リッチとは?/ ディック
[ 430] リッチー・コッツェン - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3
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1970年2月3日にアメリカのペンシルバニア州のレディングで生まれる。5歳の頃よりピアノを弾き始め、7歳のときにKISSのジーン・シモンズに刺激されてギターを弾き始める。 17歳のときにすでに他のアーティストのオープニングアクトのギタリストとして全米を周り、500を超える数のライブをこなしていたという。 2002年にMr.Bigが日本での解散ツアーを持って解散した後はリッチーは再びソロ活動に戻っている。同年にはロサンゼルスにてビルを購入してレコーディングスタジオを開設し、単なるギタリストにとどまらない才能を見せている。 幼い頃から聞いてきたというファンクやソウルなどの影響が大きいが、その一方でロックやジャズといった音楽性も持ち合わせているアーティスト。一般的にはギタリストとして知られていることが多いが、ソウルフルなヴォーカリストとしても非凡な才能の持ち主であることが知られている。そのキャリアの大半をソロ活動が占め、ギタリストとしてよりもソロ・アーティストとしての活動が中心となっている。その幅広い音楽性とさりげなく聴かせる高度なギターテクニックからギター雑誌や音楽雑誌などではしばしば「名手」と呼ばれることが多い。 ギターテクニックの面では、流れるようなレガート(ピッキングをしないで左手のフィンガリングによって音を奏でる奏法)による速弾きとスウィープが大きな特徴といえる。また、右手の人差し指、あるいは中指(時には薬指)を使って指板を叩くライトハンド奏法(タッピング)を駆使することもよくあるが、フル・ピッキングの速弾きはあまり得意ではないとギタークリニックなどで語っている。さらには、ピック弾きしながら残りの指で弦をはじくといったジェフ・ベックのようなプレイスタイルも備えかねており、どのプレイをしても安定した多種多様のパフォーマンスを展開している。 高度なギターテクニックの持ち主に似合わずテクニックに傾倒せず、まず楽曲ありきと考えているようである。演奏スタイルは、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンに近く、楽曲優先を心がけてエモーショナルさに重きが置かれている。控えめではありながらも高度なテクニックをところどころに織り混ぜ、メロウな音作りと相まって楽曲の一部として、さりげなく自然に聴かせるあたりに「名手」の所以と彼のミュージシャンとしてのスタンスを見せている。ライヴでは、ジミ・ヘンドリックスを彷彿させる激しいプレイを見せる。 エレクトリックギターはフェンダー製のギター、特にテレキャスター(フェンダーカスタムショップ製)を主に使用しており、フェンダー・ジャパンから自身のシグネチュアモデルが製作され、市販されている。他には同じフェンダー製のストラトキャスターの使用頻度も高い。またアコースティックギターはクレモナ・ブルガリア社から自身のモデルが販売されている。 Mr.Big加入の際に、前任のポールのオリジナリティあふれるギターフレーズを弾くにあたって、そのフレーズそのものは崩さずに自身の色を加えるアレンジはギター雑誌を始め、日本のファンから高く評価された。後に雑誌のインタビューで「ポールの書いた曲のフレーズはロックの中でも最も有名なフレーズの一つだったから、崩さずに自分なりに弾くのは大変だった」と語っている。とはいえ、Mr.Bigに加入し、独自のスタイルによるこれらの功績を残したことで、ここ日本では一躍ヒーローになったことには間違いない。 ギター、ヴォーカルのみならず、レコーディングではキーボード、ベースのほか、ドラムまで一通りこなすマルチプレーヤーでもある。 マネージャーは実父であり、溺愛されている為か本人自身も認めるプチナルシスト。それ程の自信家の一面を持つ。 ギタリストの中ではザック・ワイルドと並ぶ極度の風呂嫌いとして有名。来日の際にも彼の「体臭」について、実際に彼と遭遇した人達から語られる機会も少なくない。 ポイズンに在籍していた時にドラマーのリッキー・ロケットの彼女を奪ってクビになった。リッチー曰く、「リッキーとはもう終わっていた」。現在は離婚している。 発言に関してはかなりいい加減で、Forty Deuceを組んだ際にも「やっと自分のバンドが持てた」などと発言するが後に「あれはただのプロジェクト」などと発言した。自身のシグネチャーモデルの販売に関しても「次はハムバッキング搭載のギターを出す」と発言した後に「以前発売していたストラトキャスターの再販をかけあっている」などと変わる。 2006年に発売したガンダムのカヴァーアルバムについて、SHOW-YAの寺田恵子になぜガンダムのカヴァーなのかという質問を受けた際には「あの時は狂っていたんじゃないかな」と答えた。 |
[ 431] リッチー・ブラックモア - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%A2%E3%82%A2
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「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」などの明快で印象的なリフ職人であり、「ハイウェイ・スター」、「紫の炎」などの超絶的な速弾きは有名で、ギター速弾きの元祖と言われる。 ロック・ギターにクラシック音楽のフレーズを導入し、後にイングヴェイ・マルムスティーンが確立する、「ネオクラシカルメタル」の世界観を生み出し、ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、1970年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。 また、ロングヘアー、黒い上下の衣装、ストラトキャスターの多用、ステージの最後のギター破壊など、彼のファッションやパフォーマンスは、ロックにおけるヒーロー像として現在にも受け継がれている。 イングヴェイ・マルムスティーン、スティーヴ・ヴァイ、ランディ・ローズ、クリス・インペリテリ、ヤニック・ガーズなどの彼の世界観やプレイに影響を受けた多くのフォロワー達が存在する。 11歳の誕生日に、当時の価格で7ポンドのスパニッシュ・ギターを父親からプレゼントされ、その後、クラシック・ギターのレッスンを約1年間受ける(自身のコメントによると、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから)。 1960年、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335を手に入れる。その後、学校を卒業した彼はロンドンのヒースロー空港で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、ジャズ・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。 この頃から、スキッフル(Skiffle)・バンドのザ・ドミネイションズやザ・サフォナイツ、ザ・デトネイターズ、マイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズといったローカル・バンドでセッションを行っていたが、報酬はアルバイト程度の一晩約30シリング前後であり、プロ活動と言えるかどうかは意見が分かれている。 1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、トム・ジョーンズや上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーのジョー・ミーク (Joe Meek) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、ハインツ (Heinz) という歌手の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルグに行き、ジョー・ミークの関連でジ・アウトローズ(The Outlaws) に加入した。アウトローズはメインとしてレコードを出す傍ら、上記のハインツやジーン・ビンセント (Gene Vincent)の伴奏も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドであるハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズにリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。ジェフ・ベックやジミー・ペイジとセッションを行ったのもこの頃である。 1966年、二人の友人とハンブルグに再々渡航し、スリー・マスケティアーズを結成するが、すぐに解散、さらにマンドレイク・ルートというバンドを結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅してしまう。低迷した時期だったが、この頃クリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイスと知り合ってもいる。 リッチー自身は、オリジナル第一期〜第三期に在籍。1975年6月に脱退。1984年、ディープ・パープルの再結成に参加。しかしイアン・ギランとの確執などから1993年に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時はジョー・サトリアーニが代役を務めた(脱退時、来日公演を行うために必要なビザを破り棄てたとも言われている)。 1997年、婚約者兼ボーカルのキャンディス・ナイトと共にブラックモアズ・ナイトを結成。彼のルーツの一つである、リュートなどを主体としたイギリス中世音楽を現代風にアレンジした吟遊詩人的な音楽で、それまでのハードロックから一転しアコースティックギターによるフィンガリング奏法、アルペジオを多用した独創的なもので、かつ聴きやすいと評されている。 現在までライブ録音を含め7枚のアルバムを発表している。ライブ演奏ではエレクトリックギターでのピック奏法も行うが、ボーカルのバックではアルバム同様にアコースティックギターを多用。既にディープパープル時代の曲はソルジャー・オブ・フォーチュンくらいしか演奏しないが、結成10年を経過しブラックモアズ・ナイト以降のファンも多い。2007年もライブハウスを中心に全米ツアーを行っている。 1960年代後半の、いわゆるニュー・ロックやアート・ロック等と呼称された一連のロックの変革の時代に登場したディープ・パープルというバンドが、「ハード・ロック」の定型を作り上げたという意見が多いが、その中にあって、特にリッチー・ブラックモアの存在は軽視出来ない。 最も注目を受けている「ギタリスト」という分野に於いては、それまでペンタトニック・スケール一辺倒だったロック・ギターに、クロマチック・スケールやハーモニック・マイナーを取り入れ、クラシック曲も大胆に取り入れる等、音楽表現の拡大に寄与したとされている。ハード・ロック演奏時の使用楽器はフェンダー・ストラトキャスターが有名。ストラトキャスターには指板をえぐる(スキャロップド・フィンガーボード)、トレモロアームを交換する、ピックアップのワイアリングを換える等の改造が施されていた。ディープ・パープル初期は、ギブソン・ES-335を平行して使っていた例もあるが、バンドがハード・ロック色を明確に打ち出して以降は、ほぼ全面的にストラトキャスターを使用している。特にトレモロ・アームの使用方法は個性的と言われており、ブリッジを固定するスプリングを減らして、より多くの振幅を得るなど、様々な工夫がなされていると言われている。アンプはマーシャルの200Wアンプを好んで使用している。 作曲家としては、商業的に最も成功したとされる第2期ディープ・パープルの楽曲の殆どを中心となって作ったとされており、それら一連の功績から、ブルースとポップのセンスをほどよく持ち合わせたソングライターと評されている。 ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギターを中心に演奏し、キャンディス・ナイトのリリカルなヴォーカルを演出する事を重視している。過去の実績に加え、もともとミュージシャンでは無かったキャンディス・ナイトの素質を見抜いた点などから、プロデューサーとしての才能を評価する者も多い。 一般的には「神経質で気難しく、気に入らない事があるとすぐ癇癪を起こす」というイメージを持たれている。在籍するバンドのメンバー・チェンジが頻繁であるという事実も、このイメージを裏付けており、特にレインボーで、デビューしてすぐロニー・ジェイムス・ディオ以外の3人が解雇された時は、音楽マスコミも「さすがはリッチー・ブラックモアのなせるわざ」という揶揄を込めた論調で報道していた。 1970年代に活躍したロック・ミュージシャンの多くがそうである様に、非常に悪戯好きな人物として知られている。過去の悪戯には嫌いなマネージャーのパスポートの写真をE.T.にすり代えたり、レインボー時代にはプロモーターと揉めた挙句、プロモーターの社長をステージ上に下半身を露出した全裸の状態で吊るし上げたり、メンバーの衣装にヘアクリームを入れたり、ゴミ袋に自らの排泄物を入れ、こっそりと各メンバーの楽屋に置いたりといった「伝説」に近いエピソードも残っている。 また、若い頃は非常に薄かった頭髪が40歳を過ぎてから急激に増加。人工的な植毛説が根強いが、本人はあくまで不摂生な生活をやめた上での自然発生的なものであると主張している。 2度目の結婚は1966年頃で、同じくドイツ人女性のバブス・ハーディー(本名はバーベル)。正式には結婚していないという説もあるが、下記のエイミー・ロスマンとの結婚が(本人のコメントから)3度目であると判明しているので、少なくともマーギットとエイミーとの間に、一度は結婚している事から、正式に結婚している可能性が高い。 |
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