「風呂屋で」という曲名でカバー。原曲のドイツ語の歌詞を、空耳によって関西弁で歌っている。 ^ 1979年からCD の開発に当たったフィリップスとソニーはディスクの直径を11.5cmとするか12cmとするかで何度も議論を重ねており、大きさを基準に考えるフィリップスに対し、記録時間を優先したいソニーで話し合いは難航していた。11.5cmであることの様々な利便性は明らかであったが、最終的に「第九が入らなくては」との意見が出され12cmに決定したというもの。ヘルベルト・フォン・カラヤンが自分の第九交響曲の録音がちょうど収まる大きさにするよう圧力をかけた、とする説[要出典]もある。実際のカラヤンの演奏時間は60分台で、カラヤンのライバルで、70分超えで演奏することが多かったカール・ベームの第九が時間オーバーで収まらなくなるようにするためでもあったという説[要出典]もある。 ^ この次に「45分」という記述もあるが、実行するにはあまりに速過ぎるという事で『第九』全曲の演奏時間とは見なされていない。また第1楽章のテンポも「4分音符=88」が採用されているが、自筆スコアでは「メルツェル=108から120」という数字が書かれており、実行すれば3分以上の短縮になる。これも不自然に速過ぎ、恐らくベートーヴェン自身の勘違いと考えられている。 ^ 繰り返された喝采やアンコール、会話帳に残るベートーヴェン周辺の対話が好評であったとする根拠になっているが、「ベートーヴェンの愛好家ばかりが騒いでいた」という否定的な証言もある。さらに総練習の回数が2回と少なく、管楽器のエキストラまで揃ったのが初演前日とスケジュール上ギリギリであったこと、演奏者にはアマチュアが多く加わっていた事(長年の戦争でプロの演奏家は人手不足だった。例えば初演の企画段階でも「ウィーンにはコンサート・ピアニストが居ない」と語られている)、さらに合奏の脱落や崩壊を防ぐためピアノが参加して合奏をリードしていた事実から、演奏の完成度には疑問の余地がある。過去1809年の『合唱幻想曲』の初演では実際に合奏が崩壊し、最初から演奏し直している。 さらに5月23日に会場をより大きなレドゥーテンザールに移して催された再演は、会場の半分も集客出来ず大失敗。ウィーンの聴衆の受けを狙ってロッシーニのオペラ・アリアを入れた事、昼間の演奏会だったので人々がピクニックに出かけてしまった、などの理由を述べた書き込みが会話帳に残っているが、新聞批評(「聴衆に深い感動を与えた」という内容だが、記事そのものは初演から2か月近く経ってようやく掲載された)に載っているような傑作と当時の聴衆の多くが見なしていなかった事の表れでもあろう。 なお初演の収入は会場使用料や写譜代金などを差し引いて420グルデンという数字が伝えられている。シンドラーの「2000グルデンは儲かる」という話をはじめとして「成功間違い無し」と周囲に吹き込まれて開いた演奏会でもあり、この金額はベートーヴェンには明らかに少なかった。再演ではあらかじめ1200グルデンがベートーヴェンに支払われている。後年プロイセン王への献呈の際、ベートーヴェンに指輪が贈られたが、鑑定させて300グルデンと判るとベートーヴェンは安過ぎると怒り、売り払ってしまった。 ^ 黒柳徹子は父黒柳守綱(新交響楽団(現在のNHK交響楽団)の元コンサートマスター)から聞いた話として、学生合唱団を加えた演奏を行うことにより、合唱団員の家族などがチケットを購入することで年末の演奏会の入場者数を増やして、楽団員のもち代を稼ぐというアイディアだったと説明している。「TOKYO発 年末第九再発見−演奏年200回超 誕生を探る」 東京新聞 2007年12月25日朝刊、中日新聞東京本社。 ^ 第1楽章81小節の改変などはどの資料にも存在せず、本格的な原典版が演奏された時には衝撃をもって迎えられた。 ^ 有名なのが第1楽章300小節のティンパニとトランペット。自筆スコアでは16分音符だが筆写時の誤りで以降の版が全て8分音符になっている。第3楽章の旋律、第4楽章330小節のティンパニに付けられたデクレッシェンドの処理なども聴いて判りやすい。 ^ その研究を参考に音楽学者・指揮者の金子建志も演奏史を含めて自らの著作で言及している。この研究は実際に原典資料を演奏に用いるなどの実践に裏付けられたものである。 ^ この版の出版直後「ベーレンライター版使用」と明記した演奏・録音が流行したが、デルマー版は演奏者が違和感を拭えない箇所が随所にあると見なされ、実際には「新版の改訂を一部だけ採用し、大部分は旧来の楽譜のまま」という扱いだった。昨今では「ベーレンライター版使用」と銘打つ演奏会は鳴りを潜めている。 ^ 例えば先述の第4楽章330小節について、デルマーは自筆スコアにはデクレッシェンド無し、残存する初演用弦楽器パート譜には全て、初演用のスコアではティンパニだけ、とまちまちである事、また諸説ある初演の合唱団人数を少なく見積もった上「ティンパニに合唱がかき消されないよう、その場で指示された処置ではないか」と考えてこの指示を削除したが、ハウシルトは最後発の筆写スコア(ベートーヴェン自身が校閲したプロイセン王への献呈譜。クルト・マズアらが参照している)に従い、合唱以外の全楽器にデクレッシェンドをつけている。 ベルリン国立図書館収蔵の自筆スコアは、2001年の世界遺産(正確には『世界の記憶』。『世界記録遺産』とも)登録後はインターネット上に公開され、全ページの閲覧が出来る。 初演にも使われた初版用筆写スコアはショット社が2003年に売却、ロンドン・サザビーズのオークションで190万ポンド(当時約310万米ドル=約3億6500万円)で匿名氏によって落札され、同社による音楽資料の落札価格最高値を更新した。こちらもジュリアード音楽院の手稿譜コレクションとしてインターネットを通じて閲覧出来る。 ベートーヴェン研究所もショット社の初版スコア/パート譜/ヴォーカルスコア(ピアノ伴奏が付いた声楽用簡易スコア)などを公開している。作品に関する書簡も解読された文面とともに公開されている。 |
[ 1140] 交響曲 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2
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原則として4つ程度の楽章によって構成され、そのうちの少なくとも1つの楽章がソナタ形式であることが定義であるが、特に近現代においては、例外も多い。 17世紀イタリアでオペラの序曲がシンフォニアと呼ばれていたが、G.B.サンマルティーニがこの序曲のみを独立させ、演奏会用に演奏したのが起源とされる。また、バロック時代の合奏協奏曲(特にコンチェルト・シンフォニア、サンフォニー・コンセルタンテ)も交響曲の成立、発展に影響を与えたとも考えられる。特にスカルラッティによるイタリア式序曲は「急−緩−急」の3部からなり、この3部分が後に楽章として独立することとなる。これはヴィヴァルディやペルゴレージに受け継がれ発展し、ガルッピらによってソナタ形式の楽章を持つ楽曲形式として発展していった。さらに、マンハイム楽派のシュターミッツやカンナビヒによってさまざまな管弦楽手法が研究され、エマニュエル・バッハらによってメヌエットの楽章が付け加えられるなどし、古典派音楽へとつながった。 古典派により交響曲の形式は一応の完成を見た。ハイドンは「交響曲の父」と呼ばれ、軽快で明確な形式を持つ交響曲を(番号のついたもので)104曲残した。同時期にモーツァルトは第41番までの交響曲を残しており、後期のものは特に重要であるが、初期のものは父レオポルトの手が入っており、どれだけが独自のものか不明である。 ベートーヴェンは、第3楽章に使われていたメヌエットをスケルツォに変え、古典派の交響曲の形式を完成させた。交響曲第5番ハ短調(運命)ではピッコロ、コントラファゴット、トロンボーンの導入により音響の増大を図ると共に、第3楽章と第4楽章を続けて演奏することを指示した。交響曲第6番ヘ長調「田園」においては楽章の数を5つにし、各楽章には場面や内容を表す「標題」が付けられた。これについてベートーヴェンは、単なる風景を描写したものではなく人間の内面を表現したものだと言っており、次第にロマン派的傾向を強めていったことがわかる。最後の交響曲第9番では、終楽章で独唱と合唱、そして複数の打楽器を新たに取り入れ、さらに緩徐楽章とスケルツォの順番を逆にするなどの斬新な手法で、古典派における交響曲の頂点に達した。 ロマン派の時代には、交響曲が人間の内面を表現する手段となる。ドイツ系の作曲家であるシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンの交響曲は、ベートーヴェンの影響が大きく形式上の大きな発展は見られなかった。一方ベルリオーズは「幻想交響曲」において巨大なオーケストラを想定したり、固定楽想(フィクス・イデー)を導入するなど、ロマン派における交響曲の大規模化の発端をつくった。これに対しブラームスは、厳格なソナタ形式と弦楽器を中心にしたオーケストラの響きを重視した「新古典主義」的態度をとった。またロマン派時代においては、緩徐楽章が近親調だけでなく、より遠い関係調となったり、ベートーヴェンの第7番で試みられたようにスケルツォ楽章が近親調や、より遠い関係調となる例も多くなった。これは交響曲のみならず、独奏ソナタや室内楽曲についても同様である。 ベルリオーズの交響曲『イタリアのハロルド』のように実質的には半ば協奏曲という作品もある。ラロの『スペイン交響曲』などは「交響曲」と名付けられているものの、実際にはヴァイオリン協奏曲であり、交響曲とは見なされていない。 ブルックナーにおいては、ソナタ形式が拡大され、従来の2つの主題に加えて第3主題をもつようになった〔ブルックナー形式〕。管弦楽手法としては、尊敬するワーグナーの影響から金管楽器が華麗に響くような巨大なオーケストラを使用すると共に、オルガンの奏法を応用した大胆なユニゾンや和声的展開を用いた。ウィーンの大学で彼の講義を受けていたマーラーにおいては単なる主題から『主題群』に発展し、管弦楽の規模の拡大(4管編成から5管編成まで)、自作の歌曲集からの引用、独唱や合唱等の声楽を含めたことが特徴的である。また、最終楽章も主調ではないことがあり、最終的には主調にたどり着いて終わるもの(第1番、第6番、第10番)もあるが、平行調で終わるもの(第2番、大地の歌)、半音上の調で終わるもの(第5番、第7番)、半音下の調で終わるもの(第9番)などもあり、調の扱いについても極限にまで拡大、または解体されている。交響曲第8番は、初演で独唱者7人と少年合唱、さらに2つの混声合唱団を伴った1千人余りによって演奏されたことから、『千人の交響曲』の異名を持つ巨大な作品である。リヒャルト・シュトラウスは初期に2曲の絶対音楽としての交響曲を書いているが、あまり注目されず、その後書かれた『家庭交響曲』や『アルプス交響曲』は初期の交響詩群を拡大させた標題音楽という意味で極めて高く評価されている。 国民楽派、民族楽派に分類される作曲家は後期ロマン派と時代が重なるが(広い意味でのロマン派でもある)、交響曲は彼らにとっても重要な表現手段であり、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ、グラズノフ、スクリャービン、シベリウス、ニールセン、エルガー、ヴォーン・ウィリアムス、バックス、ハチャトゥリアン、シマノフスキらがそれぞれ3曲から9曲の交響曲(未完のものを含む)を残している。あまり注目されないが、ミャスコフスキーは27曲の交響曲を残しているし、ブライアンはその交響曲第1番「ゴシック」で8管編成による当時史上最大の交響曲を残している。 現代においても交響曲というジャンルは残っているが、内容的に大きな変貌を遂げたものも含まれている。新ウィーン楽派においてはシェーンベルクの室内交響曲のような形式の変容や、ヴェーベルンの交響曲作品21のように完全に音列技法に組み入れられたのもある。ソナタ形式の伝統に連なる交響曲作家としては、20世紀のプロコフィエフとショスタコーヴィチが、今のところ最後の双璧である。以降も(古典的な意味での)交響曲を主たる表現手段とする作曲家はいるが、現代音楽の中心的な存在とはなっていない。 アイヴズの6つの交響曲(最後のユニヴァース交響曲は未完)、コープランドの4つの交響曲、メシアンの『トゥランガリーラ交響曲』、グレツキの交響曲第3番『悲しみの歌の交響曲』などの曲は有名であるが、形式や内容はロマン派の交響曲からは大きな隔たりがある。韓国の最初の大作曲家であるユン・イサンの交響曲は5曲あるが、本人は最後の題名付けに大変悩み、苦し紛れに半ばでっち上げで「交響曲」としたもので、内容を意識した物ではないとの見解を1990年当時示していた。 それでも現在も交響曲が作曲され、フィンランドの作曲家・指揮者のレイフ・セーゲルスタムは史上最多の150曲以上の交響曲を量産している。 日本における交響曲の受容は、山田耕筰が交響曲「かちどきと平和」を作曲したのが初めで、その後金井喜久子の、日本の女流作曲家として初めての交響曲(第1番。第1楽章?第3楽章は1940年初演、第4楽章は未完)の作曲を経て、別宮貞雄、團伊玖磨、黛敏郎、吉松隆などが交響曲を作曲している。 複数の交響曲を作曲した作曲家の交響曲は、一般的には作曲者自身によって作曲順に「交響曲第○番」というように番号が付けられることが多い。しかし、場合によっては作曲者自身でなく、出版社が付与する場合,後世の研究者が付与する場合などがある。 作曲者以外が番号を付与した場合、番号付与時点で把握されていない交響曲があったり、出版社が作曲順でなく出版順に番号を付与したりすること(ドヴォルザークの交響曲第5番など)も少なくない。この場合は、後に番号が付け替えられることもある。 また、ドイツ・オーストリアでは、モーツァルトの協奏曲やシューベルトの交響曲など、元は番号がついてなかった作品は番号無しで調性、およびケッヘル番号やドイッチュ番号などの作品番号だけで呼んだりすることもある。 ハイドンやモーツァルトにおいては、交響曲が音楽以外のものと結びついた標題を予め与えられることは、一部の特殊な製作事情をもつ作品を除き、ほぼなかった。これは交響曲が絶対音楽として成立していたことを示す。 ハイドンにおいては、第45番『告別』や第94番『驚愕』・第101番『時計』・第104番『ロンドン』などの名前を持つものがあるが、これは曲の特徴や初演された場所を愛称として付したものであり、標題の内容を音楽として表現したものでないため、絶対音楽と言える。モーツァルトの第31番『パリ』・第35番『ハフナー』・第41番『ジュピター』なども同様である(第35番はハフナー家のために作曲された)。ただし、ハイドンの第6番『朝』、第7番『昼』、第8番『晩』は、当時仕えていたエスターハーズィ侯爵から題を与えられて作曲したものであるとされ、標題音楽的側面も持つといえよう。また、第8番『晩』の第4楽章にはハイドンによって『嵐』という標題がつけられている。 ベートーヴェンは、第3番『英雄』・第6番『田園』において自ら標題を与えるというやり方を開始した。第3番は、最初『ボナパルト』と題されて作曲されたことからも、ナポレオン・ボナパルトを念頭においた標題音楽であると言うこともできる。なお、第5番『運命』、第9番『合唱(合唱付き)』は後世の人が与えた愛称であり、標題ではない。ただし、第9番はシラーの詩による「歓喜の歌」を含み、その言語により意図していることは明確であり、絶対音楽ではない。 ベルリオーズは『幻想交響曲』において、1人の女性の幻影につきまわれるという筋立てのもと、女性の幻影を旋律にし、固定観念(イデー・フィクス)として用いた。5つの楽章は「夢と情熱」、「舞踏会」、「野の風景」、「断頭台への行進」、「悪魔の祝日と夜の夢」という副題を持つ。この曲は、後の交響詩の発展の先駆けともなった。 シューマン、メンデルスゾーンの交響曲も標題を持つものがあるが、形式的には絶対音楽の範疇にとどまっている。 ブルックナーはかたくななまでに絶対音楽の形式を守ったが、マーラーは標題付きのものと絶対音楽の両者の交響曲を残している。マーラーの交響曲には声楽を含むものも多く、意味のある歌詞を含むようになった以上、それらは絶対音楽ではあり得ない。また、最終的に標題を削除した交響曲についても、作曲の過程で標題を意識したものがほとんどであり、いずれの交響曲も大なり小なり標題性を持つといえる。 リストの『ファウスト交響曲』と『ダンテ交響曲』、シベリウスの『クッレルヴォ交響曲』、マーラーの交響曲『大地の歌』、チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』など、番号付き作品の系列外に標題を持つ作品もある。 エドゥアール・ラロの『スペイン交響曲』(ヴァイオリン協奏曲第2番)、ヴァンサン・ダンディの『フランスの山人の歌による交響曲』、伊福部昭の『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』など、実質は独奏楽器と管弦楽のための協奏曲であるが規模の大きな作品を、あえて交響曲と呼ぶ例もある。 ブリテン(イギリス) - シンフォニエッタ、シンプル・シンフォニー、シンフォニア・ダ・レクイエム、春の交響曲 18世紀に多く書かれたジャンル。カンビーニ、シュターミッツらに数多くの作品がある。ハイドンやモーツァルトのものがよく知られている。 シャルル=マリー・ヴィドールらフランスの作曲家によるオルガン独奏曲にSymphonie pour orgue(オルガンのための交響曲)と名付けられたものがある。これらは通常の交響曲とは別のものであり、「オルガン交響曲」または「サンフォニー」と呼んで区別する。なお、ヴィドールのサンフォニー第5番第5楽章「トッカータ」は特に有名で、演奏機会も多い。後世のイギリスの作曲家ソラブジには3つのオルガン交響曲があるが、演奏時間が桁違いに長く、2時間から6時間40分もかかる。 ソラブジは長大な演奏時間を要する数曲の「ピアノ交響曲」を作ったが、同じく数時間かかるピアノ・ソナタや6管編成などのオーケストラ伴奏付きのピアノ協奏曲などの延長上の作品、またはそれらを遥かに超えた作品としてみることが出来る。 |
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