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藤山とは?/ ディック

[ 743] 藤山直美 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B1%B1%E7%9B%B4%E7%BE%8E

実父は喜劇俳優で松竹新喜劇で活躍した藤山寛美。1962年(昭和37年)、NHKのテレビ番組「桂春団治」で実父との親子共演でデビュー。5人姉妹(註:長姉・次姉は母の連れ子で、直美(三女)・四女・五女が寛美の実子)で唯一父と同じ道を歩み、以後舞台を中心に活躍する。最近では中村勘三郎、波乃久里子、柄本明らと共演することが多い。
1992年(平成4年)に放送された連続テレビ小説「おんなは度胸」での名脇役ぶりで全国区になる。またドラマ新銀河で放送された「この指止まれ!!」シリーズでも主演。また、2000年(平成12年)公開の映画「顔」では主人公を演じ、その演技が評価され毎日映画コンクールをはじめとする映画賞を数多く受賞した。「志村けんのバカ殿様」にバカ殿の妹として出演したことがある(志村けんが藤山の特番にゲスト出演した際に「バカ殿の妹役で出して」と懇願したことから実現した)。
過去には女性誌に歌手でタレントのやしきたかじんと結婚以上の仲であると報道されたことがある。結婚などの事実はないが、実際、たかじんの大ファンであり、舞台でもよくたかじんの歌を歌う。特番等でたかじんとの共演も多く、プライベートでも12時間以上の長電話をするなど、現在でもふたりの相性が抜群によいことが伺われる。
プロ野球では大の王貞治ファンとして知られ、著名人ではおすぎ・草野マサムネと並ぶ福岡ソフトバンクホークスファンである。(そのためか、近年福岡放送の人気ローカル番組「ナイトシャッフル」にイレギュラー参加している。)2003年小久保裕紀選手が怪我をした折、「私が代りにサードを守る」と発言。2005年11月、MBS「ちちんぷいぷい」にゲスト出演した時には、司会の角淳一に「今、一番関心のあることは?」と聞かれ、「城島選手のFA問題」と答えた。ヤフードームだけでは無く、出来る限りビジターの応援にも駆けつけるという筋金入り。
2007年には吉本新喜劇『コヤブ新喜劇 〜座長になって1年たちましたスペシャル〜』にシークレットゲストとして出演。旧来より松竹新喜劇とライバル関係にあった吉本の舞台に異例の出演を果たした。
沢田研二の熱狂的なファンであり、「あれほどセクシーさを感じた男性はいない」と評しており、後年、舞台版「夫婦善哉」(織田作之助原作)で共演した。
現代の芸能界の演技者としては珍しく、ひとつの仕事にかかると、他の仕事との掛け持ちは絶対にしない。その姿勢は、仕事・演技へのこだわり・徹底ぶりを示すものであり、新喜劇に命を懸けた父親の「芸に対する哲学」を引き継ぐものである。
やしきたかじんプロデュース(テレビ大阪のローカル特番だが、裏番組のめちゃ×2イケてるッ!にも彼女の出演シーンが含まれている)
この「藤山直美」は、俳優や女優に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。

 

[ 744] 藤山寛美 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B1%B1%E5%AF%9B%E7%BE%8E

永年、松竹新喜劇のスターとして活躍。阿呆役を演じれば天下一品で、「あほの寛ちゃん」として人気を博した。「桂春団治」の酒屋の小僧などは絶品である。
大阪大空襲で大阪の芝居小屋が焼け落ちた事もあり、1945年(昭和20年)3月に皇軍慰問隊の一員として旧満州に渡ったが、奉天(現在の瀋陽)で終戦を迎え、一時期ソ連軍に抑留される。開放された後はハルビンでキャバレーのボーイや靴磨き、芝居、ブローカーなどをしながら生き延び、1947年(昭和22年)秋に帰国。 以後は各劇団を転々とし、1947年に曽我廼家十吾、師匠格に当たる2代目渋谷天外、浪花千栄子らの松竹新喜劇の結成に参加。寛美をかわいがった天外が脳出血で倒れた後は実質的座長となった。観客によるリクエスト狂言の上演など、アイデアマンとして知られ、代表作は「鼻の六兵衛」「宝の入船」など。
俳優の子という出自ゆえ、「俳優」「芸人」としての姿勢を私生活でも徹底し、初代桂春團治と後の横山やすしの様に金使いも荒かった。「遊ばん芸人は花が無うなる」という母親の一家言を守り、夜の町を金に糸目をつけず豪遊した。「北の雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)、東西南北藤山寛美」といわれ、当時の遊び人TOP3人を称した。その魅力は後にやしきたかじんも惚れる事になる。バーのボーイに「チップとして」車のキーを渡し、自動車一台をあげたこともあった。そのため、多額の負債(知人に騙された巨額の負債もあった)を抱え、1966年には当時の金額で1億8000万円の負債を抱えて自己破産。これを契機に松竹と松竹芸能は彼を解雇。彼は舞台に立たず、知己のつてを頼り東映任侠映画で鶴田浩二らの助演で生活をしのいだ。余談だが、解雇通告したのが、当時松竹の常務を兼任し、先代の松竹芸能社長であった勝忠男である。
寛美が自己破産と松竹新喜劇を解雇された事を知った天外は寛美に「アホ!借金なんか作りよって!」と一喝した(事実上、その時点で寛美は「破門」の烙印を押されたが、復帰後は烙印は消えている)。
後輩芸人への面倒見が良かった寛美は、彼らの借金を立て替えることもしばしばで、特に自らがまだ多額の借金を抱えている最中に月亭八方の1000万円の借金をキャッシュで立て替えて払った話はあまりにも有名である。[1]
解雇後ミヤコ蝶々と南都雄二を迎えての新「松竹新喜劇」は寛美がいた時期ほど客足がのびず、師匠の2代目渋谷天外も脳出血で倒れた事もあって、ついに松竹は寛美の負債を立て替えて、再び舞台に呼び戻す事になった。
地方からの観客を舞台裏に招待することも多く、彼の残した色紙には大きく『夢』と言う文字が書かれることも多かった。
知人に騙された巨額の負債について、「アホをやっておりますが、わてのアホはどうやら本物らしゅうおます」と言い、恨み言一つも言わなかった。その負債も復帰によって完済し、大物ぶりを示す結果となった。
20年間にわたり一日も休まず舞台に立ち続け、大阪万博にすら行けなかったと言う逸話も残っている。ちなみに、上記の借金は19年目に完済された。
1990年の年明け頃から体に異変が起こる。3月に体の不調を訴えて検査入院、肝硬変と診断される。舞台に復帰したいと言う願いもむなしく同年5月21日に死去。亡くなる直前には上岡龍太郎主催の劇団「変化座」の演出・プロデュースを藤山寛美が担当することとなっており、寛美の顔写真が出演者とともに写っている宣伝ポスターまで作成されていたが、上演直前に亡くなったため陽の目を見ることがなくなってしまった(同舞台は藤山寛美追悼公演として上演された)。また、亡くなる3日前に「中座」に行きたいと言い出し、妻と共に夜遅くに「中座」へ行ったと言うエピソードがある。
死去の際、桂米朝は「一番残念なのは後継者を育てなかったこと」と悔やみ、上岡龍太郎は「大阪の文化が滅びる」と嘆き、立川談志は「通天閣が無くなったようだ」と偲んだ。
小林信彦も、「おかしいということに関しては、この人に勝る喜劇俳優はいない」と生前から最高の評価をしていた。 また、ダウンタウンの松本人志は著書の中で「この人は素で面白い人なのではなく、面白い人を演じることの天才なのだ」と評した。
寛美の三女の藤山直美が喜劇女優として寛美の芸を受け継ぎ、舞台で「鼻のおろく」(「鼻の六兵衛」のリメイク作品)など寛美の代表作を演目にしたこともある。
一方で上方喜劇を残そうと考えていた藤山寛美は、1981年(昭和56年)に弟子を曾我廼家玉太呂、曾我廼家八十吉として曾我廼家の名跡を襲名させており、今後彼らの活躍が待たれる。
2006年現在、再放送・DVDソフト化されていないが放送ライブラリーで閲覧出来る。現在も再放送・DVDソフト化を求める松竹新喜劇のファンも多いが、実話である事や劇中で使われた映像と写真の著作権等の絡みがあるからか、実現には至っていない。また、三女の直美をはじめ家族が反対している説もある。
この「藤山寛美」は、俳優や女優に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。

 

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