不二夫とは?/ ディック
[ 906] 赤塚不二夫 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A1%9A%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E5%A4%AB
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他の追随を許さない卓越したギャグ漫画センスの持ち主であり、バカボンのパパ、イヤミ、ニャロメ、ケムンパス、ベシ、ウナギイヌなどのマンガ史に名を残す個性的なキャラクターを生み出した巨匠である。 1935年に満州国の熱河省において出生。「バカボンのパパのモデル」とも言われる父親は、憲兵であった。幼少時から手塚治虫作品などを読み、12歳で『ダイアモンド島』というSF巨編を書き上げ、出版社へ持ち込むがダメ出しされる。第二次世界大戦の終戦後、日本に引き揚げ。新潟県や奈良県などで暮らした後、19歳の時に上京。江戸川区の化学工場に勤務する傍ら漫画を漫画少年へ投筆し、その漫画が石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)の目に留まる。石森が主宰する「東日本漫画研究会」の同人となるが、つげ義春の勧めもあり貸本漫画家として一本立ちする事を決意。同人のよこたとくおと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動する事となり、1956年曙出版から書き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビュー。その後、赤塚も上京した石森を手伝う形で鈴木伸一や藤子不二雄らのいた豊島区のトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。しかし、当時の赤塚は石森の漫画のアシスタントの傍ら、数ヶ月に一本程度の少女漫画を描いていたが鳴かず飛ばずの日々が続いていた。そんな中、まんが王(秋田書店)の穴埋めのために描いたギャグ漫画『ナマちゃん』(1958年)がヒットしてそのまま連載扱いになり、それ以降はギャグ専門として展開して行く事になる。当時、トキワ荘一の美青年として認識されていた。 中でも、初期代表作『おそ松くん』の特にイヤミの「シェー」のポーズは当時の日本で知らない人はいないほどの爆発的な人気を巻き起こし(ジョン・レノンや皇太子徳仁親王、さらにはゴジラまでが「シェー」をした。[2])、赤塚を日本を代表する漫画家にした。1950年代 - 60年代生まれの男性の多くが、子供の頃記念写真を撮るときはふざけて「シェー」のポーズを取る事が「お約束」になっており、誰でもそのスナップが必ず一枚は残っていると言われるほどである。 1963年、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。アニメ『おそ松くん』の制作を担当させる。1965年、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等とフジオ・プロダクションを設立。分業制による漫画制作体制を確立させた。この意味で、「赤塚不二夫」は、本人自身にとっても、「藤子不二雄」や「さいとう・たかを」などと同様、フジオプロの共同製作グループ(担当編集者を含む)のペンネームと考えられていた節があり、逆に、他のメンバー名義の作品も、赤塚名義の作品と全く同様の方法で、赤塚本人を中心に製作していたものが少なくない。いずれの作品においても、赤塚本人は、グループのアイディアをネーム(=下書き)にまとめてコマ割りを行う役割のみで、実際の作画には関わらず、グループがペン入れを行っている。1967年、『週刊少年マガジン』(講談社)にて「天才バカボン」を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。 当時は、漫画家としては異例のテレビの司会に抜擢。「マンガ海賊クイズ」では、黒柳徹子と共に司会を担当した。これを機に、赤塚の交流は、芸能界にも広がる。一例を挙げても立川談志、荒木経惟、由利徹、唐十郎など当時から一線で活躍していた人物たちであった。1970年代半ばには、山下洋輔等を介してタモリと出会う。卓越した笑いのセンスを持つ赤塚は、たちまちタモリの芸を認め、大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ芸能界入りに貢献した。のち、タモリや高平哲郎らと「面白グループ」を結成。 1979年には、愛猫の菊千代と出会う。菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫で、CMに出演、一躍人気者に。赤塚自身も『花の菊千代』(コロコロコミック連載)といった漫画を描いた。しかし、1997年に菊千代は他界、赤塚自身のみならず、周辺のファンをも悲しませた。 ハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどから、かなりの映画通であることが確認されている。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数万本の映画のビデオがあるという(実際、少年時代の夢は、喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。)。 代表作は単にアニメ化されるのみならず、何度もリメイクされているものも少なくない。また、自身の生み出したキャラによる絵本や学習漫画なども多い。また、視覚障害者向けに触図と点字でギャグ漫画を書くという画期的な試みも行い、2000年8月16日の毎日新聞に紹介されたこともある。同年8月21日に点字の漫画本が発売されると、点字本としては空前のベストセラーになった。 長女・りえ子は、ロンドン在住する現代美術アーティストであったが、現在は亡くなった眞知子夫人に替わって赤塚不二夫スタジオの社長を務めている。 へんな子ちゃん(平成版のキャラクターの犬のノビタがいるが名前の由来はドラえもんの野比のび太から取っている。) オールナイトデッコ(原案を担当。実際は古谷三敏の作品。赤塚の名前を出していないが、初期の「ダメおやじ」も同様のケース。なお、古谷との共作は青年誌向けを中心に他に数作ある。) ^ もっともレノン自身は『おそ松くん』の詳細は知らず、来日時に会った記者の薦めで「シェー」のポーズの写真を撮らせたに過ぎない。 ^ 2006年末に眞知子夫人の訃報を取り上げたテレビ朝日の報道ステーションで、赤塚が現在意識不明であると改めて伝えられた。 |
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