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細川とは?/ ディック

[ 1488] 細川ガラシャ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3

明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになったが、前近代の日本は夫婦別姓であり、北条政子・赤橋登子・日野富子などの例に照らせば「細川」姓で呼ぶのは明らかな間違いで、「明智 珠」と呼ぶのが正しい。
しかし天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、珠は「逆臣の娘」となる。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、天正12年(1584年)まで彼女を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に隔離・幽閉する。この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(公家清原枝賢の娘)らの侍女達だった。
珠の幽閉先とされる場所であるが、丹後味土野の山中(現京丹後市弥栄町)に天正10年9月以降に幽閉されたことは史実である。しかし一方、「丹波史」には丹波味土野に珠が隠棲していたとの伝承「丹波味土野説」がある。この伝承が事実とすると、本能寺の変直後には、細川忠興は珠をまず明智領の丹波味土野屋敷に送り返し、明智が滅亡したのちに改めて細川領の丹後味土野に屋敷を作って珠を幽閉したとも考えられる。
天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻した。この年に興秋が生まれている。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、その教えに心を魅かれていった。
天正14年(1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年(1587年)2月11日(3月19日)、夫の忠興が九州へ出陣し、彼女は意を決してカトリックの教えを聞きに行った。教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は修道士にいろいろな質問をした。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。
教会から戻った珠は大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。しかし、後に秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた。忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女の鼻を削ぎ、追い出した。
幸いにもガラシャは発覚を免れたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかになったという。
関ヶ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600年)7月16日(8月24日)、大坂の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原少斎に胸を貫かせて死んだという(キリスト教では自殺は大罪であるため。児童向け伝記では首を打たせたという記述も)。享年38。辞世の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠んだ。
この後、小笠原は屋敷に火をかけて自刃した。ガラシャの死の数時間後、オルガンティノ神父は細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。自殺していれば葬られはしなかったはずである。細川忠興はガラシャの死を深く悲しみ、慶長6年(1601年)にオルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の泰勝寺、等、何箇所か墓所がある。
なお、細川屋敷を三成の兵に囲まれた際に、ガラシャは長男の細川忠隆の正室で前田利家娘の千世に逃げるように勧めたと言われ、千世は姉・豪姫の住む隣の宇喜多屋敷に逃れた。しかし、これに激怒した忠興は世子・忠隆に千世との離婚を命じ、反発した忠隆を勘当廃嫡してしまった(忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している)。
ただ、彼女の死を含めた一連の事件には疑問点も少なくない。そのため、カトリックに寛容だった徳川家康を支持していたイエズス会が石田三成のイメージダウンを図るため、ガラシャの侍女でイエズス会信徒でもある者にガラシャを殺させ、それを石田側の犯行にみせかけたという謀殺説もある。
ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にイエスズ会の劇場でオペラとして発表された。 ガラシャの死はヨーロッパでは殉教死と考えられた(「武士道」と言う観念、武家社会の礼法が理解されない為)。その戯曲の中でのガラシャは、夫である野蛮な君主の非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心さるという解釈になっている。
この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベトなどの生き方にも尊敬と感銘を受け深く影響を与えたと言われる。

 

[ 1489] 細川護熙 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%AD%B7%E7%86%99

関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国武将細川忠興の子・熊本藩主細川忠利から数えて15代目の侯爵細川護貞と、首相経験者近衛文麿の娘である妻・温子の長男として東京都千代田区に生まれる(本籍地は熊本県熊本市)。栄光学園中学校、学習院高等科を経て上智大学法学部卒業後、朝日新聞に入社。鹿児島支局を経て社会部記者となり、金嬉老事件などを取材した。
その後、朝日新聞社を退職し衆議院議員総選挙に出馬、落選するも、1971年の参議院議員選挙で全国区から石原慎太郎などの支援を得て当選するが、石原とは袂を分かち田中角栄率いる七日会に所属したため、2期目は熊本県選挙区から出馬し当選、大蔵政務次官などを歴任した。
その後、熊本県知事選挙への出馬を表明、現職の沢田一精と自民党の公認を争った末の調整で公認候補となり、1983年に当選、2期8年勤める(当時全国最年少の知事)。この間、「日本一づくり運動」「くまもとアートポリス」などを推進。また知事在任中、何をするにも国(中央省庁)に権限を握られていることを痛感し、地方分権を推進するためには国の中枢に入って改革をする必要があると考えるようになる。引き合いとしてよく使った「バス停の設置場所を数メートル移動させるだけでも運輸省の許可を得るのに大変な手間がかかる」例は人口に膾炙した。
3期目の知事選も当選確実と誰もが考えていたが、「権不十年」(同じ者が権力の座に10年以上あるべきではない)を唱え2期8年で知事を辞めた後、1991年2月に活動の本拠を東京に移して、「臨時行政改革推進審議会豊かなくらし部会」部会長を務めた。
1992年、文芸春秋で「自由社会連合」結党宣言を発表。東西冷戦終結の国際潮流とリクルート事件をはじめとする政治腐敗、既成政党不信、政治改革・行政改革の遅滞を背景に、政権交代の可能性がほとんどなくなっていた保守政党(自民党)と革新政党(社会党)の二大政党制(1.5大政党制)を捨て、政権交代可能な保守の二大政党制を打ち立てるべきだと訴えた。新党は公募により党名を「日本新党」とし、10年以内に政権獲得を実現するという目標を掲げた。
同年、参議院選挙に比例区から立候補し、日本新党は細川を含めてミニ政党としては過去最高の4議席を獲得。その後も地方選挙で公認・推薦候補が当選していった。中央政界で政治改革をめぐり、波乱が巻き起こる中、1993年、総選挙の前哨戦と位置付けられた東京都議会議員選挙で大躍進する。
政治改革に行き詰まった宮沢内閣に対する不信任案の可決を受けた衆議院の解散による第40回衆院選で日本新党が躍進し、細川も熊本1区で全国第2位の票数を獲得して当選。この選挙で野党第一党の社会党は大敗し、与党で第一党の自由民主党も過半数に達していなかったため、日本新党と新党さきがけがキャスティングボートを握る。このとき新生党代表幹事小沢一郎の工作により、非自民連立政権の首班となることを細川は受諾した。
1993年8月5日、日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社民連、民改連の8つの政党・会派が連立を組み、政治改革を最大の使命とする細川を首班とする連立政権(細川内閣)が誕生した。細川は公選知事経験者としては初の総理大臣となった。閣僚を経験していない首相としては1945年の東久邇宮稔彦王以来48年ぶりである。細川政権誕生によって、1955年から38年間続いた、自民党長期政権、55年体制は崩壊した。細川内閣は、8頭立ての馬車と揶揄されることもあった。
細川は政治改革関連法案が参議院での否決させた際、河野洋平自民党総裁との党首会談で修正に合意し、中選挙区制に代わる国政選挙制度として、小選挙区比例代表並立制に基づく新たな選挙制度を実現した。また、1993年の冷夏によって起こった米不足で、日本のコメ市場の部分開放を受諾した。
しかし連立政権内での話し合いが円滑に行かなかったこと、細川自身の金銭スキャンダルが野党・自民党に追求されるにいたり、1994年4月25日に電撃的に総辞職。28日には、細川内閣で副総理であった羽田孜を首班とする羽田内閣が発足。細川政権は1年に満たない短命政権であった。
8月15日の戦没者追悼式典で初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明する文言を挿入した辞を述べた首相でもある。これは細川の生来の信念から来るものではなく、当時勃興した「慰安婦」問題などマスコミ界を賑わせたジャーナリズム的戦争責任論の影響を受けたものという見方もあった。
皮肉にも政治改革の実現は、非自民連立政権の結束を弱めることになり、小沢一郎、大蔵事務次官・斎藤次郎のラインに乗って発表した「国民福祉税」構想は、与党内でも批判を浴び取り下げざるを得なくなった。その後、自らの金銭スキャンダルが自民党によって取り上げられる中、政権を投げ出すような形で電撃的に辞職した。祖父・近衛文麿以来の出来事に「歴史は繰り返す」と皮肉られた。後に証人喚問を受けることとなる。
日本新党は、新生党・公明党・民社党などとの統一会派結成を経て1994年12月の新進党結党に参加。海部俊樹党首、羽田孜と合わせて首相経験者3人組で耳目を集め、参院選を勝利に導く。しかし、新進党は不協和音が大きくなり離党者が続出、細川も1997年6月18日に離党、12月には新党「フロム・ファイブ」を立ち上げ、新進党解党後の1998年に太陽党、国民の声との三党合併により民政党を結成した。
その後も、院内統一会派「民主友愛太陽国民連合」を経て、民主党への民政党、新党友愛、民主改革連合合流に当たっては、難航する協議を政権戦略会議議長としてとりまとめ、面目を躍如する。
1998年還暦を機に政界を引退し、陶芸家として神奈川県足柄下郡湯河原町宮上に居(不東庵)を構えている。陶芸の師は辻村史朗。また、細川家の所蔵品を保管展示する財団法人永青文庫の理事長を務める。現在、唯一政治に関わる活動として、「女性のための政治スクール」顧問を務める(名誉校長は妻の細川佳代子)。
熊本県知事時代に国民体育大会のアルペンスキー競技の大回転に出場したことがある。またNHKアナウンサーを退職した鈴木健二を熊本県立劇場館長として迎えている。勅使河原宏監督の映画「利休」(1989年)に、織田有楽役で出演したことも。
首相就任時に密室とのイメージを避けるために料亭政治の廃止と国会の外では議員バッジを外すと宣言した。これに対し、料亭業界からは「料亭というのは悪いところじゃございませんからね。細川さんによくおっしゃっておいてください」と苦言を呈され、バッジ業界からは「特定の業界の存在意義を否定するかのごとき発言は許されない」と抗議された。またこの影響で料亭には閑古鳥が鳴いたという。(2007年9月26日付産経新聞わたしの失敗(2)より)
記者会見では立ったままで会見したり、プロンプターを導入したりしてマスコミの注目を集めた。また、ボールペンで人を指しながら喋ることもしばしばだった。この一連の動作は嘉門達夫の『ハンバーガーショップ(国会篇)』でネタにされている。
それまでの首相記者会見が、椅子に座りながら机上のメモを読む姿であったのに対して対照的であったのでこれ一つだけでも大きく取り上げられた。
コメ市場の部分開放、河野洋平自由民主党総裁(当時)との政治改革関連法案の修正合意、国民福祉税構想等重要な発表をする際の記者会見が何度も深夜に行われマスコミはその度に振り回された。当時社会党委員長だった村山富市は細川の一連の記者会見について「深夜に騒ぐ男じゃのう」と呆れていたという。また、当時日本商工会議所会頭だった稲葉興作からは「夜寝て、朝起きて満員電車に揺られて仕事をするのが普通の姿。そういうときに正常な判断ができる」と一連の記者会見に苦言を呈した。
大の焼き鳥好きであるが首相在任中にコロムビア・トップ、西川きよしとの会食の際「総理大臣という立場で焼き鳥屋にも花見にも行けない」、「辞めたくなるときもありますよ」と漏らしたことで退陣表明かと大騒ぎになったことがある。
「細川家には、昔はもっと良い宝物があったんですが、戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく、応仁の乱の時ですがね」(首相就任時に流布されたジョーク)※実際には、上記発言は細川の父である細川護貞のジョークである。
郵政解散直後のインタビューで沈黙を破り初めて時評を行い「私は議員在任中は中国との軋轢を避けるため一度も靖国には参拝していない」「郵政解散は政治的空白を作る」、「小泉君はアメリカのいいなりだ、私は決していいなりにはならなかった」などの批判を行う一方でリーダーシップそのものは評価するとも語った。
風貌も似ているせいか、祖父近衛文麿によく比せられる。家柄のよさ、貴公子然とした身なり、政治改革の期待を一身に受け国民から圧倒的支持を受けたこと、にもかかわらず突如政権を投げ出したことは風貌どころか政治手法も似ていると揶揄される。
退陣があまりにも突然だったため、週刊誌などでは当時さまざまな憶測が流され、中には「陣劇の裏には、細川に対する“決定的な弱み”を握られ、捜査当局による事情聴取などの噂が飛び交い、『現職首相』の刑事訴追を避けるために政界引退と引き換えのある種の司法取引がなされた」とするものまであった。
毛並みの良さが言われるが、朝日新聞記者時代のあだ名は数日間も入浴も着替えもせず、支部の記者室に寝泊りをしていたことから「野蛮人」。
また、彼が野党連立政権の首班に小沢一郎から選ばれたのは「混乱期にこそ、血統の良さがモノを言う」という理由からだった。
国民福祉税導入を記者会見で発表した際、税率の根拠について尋ねられ、「腰だめの数字」と答え、物議をかもした。一部では「やっぱりお殿様だ」といわれた。
政府専用機の左右主翼の上下と垂直尾翼の両側の計6ヵ所につけられているやたらと大きな日の丸を見て、細川総理は「どこかの七つ紋みたいだね」と漏らしたという。
母・温子の父は、五摂家筆頭で第二次世界大戦前に首相を3度勤めて、昭和20年12月に青酸カリで自殺をした公爵・近衞文麿。
また、遠い親戚に細川隆一郎(細川忠隆〔=細川忠興の嫡男だが後に廃嫡〕の子孫)がいる。戦国時代末期の大名として知られる細川忠興(細川輝経の養子で細川藤孝の実子)・ガラシャ(明智光秀の子)夫妻が祖先。(男系では上記忠隆系のみが明智家と血が繋がっており、肥後藩主系では途中他家養子が入っている)。
肥後細川家の人物であるため、細川家嫡流・京兆家の細川頼之・細川勝元・細川政元らの血は引いていない(ただし京兆家は完全に零落してしまったため、京兆家の文化的資産は肥後細川家が継承している)。

 

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