雪村とは?/ ディック
[ 1155] 雪村いづみ - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E6%9D%91%E3%81%84%E3%81%A5%E3%81%BF
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何不自由ない裕福な家庭で育っていたが、9歳の時に通信社勤務の父が死去。その数年後に母が事業で失敗し、生活が困窮。家計を助けるため、1952年(昭和27年)に中学卒業後まもなくして歌手を志し、新橋のダンスホール「フロリダ」で歌い始める。同年5月には、日劇ミュージックホールのレビュー『サンマー・スキャンダル』の少女役に合格、7月初舞台を踏みプロ歌手として活動を開始する。8月下旬には当時最大の芸能プロダクションであった木倉音楽事務所の社長・木倉博恭に見いだされ、同プロ入り。プロ入り後は日劇『秋のおどり』などの舞台や各所で実演、進駐軍周りも行う。 翌1953年(昭和28年)4月、ビクターから「想い出のワルツ」でレコードデビュー。発売直後から話題になり大ヒットし、戦後最短で大スターとなったことから、「世紀に一人のシンデレラ」と呼ばれた。その後も「青いカナリヤ」「オウ・マイ・パパ」「はるかなる山の呼び声」「マンボ・イタリアノ」「チャチャチャは素晴らしい」などをヒットさせ、不動の地位を確立。同年代の女性人気歌手だった江利チエミ・美空ひばりと共に「三人娘」と称されるようになる。三人が主演した昭和30年公開の映画『ジャンケン娘』は空前の大ヒットを記録し、以後『ロマンス娘』『大当り三色娘』『三人よれば』とシリーズ化され、いずれも大ヒットしている。 映画にはデビュー直後から出演し、昭和28年12月公開の松竹系映画『青春三羽烏』が初出演。54年には新東宝と専属契約し、井上梅次監督の歌謡映画四作品に立て続けに主演。同年12月には東宝へ移籍し、1964(昭和39)年までに約60本の映画に出演。いわゆる歌手の顔見せ出演だけに留まらず、石坂洋次郎作品(『山と川のある町』『青い山脈』など)で主演を務め、当時の人気喜劇映画シリーズだった『社長シリーズ」や『三等重役シリーズ』には準レギュラーとして出演していたほか、『嵐』『四十八歳の抵抗』といった文芸大作でも重要な役どころを演じており、女優としての評価も高い。 デビュー直後に可憐な容姿と初々しさ、そしてポージングの的確さを中原淳一に見いだされ、ファッションモデルとしても活躍。主に中原淳一や森英恵デザインを着こなし、ファッションショーにも出演。中原淳一編集の少女雑誌「ジュニアそれいゆ」を中心に「装苑」などのファッション誌、他多くの雑誌の表紙やグラビアを飾った。 翌年知り合ったテンプル大学の学生ジャック・セラーを日本へ連れ帰り電撃結婚(所謂できちゃった婚)し、一子(朝比奈マリア)を儲けるも、昭和41年に離婚し、渡米。翌1967(昭和42年)にアメリカでバリトンサックス奏者の原田忠幸と再婚(後に離婚)、1970年代には飯野おさみとの熱愛・同棲も話題を呼んだ(後に破局)。現在は独身。 1964(昭和39)年の帰国後、日本では導入されていなかった歌手自身がショーの進行を進めるワンマンスタイルをいち早く取り入れたパイオニアである。 1964(昭和39)年1月に大阪労音リサイタルで披露した「約束」(藤田敏雄作詞、前田憲男作曲)は大きな反響な呼び、久々の大ヒットとなった。この曲は6分40秒余の大作で、当時のシングル盤で使用していた技術では収録できず、そのため新たな技術を導入し、発売となった。この痛烈なる反戦歌は、丸山明宏(現・美輪明宏)の「ヨイトマケの唄」と共に日本のメッセージソングの元祖と呼ばれている。 フォーク・ソングやフーテナニーを初めて日本で歌った、フォークシンガーの先駆けでもある。ピート・シーガーの作品でピーター・ポール&マリー(PPM)が歌った「花はどこへいったの」「天使のハンマー」を日本で初めて歌った歌手である(「花はどこへいったの」は、レコード発売早々に話題となったが、版権問題が発生、ヒットしはじめた二ヶ月余で、放送・販売が中止された)。 1974(昭和49)年、日本を代表する作曲家服部良一の作品をキャラメル・ママとのコラボレーションで歌ったアルバム『スーパー・ジェネレーション』は当時大きな話題を呼び、発表以来現在まで廃盤になることなく発売され続けているロングセラー作品である。 荒井由美(現:松任谷由実)の代表曲「ひこうき雲」は、雪村いづみのために書き下ろされた曲である。レコーディングもしたが、諸般の事情で発売されず、荒井自身の歌唱によって世に出た。雪村いづみ自身はこの曲を嫌ってはおらず、当時渋谷ジャンジャンなどのステージで毎回歌っていた。この雪村の未発表音源は1990(平成2)年発売のアルバム『カモン・バック』で初めて陽の目を見た。 絵画を手がける芸能人の先駆けでもあり、1982(昭和57)年以来二科展に連続18回入選する腕前。娘の朝比奈マリアも絵画に取り組んでおり、親子展を開催したこともある。 「三人娘」の江利チエミ・美空ひばりとは公私共々に仲良しであったが、江利が45歳、美空が52歳と共に若くして逝去、雪村は葬儀の席で号泣していた。江利と美空の亡き後、雪村は積極的に二人の持ち歌を歌い継ぐ形で披露しており、近年テレビでは自身の持ち歌より二人のヒット曲を歌う機会の方が多い。また謙遜的な意味合いから「自分にはヒット曲が無い」と発言することもある。 昭和32年:ベルリン映画祭特別記者賞(1957年度ベルリン映画祭に出席したスターの中で、最も人気があって尚かつチャーミングであったとして受賞) この「雪村いづみ」は、歌手に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。 |