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[ 198] ITmedia ライフスタイル:「オーディオ評論」はなぜ滅びたか? (1/2)
[引用サイト]  http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0404/12/news002.html

オーディオ機器の横並び評論というヤツがあるが、人間の脳の特性から考えて、これはかなり眉唾なシロモノである。最近ではオーディオがAVにシフトしつつあり、旧来のオーディオ系出版どころか、PC系出版社でも同じようなアプローチでこの分野を取り込もうとしているが、それが強い影響力を持つ可能性は低いだろう。
音響心理学という学問がある。筆者も学生時代に多少かじったものだが、これは音が耳に届いてから、人間がどのようにそれを感じるかを分析する学問である。一例を挙げれば、人間は大勢がガヤガヤしている中でも、意識を集中すれば話し相手の声を聴き取ることができる。これの意味するところは、意識を集中すれば耳タブや鼓膜の音響特性が変えられるということではなく、脳が聞こえてくる音をフィルタリングしているということである。
人間の脳に対する働きが次第に明らかになるとともに、この分野は大きな進歩を成し遂げた。もっとも大きな成果は、MP3などに代表される音楽圧縮だろう。機械的にデータを捨てるだけでは、あれだけ大きな圧縮を、違和感なく成し遂げることはできない。これは大きな音、あるいはアタックのある音の後には、他の音を認識できるまでタイムラグがある、という脳の特性を利用したものである。また最近では、バーチャルサラウンドの技術も飛躍的な進歩を迎えようとしている。
このように、音が聞こえてからの心理はさかんに研究されているが、この前提は「脳がいつも同じ働きをする」というところに基づいている。だがその逆に、現在の脳の状態によって聞こえる音が違うという現象――ここでは便宜的にひっくり返して「心理音響学」とでも呼ぶことにしようか――これはなかなか研究しづらいテーマである。
よくテレビでは記憶力テストと称して、無意味なモノの羅列をタレントに覚えさせるというゲームをやっている。読者諸氏も一緒に挑戦したこともあるかもしれないが、うまく覚えられないからといって、自分は頭が悪いのだとしょげる必要はまったくない。人間はもともと生産的というか求道的なイキモノなので、まったく意味を持たないモノや数値の羅列を記憶するのに向いてないだけなのである。
無意味なモノを覚えるための方法は、それに無理矢理意味を付けていくことだ。例えばカラス、スイカ、ヤカン、窓...といった羅列は、「カラスがスイカ食ってヤカンの水を飲もうとしてるのが窓に映って...」というふうに、シリアル的にストーリーを組み立てることで、記憶することができる。
例えばあなたが街を歩くとき、通りの看板を全部覚えているだろうか。そんなことをしたら、あっという間に脳内がいっぱいになってしまうだろう。だから人間はそのエッセンス(印象)だけを取り出して記憶し、そのほかのディテールは記憶していなくても気にしないような作りになっている。細かいディテールまで全部覚えられるぐらいなら、人間はデジカメもボイスレコーダーもいらないのである。
もちろんそれが可能な人間もいる。だがそのような超特殊能力を持つ人は、通常の社会生活ができない場合が多い。ダスティン・ホフマンが演じた「レインマン」を思い出してもらえればいいだろう。
筆者は常々記憶と脳の特性に関してこのように思っているわけだが、時にそれをまったく無視するかのような意見を求められることがある。例えば「DVDレコーダーの画質比較」といったことだ。
例えばそういう比較を、どうやって実現するのが正しいだろうか。普通考えるのは、比較機種を順番に再生して、各要素ごとに点数を付けて評価するといった方法だろう。
だがこのような方法で「映像の解像度」といったディテールを判断するのは、現実には不可能である。なぜならばそれは、どんどん流れてくる膨大な量の映像情報を細部に至るまでいったん脳内にバッファリングし、次の機種を見るときにそれを脳内で再生して比較せよということなのである。筆者は映像のプロとして20年間仕事をしてきたが、とてもこのような能力はない。
これは解像度だけでなく、色味でも同じようなことが言える。脳というのは、入ってくる色に対して、オフセットをかけることができる。
極端な例をあげれば、あなたがサングラスをかけてスキーを滑っているとしよう。当然視野全体が、そのサングラスの色方向にシフトしてしまう。だがそれでもほんの数秒で、あなたの脳は雪を「白」だと認識しはじめ、自動的に視野全体にオフセットをかける。「あそこに立ってるオレンジのウェアの娘がすげえ美人」と聞けば、サングラスを外すことなく、瞬時にオレンジのウェアを探せるはずだ。
人間とは、環境に素早く順応してしまう動物だ。カラーバランスというのは、しばらく見ていると、脳が勝手に補正してしまうものなのだ。だからまずノーマルな状態をしばらく見て、脳内のオフセット値をゼロに戻してからでないと、ちゃんとした比較はできない。
結局のところ、自分の絶対値を信じて順番に試していくオーディオや映像機器の“横並び評論”は、単に“評者の好み”でしかあり得ない、ということになる。そんな個人的なことで優劣を決めたものが、別の個人の役に立つのだろうか。
3D映像が今後のトレンドになるのか? いや、今後も2Dが主流であることは間違いないだろうし、2D映像を見るための機能性や画質を犠牲にしてまで3Dを重視するのが正しい方向とは思わない。それでも、3D映像には将来に向けての発展性がある。
ついにキヤノンからメディアをメモリのみとしたAVCHDビデオカメラが登場した。コンパクトながら奥行き感のあるHD映像を撮影可能で、“キヤノンのメモリ型ビデオカメラ”を待っていた人も、コンパクトなHDビデオカメラが欲しい人にもお勧めだ。

 

[ 199] 評論家 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E8%AB%96%E5%AE%B6

評論は欧米においては「(個人が)物事をどう捉えるか・把握するか・判定するかを表明するもの」であったのであり、 日本にも近代になり欧米の「評論」が流入した。やがて「技術的に有用な多くの知見を持つことになった者がそれを社会へ提供・還元するもの」という面が強くなり、評論家の存在が前面に出てくるようになった。
評論家が対象とする事物には特に制限があるわけではなく、文学、政治、経済などあらゆる事物が評論の対象になる。そのため、毎年のように新しい肩書きの評論家が登場してくる。
評論家は多くの場合ある特定の分野だけを評論活動の対象としている。が、思想家や哲学者が、対象を限定せず広く批評・評論活動をすることもしばしばある。
評論家はフリーランスジャーナリストなどのライターが自称する場合が多い。評論家の多くは、その分野の真の意味での専門家(実行者、プロ)ではない。本当のプロであれば相応の肩書きがあり、「評論家」と名乗る必要がない。以下のようなケースが多い。
ある分野での真の専門家となることを目指したが、なんらかの事情でなれず、転じてその分野の評論家となって、その分野との関係を保っている者。
『評論家になろう』で紹介されている14人の評論家の出自は、出版編集関係6人、テレビ・ラジオ関係5人であり、元々なんらかの形でマスメディアに関わっていた・関わろうとした人間が多い。
評論家にとってマスメディアは必要不可欠の存在である。文字媒体(新聞、雑誌、書籍、インターネットなど)やラジオ、テレビなどのメディア抜きでは、業としての評論家は成り立たない。
またメディアの側も評論家を必要としている。メディアは放送番組や記事、広告としての形式や内容を成立させるために、評論家の知識や信頼感を利用する。また生放送などで台本を用意できない場合、特定の分野について多くの知識を持ち、その知識・経験を踏まえて、解説・意見をアドリブで話す事が出来る評論家は重宝される。また、評論家の解説・意見の責任は基本的には評論家にある。台本を用意しないことで、メディアは責任を回避する事が出来る[1]。
特にテレビの場合、評論家は画面の中に居るだけで、一定の信頼感を醸成することが出来る。放送局、番組制作会社にとっては便利な存在である。そのため、昨今ではメディアによって、評論家が粗製濫造されている。「逆神」と揶揄される評論家も現れ、マスコミ不信の一因になっている。
評論家という肩書きは自称にすぎない。例えば政治評論家が、「政治アナリスト」と名乗っても問題はない。また特定の分野でのみ使われる別名もある。例えば経済評論家は、しばしば「エコノミスト」を自称する。
評論家は文化人と総称される場合がある。「論客」や「オピニオンリーダー」として紹介される場合もある。報道番組の「ワイドショー化」によって、専門分野以外のコメントを求められることも多く、コメンテーターとの区別は難しくなっている。
文芸評論家が作家に準ずる存在として扱われる場合がある。評論文それ自体が後に " 文学作品 " として扱われることもある。
ほとんどの分野では、(ある段階では言語を活用するものの)、最終的には、なんらかの物質の次元での現実化、実証、あるいは身体を使っての実行というものが重んじられている。 ところが、文学の分野では、生み出されるものが、文字や言葉、あるいは観念ばかりである。つまり、他の分野のようには対象となる作品と評論の境界がはっきりしているわけではないからである。
だが、他の分野で真の専門家と評論家が同等には扱われないように、やはり文芸評論家は作家等とは同等には扱われない場合のほうが多い。
このような態度をシニカルに描いた小説として、筒井康隆の『俗物図鑑』(各種事象の“評論家”が登場)がある。
^ 2007年10月の亀田・内藤戦の報道姿勢への批判に関して、TBS広報部は「実況は用意した原稿を読んでいるのではなく、アナウンサー個人がその場で行うもの。局として見解を示すべきことではない」と回答している。

 

[ 200] 文芸評論 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%8A%B8%E8%A9%95%E8%AB%96

文芸評論(ぶんげいひょうろん)とは、文学を評論すること。文芸批評、または文学研究とも言うが、評論の対象や手法が多様なため、定義はあいまいである。小説家や作品に限らず文学とその周辺全般が扱われ、学際的な性格を持つ。研究対象の性格によっては、「文芸」または「文学」という呼称がふさわしくないこともある。
近現代の文芸評論は活字で提供されることが多いが、インターネットなど技術の発達とともに多様化してきた。学会誌に掲載される論文に限らず、週刊誌や新聞の書評欄に載るブックガイドの類いも文芸評論と呼ばれる(書評)。
評論の手法や論点は多様で、各評論家・研究者の立場・学説や研究対象によって異なる。同じ文学用語が違った定義で使われることもしばしばある。また、歴史学・言語学など、人文科学や社会科学を中心に他の学問領域と接点を持つ。
文学の歴史を研究すること。表現形式の系譜や写本の変遷、文芸評論自体の歴史など、時間軸に沿った文芸活動の全般が研究対象。書かれた言語や民族、国、時代などを限定して研究することも多い。文学史の年代区分は、便宜上政治の年代区分を参考に区切られることが多いが、そのことの是非も議論になる。
研究対象には異本が存在することも多いため、底本を選ぶ作業が重要になる。特に古典文学ではその傾向が強い。異本とは、写本・口述筆記する際の写し間違い、作者や他の人間による改訂など様々な理由で派生した、それぞれ微妙な違いを持った同一作品のバリエーションのことである。異本の発生や異同自体も研究対象になる。文献学、書誌学と深い関わりを持つ。
作者などの存在を排して記述された言語を中立的に捕らえるために、「作品」と呼ぶ替わりに「テクスト」という用語を使うこともある。テクストの語源はラテン語の「織る」から。
作家の伝記的研究に限らず、作家にまつわる様々な事象が対象になる。作者と読者の関係、メディアと作家の関係など。
新聞や雑誌で、その直前に発表された新しい作品を評価するもの。日本では大正時代にこの方式が確立し、時評での評価が作家にとって大切なものとなった。しかし、1990年代以降、時評を掲載しない新聞や雑誌も現れている。
文芸評論は、おそらく文学の誕生と同時に始められた。紀元前4世紀、アリストテレスは『詩学』で同時代の作品についての明瞭な評論を書いている。
近代の文芸評論は、18世紀イギリスにさかのぼる。当初は美学理論の影響を受けた印象批評が中心であった。印象批評は現在に至るまで続けられている。
日本では明治時代に入って新しい文学の概念が生まれると共に、評論というジャンルが発生し、専門の文芸評論家が現れた。坪内逍遥の近代小説論『小説神髄』である。やがて森鴎外が浪漫主義の立場で創作と評論に活躍し、逍遥との間で没理想論争が起きる。この後日本文学史上ではいくつかの有名な文学論争が戦わされることになる。
やがて20世紀初頭のロシア・フォルマリズム、1930 - 40年代のニュークリティシズムにより、作者の意図を読み取ることから離れ、テキストそのものを研究対象とする動きが生まれた。
1960年代以降、構造主義、ポスト構造主義などの影響で新しい文学理論が登場すると、文芸評論・文学研究の方法論や守備範囲は大きく広がり、より学際的な分野になった。

 

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