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ロジャーとは?/ ディック

[ 453] ロジャー・クレメンス - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9

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クレメンスが幼児期の頃に両親は離婚。母親はすぐにウッディー・ボウワーと再婚し、今でもクレメンス本人は彼を父親として敬っているが、9歳の頃に死去。後々クレメンスは、他の選手が父親をクラブハウスに招いているのを見てうらやましいと言述している。1977年までオハイオ州デイトンに住んだ後、高校時代をテキサス州で過ごした。同州ヒューストンのスプリング・ウッズ高校ではアメリカン・フットボール、バスケットボール、そして野球の3種目でスターとして活躍した。野球では一塁手と投手でテキサス州選抜に選ばれ、3年次にはフィラデルフィア・フィリーズとミネソタ・ツインズから誘いを受けるが、断り大学に進学。大学ではアメリカン・フットボールのディフェンシブとして1つ、バスケットボールのセンターとして2つの推薦を受けるものの、大学では野球を続けることを選択した。
1981年にはサン・ヤシント・ジュニアカレッジで9勝2敗の成績を挙げ、全米選抜に選ばれた。同年ニューヨーク・メッツにドラフト12位(全米288位)で指名されるがこれを拒否し、テキサス大学へ進学した。1982年から2年間で25勝7敗、275イニングを投げ、奪三振241を記録。1983年に全米大学野球選手権で優勝し、当時付けていた背番号21は同大最初の永久欠番となっている。それまで全米一の大学野球選手に与えられていたロータリー・スミス賞は2004年よりクレメンスの功績を称えてロジャー・クレメンス賞と改名された。
1986年にリーグ最多の24勝を挙げチームのワールドシリーズ進出に貢献。敗退はしたものの、先発投手としては1971年にヴァイダ・ブルーが受賞して以来2人目で、それ以降は出ていないアメリカンリーグMVP賞を受賞した。殿堂入りしたハンク・アーロンが投手のMVP受賞に対し苦言を呈した際(投手にはサイ・ヤング賞があるため)、クレメンスは「まだ彼がプレーしていたらよかったのに。そしたら頭にボールをぶつけてぱっくり割ってどれだけ俺に価値があるか見せてやるのに」と発言[1]。また初のサイ・ヤング賞を満票で受賞した。
4月29日にフェンウェイ・パークで行われたシアトル・マリナーズ戦で、クレメンスは史上初の9回20奪三振を記録。この記録はケリー・ウッドとランディ・ジョンソンに並ばれてはいるものの、破られてはいない(トム・チェイニーが16回21奪三振を記録している)[2]。
クレメンスは20奪三振試合を2度達成しており、これは史上唯一の記録である。2回目は1996年9月18日にタイガー・スタジアムのデトロイト・タイガース戦であり、これは彼の最後から2回目のレッドソックスでの試合であった。最初の20奪三振試合の時と同様、四球は出さなかった[2]。
1993年から1996年の間での成績は合算40勝39敗であった。そのうち2シーズンでは負け越し、最多勝利は11勝であった。ただし、それでも防御率はリーグ平均より良かったのだが、1996年、時のGM(ゼネラルマネージャー)ダン・デュケットから「彼は絶頂期を過ぎた」とチームから放出され[要出典]、シーズンオフにトロント・ブルージェイズへ移籍した。クレメンスがレッドソックスで挙げた通算192勝はサイ・ヤングと並んで球団記録である。クレメンスがレッドソックスを去ってから彼の背番号であった“21”を付けた選手はいない。
1996年オフ、ワールドシリーズ出場の可能性を求めて、長年過ごしたボストンを離れることを決意し、積極的な補強を進めていたブルージェイズへ移籍した。2年在籍し、両年ともサイ・ヤング賞、20勝、そして投手3冠(勝数、防御率、奪三振)を達成。この2年間はクレメンスのキャリアの中でも特筆すべき2年間とも言われているが、チーム全体としては期待を大きく裏切る結果でプレーオフ進出も果たせなかった。
2000年のシーズンにはニューヨーク・メッツの捕手マイク・ピアッツァとの不仲が伝えられた。2000年7月8日のメッツ戦で、クレメンスはピアッツァの頭に死球を与えてしまう。以前からピアッツァはクレメンスとの対戦成績が非常によく、1か月前にも満塁本塁打を彼から打ったばかりなのでその恨みであったのだろうとの推測を受けた。この出来事とその後はメディアで大きく報じられ、ピアッツァはクレメンスを大きく批判。その一方で、自軍の正捕手に死球が与えられても報復死球を行わなかったメッツにも矛先が向かった。そしてそのシーズンでヤンキースとメッツがワールドシリーズで対戦することになると、この2人の因縁に注目する人は多かった。
クレメンスが先発登板した第2戦のピアッツァの第1打席ではバットが折れ、その部分がクレメンスに向かって飛んできた。彼はそれを拾い、ピアッツァが走っていた一塁線に向かって投げつけた。バットの破片はピアッツァには当たらなかったものの、両軍のベンチが飛び出し大乱闘になった。クレメンスは後に、彼は破片をボールと間違えて投げたと述べたが、普通一塁にボールを転送する際とは投げる方向が全く異なっていたため、これを信じる人は少なかった。メッツの投手アル・ライターは、「もし彼が本当に間違えたのだったら、ティノ(・マルティネス、ヤンキースの一塁手)に破片を投げつけるべきではなかったのかい?」と皮肉った。
この様な頻繁な因縁のぶつかり合いにも関わらず、両者は特に積極的に争いを展開させる気は薄かった。ボストン・グローブ紙の記者はこの両者の争いを2人の学校の番長に例え、喧嘩を怖がっているもののやらざるをえなくなって困惑している、と述べた。この試合でクレメンスに退場は告げられなかったものの、罰金5万ドルが課せられた。この試合、彼はメッツを8回2安打無失点9奪三振に抑えた。
2002年6月15日にピアッツァとのトラブルが起きて以来初めてシェイ・スタジアムで登板した。ナショナルリーグでの試合ということは、クレメンス自身も打席に立つことになり、これはメッツにとってクレメンスに“復讐”を果たす絶好の機会であった。大方の予想だとクレメンスは死球を受けるということであったが、現実には異なった。メッツの先発投手ショーン・エステスの投球はクレメンスの背中の後ろを通り抜け、観客の失望とともに審判から警告を受けた。この警告のお陰でクレメンスに死球を与えることは事実上できなくなったが、この試合でメッツは4得点を挙げ、しかもピアッツァとエステスはクレメンスから本塁打を打ち、違った方法での復讐を遂げた。
2003年の序盤にクレメンスはシーズン後の引退を発表。同年7月13日のヤンキー・スタジアムでのセントルイス・カージナルス戦で300勝と4000奪三振をエドガー・レンテリアから奪い、この2つの記録を同一試合で達成した唯一の選手となった。この300勝は4度目のチャレンジで達成したものであり、そのうちの2回ではヤンキースの中継ぎが打ち込まれてしまい勝ち星が消えてしまっていた。300勝を挙げたのは史上21人目であり、4000奪三振はノーラン・ライアン、スティーブ・カールトンに次ぐ史上3人目であった。このシーズン終了時点でのクレメンスの通算成績は310勝160敗に4099奪三振であった。
クレメンスの2003年シーズン終盤は幾度と無く引退に関連付けたイベントが開催され、ホーム・アウェイ問わず盛大な歓声で迎えられていた。特に長年ホームとしていたフェンウェイ・パークでの最終登板では中々歓声が鳴り止むことは無かった(ヤンキースはこの年レッドソックスとア・リーグ優勝決定シリーズで再戦することになったため、2回の“最終登板”があった)。また、レギュラーシーズン最終戦ではヤンキースの代理監督としても采配を振るった。フロリダ・マーリンズと対戦したワールドシリーズでは1度先発登板し、降板時は1-3で負けていた。降板する際にはマーリンズ側でさえベンチから全員フィールド上に出てスタンディング・オベーションで偉大な投手が現役を去るのを見送っていた。
クレメンスは結局引退を撤回し、故郷テキサスのヒューストン・アストロズと1年契約を2004年1月12日に結んだ。これは、地元の家族とそばにいるためと、同じくヤンキースから移籍したアンディ・ペティットともう一度野球をやりたかったからと本人は言っている。同年5月5日には4137個目の三振を奪い、カールトンを抜き去り歴代最多奪三振でライアンに次ぐ2位につく。この年18勝4敗をマークし、通算成績も328勝164敗に伸ばした。また、歴代最多(7度目)、最年長(42歳)、最多球団(4球団)でのサイ・ヤング賞受賞を達成した。両方のリーグでサイ・ヤング賞を受賞したのはゲイロード・ペリー、ペドロ・マルティネス、ジョンソンに並ぶ歴代4人目である。
家族との時間を望んで居住地のアストロズと契約した経緯があり、契約内容には「登板しないホームゲーム時には、チームに帯同しなくてよい。」、「登板しない遠征には同行しなくてよい。」が付け加えられていた。息子の少年野球を見に行って、観客席から審判にクレームをつけて、審判から退場を宣告されたこともあった(試合後にクレメンスが審判に謝罪している)。
2005年もクレメンスにとって素晴らしい1年となった。彼の挙げた防御率1.87はこの年のメジャー全体で一番低く、また彼の現役生活でも一番低く、そしてナ・リーグ投手が挙げたものとしてはライバルと言われている名投手グレッグ・マダックスが1995年に挙げて以来のものであった。にも関わらず、このシーズンは13勝8敗という成績に終わったのは、打線の援護がなかったからだと言われている。アストロズ打線はクレメンス登板試合で平均3.5点しか打てず、その上32回の先発登板中9回も相手投手に完封されていた。アストロズはこのシーズン5試合ものクレメンス登板試合を0-1で落としており、4月には3連続も喫している。
1920年以降の近代野球において最も勝ち星を挙げている右投手である。2005年4月8日にシンシナティ・レッズから勝ったことにより近代野球の勝ち星数でスティーブ・カールトンに並び、また第二次世界大戦以降にキャリアが始まった投手としては最多となった。しかし、そこからカールトンを抜くにはアストロズのひどい得点力に悩まされ1か月かかった。5月9日にやっとマーリンズに勝ったことにより通算330勝目をマーク。近代野球でクレメンスより多くの勝ち星を挙げているのは左投手のウォーレン・スパーンのみである。また、カールトンを抜いたことにより生存している野球選手の中でも最多勝利を挙げていることになった。
2005年の最終先発登板では、クレメンスは通算4500奪三振を記録。同年10月9日には1984年以来となるリリーフ登板を果たす。その試合の15回に代打として登場し、その後3イニングを投げアトランタ・ブレーブス戦の勝利に貢献した。これはメジャー史上最長のポストシーズンゲームとなり、18回まで続いた。勝ち星はクレメンスについた。 ナ・リーグ優勝決定シリーズで勝った後、アストロズはワールドシリーズに進出した。しかし、第1戦でクレメンスは2回しか持たず降板。初のワールドシリーズ進出となったアストロズだったが4連敗であっさり敗退。筋を痛めたことによりクレメンスの調子は決して良くなかった。
同年オフ、球団は高年俸・高年齢を理由に年俸調停を申請せず、クレメンスはフリーエージェントとなった。調停を申請しなかったアストロズはルール上、2006年5月1日まで再契約が出来なくなった。この時他にもテキサス・レンジャース、レッドソックス、ヤンキースらが契約に興味を示したものの、本人は2006 ワールド・ベースボール・クラシックで引退することを示唆。同大会に集中するためとしてしばらく進退の公表を控えていたが、WBC2次ラウンド・メキシコ戦敗退後には「個人的には、現段階で『さようなら』だ」との発言をしていたため、引退が噂された。しかし、正式な引退発表は出されないままであった。
2006年6月22日のツインズ戦で復帰を果たしたが、対戦投手にスーパールーキーのフランシスコ・リリアーノが登板し、敗北を喫してしまう。結局、7勝6敗の成績に終わり、前年度に続いて年俸に見合う勝ち星を挙げられなかった。しかし、防御率は2.30という好成績で、またしても打線の援護の無さが際立つシーズンとなった。平均投球回数は6回を少し切る程度で、8回まで投げたことはなかった。
2007年、現役を続けるならヒューストンかニューヨークと言われ、ロビンソン・カノが背番号を22から24へ変えて22番を空けていたことなどからヤンキース入団が噂されていたが、5月6日のヤンキース対マリナーズ戦のセブンスイニングストレッチ中に、自らマイクを取ってヤンキースとマイナー契約をしたことを電撃的に表明、ヤンキースタジアムのファンは大歓声でこれを迎えた。
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2007年12月13日付けで公表された前上院議員のジョージ・J・ミッチェルによる報告書(通称ミッチェル・レポート)に複数のステロイドホルモン剤、および人成長ホルモン剤などの投与を受けていたとして、トレーナーのブライアン・マクナミーの証言を基に実名で克明にその使用経緯が記載されている。
この報告書によると、クレメンスは1997年のトロント・ブルージェイズ時代にトレーナーのマクナミーと出会い、マーリンズ戦を含む遠征の後半か遠征から戻った直後に最初のステロイドホルモン剤、ウィンストロール (Winstrol) を自身から用意してマクナミーに臀部に注射するように依頼した。マクナミーはその後、数週間の期間に大体4度、クレメンスのアパートのあるスカイドームにてクレメンスの用意した針を使って投与した。1998年のシーズン中にはクレメンスはアナドロール50(Anadrol-50)という薬について、使用はしていないもののその情報をマクナミーに尋ねている。
マクナミーは1998年にウィンストロールを投与して以来、クレメンスは劇的に身体能力が向上したと、クレメンス自身の言葉を交えて証言している。1999年にクレメンスがヤンキースへ移籍した際、マクナミーはブルージェイズとの契約期間中であったが、クレメンスの強い要望から2000年にはヤンキースへ移籍している。クレメンスは個人的にマクナミーをトレーナーとして雇い、オフシーズンの数週間、春季キャンプの1・2週間、シーズン中何度かに渡って個人的にトレーニングを受けている。
マクナミーの知る限り、この時は人成長ホルモン剤の使用はなかった。マクナミーは2001年を以てヤンキースを離れ、その後は再びクレメンスがマクナミーに薬物の投与を依頼する事はなかったとしている。クレメンスはマクナミーに対して薬物使用をやめた理由は全く述べておらず、マクナミーも2001年から後はクレメンスが薬物を使用したかどうかは関知していないと述べている。
1986年のア・リーグ優勝決定シリーズでは、第1戦に打ち込まれ、第4戦では自身が守り抜いた3-0のリードを救援陣が打ち込まれ、そして第7戦では好投してレッドソックスをワールドシリーズに導いた。この第7戦での勝利はクレメンスにとって人生初のポストシーズン勝利であり、2個目を挙げたのはその13年後であった。
1986年ワールドシリーズ第2戦では打ち込まれたものの、第6戦では再びマウンドに登り、その試合で本来ならばレッドソックスが勝つはずであった。7回を投げ3-2で勝っている所で降板したものの、延長10回で結局負けてしまい、ワールドシリーズ自体も敗退。この際のクレメンス降板が、結果的に後続が打たれたことから批判を浴びる対象となった。当時のレッドソックス監督ジョン・マクナマラはクレメンスのマメが潰れたため降板させたと述べているが、後年本人はそれを否定している。
クレメンスのポストシーズンにおける最も大きな敗北は1990年ア・リーグ優勝決定シリーズ第4戦対オークランド・アスレチックスであり、その試合でクレメンスは審判と抗議した末退場処分をくらい、レッドソックスもその試合に負け4連敗で敗退してしまった。1991年シーズンの最初の5試合に出場停止処分を受け、また罰金1万ドルも課せられた。この他にも勝敗がつかない先発登板を1988年と1995年に経験しており、両方のシリーズでレッドソックスは4連敗を喫している。しかし、これらの成績を差し引いてもレッドソックスのエースはクレメンスだという事実は揺れ動かなかった。レッドソックスでのポストシーズンの通算成績は1勝2敗、防御率3.88に45奪三振である。
1999年のポストシーズンでヤンキースが唯一負けた試合はクレメンスが先発登板していたボストンとの試合(相手投手はマルティネス)であったが、その後クレメンスはポストシーズンでの成績も上昇していく。ヤンキースでのワールドシリーズでは通算3勝0敗であり、その中には2000年メッツとのワールドシリーズで0勝2敗で、勝たなくてはいけない登板で勝った試合も含まれている。クレメンスのヤンキースでの通算成績は7勝4敗、防御率3.17に98奪三振である。
アストロズでは、2004年ナ・リーグ優勝決定シリーズ第7戦対カージナルスでの敗戦投手であった。2005年のポストシーズンでの活躍は明暗がくっきり分かれてしまった。リリーフ登板してチームを救った試合もあれば、ワールドシリーズでは2回ですぐに降板してしまった。アストロズでのポストシーズンの通算成績は4勝2敗、防御率4.60で29奪三振である。
クレメンスの投球の特徴は、内角にボールを投げるのを恐れないことである。最多死球を記録したのは1995年の1回だけだが、その他にも幾年に渡り上位にランクインしている。この傾向は特に若い頃に見られたものの、年を取るにつれ減ったきたといわれている。しかし、未だにこのイメージは強く、2000年のア・リーグ優勝決定シリーズ対マリナーズ戦で、ルー・ピネラ監督はクレメンスのことを「頭狩り」と呼んでいる。その年に発生したピアッツァとの死球を巡る騒動は様々な人の中に「決して謝らない」「ふてぶてしい」等の印象を植え付けてしまった。2006年シーズン終了現在、クレメンスの通算死球は歴代12位である。しかし、この記録は長く現役を続けていれば自然と増えてくる性質のものであるという議論もある。アストロズと契約する前はずっと投手が打席に立たないア・リーグでプレーしていたため、死球を与えることに対して何の感情も持っていない、と言われたこともある。クレメンス自身は2005年にキップ・ウェルズ、2006年にフアン・マテオから死球を受けている。
クレメンスは長年に渡り歯に衣を着せぬ発言でも注目を集めている。自分で自分の荷物を空港で持たなければいけないことに文句を言ったり、本拠地であったフェンウェイ・パークを設備の老朽化から“平均以下の球場”と言述している。2006年4月4日に熱狂的だったWBCでの日本と韓国の応援についてのコメントを求められると、「みんな日韓戦を見に行ったんだろうね。ドライクリーニング屋(アメリカでは中国、韓国人経営者が多い)がどこも閉まっていた」と、人種差別的発言とも捉われかねない配慮に欠ける発言を行っている。また、彼の引退宣言はもはやオフ・シーズンの風物詩ともなっている。
強いプロ意識と厳しい鍛錬に裏打ちされたパワーと技術は高い評価を得ている。多くの投手がクレメンスに憧れ、手本としている。同時に短気と荒い気性でも知られ、ビーンボール(故意の死球・危険球)を投げることで有名である。
クレメンスには、人間としてより投手としての本能が勝っていることを示すエピソードがある。妻と遊びの野球ゲームをしていたとき、クレメンスの投げた山なりボールを妻がジャストミートし、ボールは遙か遠くへ飛んでいった。そしてクレメンスが次に放ったボールは全力剛速球のビーンボールであった。同様に2006年の春季キャンプ、ワールド・ベースボール・クラシックのための調整でマイナーリーグに登板した際に息子のコービー・クレメンス(当時1Aの選手、2005年ヒューストン・アストロズに8位(全米254位)で指名され入団した。)に本塁打をされると、やはり次の打席での彼に対する初球はビーンボールであった。バッターが誰であろうと、打たれるのを絶対に許さないというクレメンスの闘争本能を示すエピソードである。
クレメンスの持ち球は150キロ台の速球とよく落ちるスプリット。たまにカーブも混ぜて投げる。日頃からの節制・鍛錬(彼がよく言う"hard work")の結果、速球は40歳を超えた今でも球威は十分である。打撃は意外に得意で、大きい体を揺さぶりながら走る。
過去に伊良部秀輝がテレビで、デービッド・ウェルズ、デービッド・コーンとともに腕のフリがみにくく、キャッチボールの段階から凄かったと証言した。
2003年、通算300勝を達成したクレメンスは現役引退を表明する。ところがシーズンオフに「99%」と語っていた引退を撤回。故郷テキサスのヒューストン・アストロズと契約を結んだ。
彼がたびたび引退を仄めかすのには理由がある。最愛の母・ベスが病気がちな上、かなりの高齢であるため、生きているうちに殿堂入りをする自分の姿を母に見せてあげたいと思っていたからであった(引退後5年を経過しなければ殿堂入りの資格は得られない)。そのため、オフのたびに現役続行か引退かで心が揺れ動いていた。そして、2005年9月14日午前4時30分ごろ、息子の殿堂入りを見届けることなくクレメンスの母は75歳でこの世を去った。当日先発予定だったクレメンスは「前の晩、母に『仕事に行きなさい』と言われた」と、母の死を見届けた後、予定通りに先発登板。ワイルドカードを争うマーリンズを7回途中、1失点に抑え12勝目。通算340勝目を天国の母へ捧げた。
オフのトレーニングがハードである事も知られている。引退宣言を撤回し、現役を続行するとの知らせを聞いた松井秀喜は、未だにハードなトレーニングを続ける事を考え、「信じられない」との発言を残した。
アメリカンフットボールに使われるボールを用いたクロス・トレーニングも行う事も知られており、彼の独特の軌道のストレートに何らかの形で寄与していると思われる。
2004年にオールスターで両方のリーグから先発するのは史上3人目となった。過去の二人はブルーとジョンソンであり、クレメンス自身は1986年にア・リーグのレッドソックスから、2001年には同じくア・リーグのヤンキースから、そして2004年にナ・リーグのアストロズから先発登板した。
メジャー初打席となった1996年5月23日のマリナーズ戦で、ノーム・チャールトンから初安打を放った。これはフェンウェイ・パークで起きた出来事で、ホセ・カンセコが指名打者から外野へと守備位置を変更したためクレメンスに打席が回ってきた。1986年のワールドシリーズでも4回打席に立ってるが、その時は無安打であった。
マーク・マグワイア | サミー・ソーサ | ロジャー・クレメンス | カル・リプケンJr | バリー・ボンズ | トニー・グウィン
サイ・ヤング | ウォルター・ジョンソン | クリスティ・マシューソン | ピート・アレクサンダー | ウォーレン・スパーン | パッド・ガルヴィン | キッド・ニコルズ
ロジャー・クレメンス | グレッグ・マダックス | ティム・キーフ | スティーブ・カールトン | ジョン・クラークソン | エディ・プランク | ノーラン・ライアン | ドン・サットン
フィル・ニークロ | ゲイロード・ペリー | トム・シーバー | チャールズ・ラドボーン | ミッキー・ウェルチ | トム・グラヴィン | レフティ・グローブ | アーリー・ウィン
ノーラン・ライアン | ロジャー・クレメンス | ランディ・ジョンソン | スティーブ・カールトン | バート・ブライレブン | トム・シーバー | ドン・サットン
ゲイロード・ペリー | ウォルター・ジョンソン | フィル・ニークロ | グレッグ・マダックス | ファーガソン・ジェンキンス | ボブ・ギブソン | カート・シリング

 

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