丹波とは?/ ディック
[ 853] 丹波哲郎 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%93%B2%E9%83%8E
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本名は、丹波正三郎。東京・大久保の名家の三男。祖父敬三は大正時代を代表する薬学者として知られ、系図を遡ると平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着くという(丹波国の農民だから丹波と名乗ったとの説もある)。 成城学校(新宿区原町)を卒業、中央大学法学部英法科卒業。在学中に学徒出陣・GHQ通訳のアルバイトを経験。卒業後は団体職員となるも俳優を志し、創芸小劇場、文化座を経て、1952年「殺人容疑者」(新東宝)にて主演級の役でデビュー。その後は脇役ばかりの日々を過ごすが、敵役・悪役としては主役俳優を圧倒してしまうほどの強烈な存在感を見せた。 オールスター映画の常連であり特に権力者など上層部の人間の役を得意としていた。また、そのような権力者役で数秒の特別出演をすることが非常に多かった。 2005年2月から約2ヶ月間、インフルエンザと虫垂炎のために入院し、それが原因でひどく痩せ、健康が懸念されていた。丹波は死去する前に霊界はすばらしいところなどと遺言を残したという。 日本ではあまり知られていないが海外、とくにヨーロッパでは俳優、プロデューサーとして「テツロー・タンバ」の評価は高い。主演も多い大物映画俳優としては屈指の出演本数の多さであり、仁義なき戦いシリーズでは写真だけの出演もあった。彼の本によると『人間革命』(創価学会の池田大作原作)でシリアスな宗教家を演じた時期に東映の「ポルノ時代劇 忘八武士道」(石井輝男監督)にも主演していた。 『人間革命』出演後、創価学会の大会に招待された際、創価学会の活動をさかんに顕揚する講演をした後で「南無阿弥陀仏」としめくくり、場内を騒然とさせたという、丹波は著書に、自分のオッチョコチョイな性格を示す逸話として、この失敗談を載せている。 出演依頼は二度断り三度目に応諾する、5ページ以上台詞のある仕事は受けない、というスタイルを守っていたとされる。マネージャーの条件は「仕事を取って来ないこと」で、仕事を取りすぎるという理由で解雇されたマネージャーも複数いたという。 近年では、出演する映画やテレビドラマでは出演者紹介のクレジットはいつも最後に登場するか、「特別出演」となっていることが多かった。キャリアや年齢、役柄からそうなっているが、そのような待遇でないと出演しなかったとの説もある(ただし、2002年の「釣りバカ日誌13」に出演した際のクレジットは、シリーズ物へのゲスト出演という関係からか三國連太郎の前で連名表記の三番手となっていた)。 現場では台詞を覚えてこないことで有名であった。何故セリフを覚えてこないのかと訊かれ、「仕事は家庭に持ち込まない主義だから」と答えた。撮影ではカンニングペーパーが準備された。 丹波の乗った車が交通違反で停められた際、丹波が警察官に「Gメンの丹波だが」と言ったエピソードは有名。この時の違反はスピード違反と語られることが多いが、丹波自身の談話によると、一方通行の逆走だったとのことである[1]。 右目、右手が無い剣士、丹下左膳を演じる際、撮影の時に殺陣がやりにくいから左手、左目がないことにして刀を右で持つ、という提案をし、世間を驚かせた。歴代の丹下左膳の中でも右手なのは彼が演じる丹下左膳のみである。 心霊学の他、催眠術への造詣も深く、自ら催眠術を操れたという。新東宝時代、社長の大蔵貢と会食した際、彼の愛娘に対し催眠術を掛けてやると持ちかけ、慌てて大蔵に止められた事がある。これは、当時大蔵が自社の女優を手当たり次第物色していたとして物議を醸していた最中の事であり、この一件はこのような大蔵の姿勢に対し、丹波が催眠術を掛けて逆に娘を物色するぞと皮肉ったものとされる。 ワンマンで名高い松竹の城戸四郎社長を影でシロウちゃんと呼んでおり、不在の本社を訪ねては「シロウちゃん、いるかい」とふざけていたら、偶然本人がいたのでこの映画界のドンとモメテしまったとされる(キネマ旬報「大放言」より)。但、城戸を偏屈だが愛すべき人物として敬愛してもいたらしい。 俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。しかし、「こんな事はタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。彼の葬儀が行われた際、愛人とその子供が弔いに訪れた。実子である義隆は、これを気遣って敢えて席を外し、二人に別れの一時を与えたという。丹波は、二つの家族を分け隔て無く愛した故の出来事と言える。 葬儀の際、義隆の長男が「祖父はいつも女性の身体を触っていた」と暴露。被害者(?)は義隆の夫人のみならず孫娘2人など多岐に渡っていた模様。しかし当の本人達は笑って回顧していたことから、決して陰湿なものではなかったようである。 川上哲治(著書の中で豪放な丹波にしては珍しく軍隊時代のリンチの恨みを語っている。その相手がドン川上である) |
[ 854] 丹波国 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E5%9B%BD
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丹波国(たんばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、山陰道に位置する。現在の京都府中部と兵庫県東辺の一部、および大阪府高槻市の一部・大阪府豊能郡豊能町の一部にあたる。丹後国とあわせて、あるいは単独で丹州(たんしゅう)と呼ばれることがあった。延喜式での格は上国、近国。 丹波ははじめ「たには」と呼び、古くは田庭・谷端・旦波とも書いた。5世紀ころ四道将軍の遠征により大和朝廷に服属したとされる。 丹波国南部の亀岡盆地は太古は大きな湖であり、風が吹くと美しい丹色の波が立ったところから、このあたりを丹のうみ・丹波と呼ぶようになったとされており、出雲神話で有名な大国主命が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地を干拓して、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」の名前にちなみ「保津川・保津峡」と名付けたという伝説も残っており、出雲大神宮(亀岡市千歳町)の祭神となっている。[1]事実、湖だったことを示す地層も明らかになっている[2]。 6世紀ころには「丹波」の名のつく女性が天皇の后となっていることから古代より丹波の名称はあったらしい。7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部および中部の東辺に及んでいた。この時は現在の丹後、但馬も同国に含まれている。現在では丹波・丹後・但馬を三丹と総称することもある。 丹波国は大まかに言って亀岡盆地、由良(福知山)盆地、篠山盆地のそれぞれ母川の違う大きな盆地があり、互いの間を山地が隔てている。このため、丹波国は甲斐や尾張、土佐のように一国単位で結束した歴史を持ちにくい性質があり、丹波の歴史を複雑化した。地域性として亀岡の南丹(口丹波)地方は山城・摂津、中丹は丹後、篠山の兵庫丹波は摂津・播磨に密接に係わっている。 丹波国は古くより京都の出入口に当たる地理的条件から各時代の権力者から重要視され、播磨や大和などと並んで鎌倉時代の六波羅探題や江戸時代の京都所司代などの支配を受けた。ただそれだけにひとたび都で戦乱が起こった時は戦乱にすぐ巻き込まれた。そして篠村(亀岡市篠町)では、鎌倉時代末期には足利尊氏が挙兵し、安土桃山時代にも丹波亀山城主の明智光秀が本能寺の変へと向う際にそれに倣ったとされるなど、時代変革の舞台ともなった。さほど有名ではないが、戦国時代に八上城の波多野氏は丹波諸豪族をまとめると、これを率いて山城など周辺諸国に進出したこともある。 江戸時代は一国を有する大名は出なかったものの一国7藩(丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩(八上藩)、丹波柏原藩、福知山藩があった。そのうち、丹波亀山藩と篠山藩については松平氏や青山氏を中心として譜代大名による移封が多く、藩主が老中や寺社奉行、京都所司代、大坂城代を歴任するなど徳川幕府の重視する藩であったことがわかる。 明治維新の際、桑田郡山国郷(現在の京都市右京区京北)で勤皇を標榜する山国隊が、桑田郡馬路村(現在の亀岡市馬路町)では弓箭隊が結成され、山陰道鎮撫総督西園寺公望に従って各地を転戦した。このとき、弓箭隊の郷士の息子である中川小十郎(後の立命館大学の創立者)が西園寺と出会うことになる。 国府は桑田郡にあり、現在の亀岡市千代川遺跡または南丹市八木町屋賀(旧船井郡八木町屋賀)または亀岡市三宅町(国衙との説もある)にあてる説があるが、未だ確定していない。 一宮は出雲神社(出雲大神宮)で、二宮以下は存在しない。総社は京都府船井郡八木町(現南丹市)の宗神社とみられる。 南丹または口丹(くちたん:全域丹波)=亀岡市・南丹市(旧船井郡園部町・八木町・日吉町、北桑田郡美山町)・船井郡 中丹(ちゅうたん:丹波と丹後にまたがる地域)=福知山市・綾部市・舞鶴市(旧天田郡・旧何鹿郡・旧加佐郡) 丹波の範囲は、現在の兵庫県側は篠山市及び丹波市で人口・面積ともに全体の2割弱、京都府側は亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町、綾部市、福知山市であるので、兵庫県部分より京都府部分のほうが広大。 兵庫丹波・京都丹波と分類することは現在の行政区分により丹波が2府県にまたがるためである。 そもそも丹波は、中央集権体制を進める明治政府の大久保利通らにより、但馬・丹後を含め似通った地域性を無視して2府県に分けられた。亀岡市及び旧船井郡園部町、八木町を除き府県庁所在地から遠くはなれ、両府県および国の施策からは重きを置かれずにいたので、高度経済成長期にいっそうの過疎化が強まった。 なお、1871年(明治4年)11月2日〜1876年(明治9年)8月21日の約5年間は、桑田、何鹿、船井3郡および山城が京都府、氷上、多紀、天田3郡および但馬、丹後が豊岡県と言う構成であった。豊岡県を二分し、天田郡と丹後が京都府、氷上、多紀2郡と但馬が兵庫県に編入されることになったのは旧出石藩士の桜井勉氏の案であるが、当初桜井氏は豊岡県全域と飾磨県(播磨)との合併を進言したようである。 丹波の名を広めたのは旧丹波国全域であり、「丹波黒豆」や「丹波松茸」などの丹波ブランドを確立したと自負している篠山市に加え、京都府内の首長からも反対の声があったにも関らず[3]、2004年(平成16年)11月、旧氷上郡が町村合併で周囲の反対を押し切る形で丹波市を名乗った。(歴史的に旧丹波国の中心であった亀岡市からは反対の声がなかった。理由として、1980年代の人口の急増で京都や大阪の衛星都市としての性格が強くなったことが挙げられる。)2004年当時、丹波町(京都府)が存在していたが、市町の違いがあるので、競合そのものに法律上の問題はなかったが、丹波町が周辺の町と合併して京丹波町が発足した2005年(平成17年)10月11日をもって、丹波市・丹波町の並存は解消した。 兵庫県南部の天気予報では、播磨の北側、つまり北播(ほくばん)と丹波(兵庫丹波)を一体化し北播丹波(ほくばんたんば)として警報や注意報を出しているので、天気的には同一と見られていることとなる。北播磨と兵庫丹波が仲良くしている珍しい例である。 播磨と兵庫丹波が仲良くない例として、兵庫丹波の人間が「ばんしゅうもん」という呼称で播磨の人間を呼ぶことがある。逆に播磨の人間は「たんばもん」と丹波の人間を呼ぶことがある。兵庫丹波が京都言葉の流れを組み、播磨が播州弁を使っていることが遠因かもしれない。行政上は、西脇労働基準監督署が丹波市も管轄しているなど、現在では境界はなくなりつつあるが、播磨と丹波の境界はまだまだあるようである。 丹波と丹後をあわせて両丹(りょうたん)、丹波と但馬をあわせて但丹または丹但(たんたん)、丹波と丹後、但馬をあわせて三たん(さんたん)と呼ばれる。「柏原の厄除大祭は三たん一のお祭り」などと表現される。 北近畿_(列車)#福知山線優等列車沿革 : 福知山線経由で新大阪駅・大阪駅〜城崎温泉駅・豊岡駅・福知山駅・天橋立駅間を運行した急行列車「丹波」が掲載されている。 |
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