理性とは?/ ディック
[ 489] カント『純粋理性批判』序論
[引用サイト] http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-introduction.html
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我々のあらゆる知識が経験から始まることは疑いがない。なぜなら、我々の認識能力は、対象となるものに出会わないで、どうして働き出すだろうか。対象が 我々の感覚に働きかけて、一方でそのイメージを作らせ、一方で知性の活動を喚起してその様々なイメージを比べさせたり、組み合わさせたり、分離させたりし て、その結果、感覚の印象から来た生の素材を知識に作り変えるのである。この知識こそは経験と呼ばれるものである。 したがって、時間的な順序で考える限りは、経験に先立つ知識などあり得ないことになる。つまり、経験によって全ての知識は始まるのである。しかし、全ての知識が経験によって始まるといっても、我々の全ての知識が経験の中から生まれてくるわけではない。 なぜなら、我々の経験による知識は、外から受け取る印象と、(その感覚的印象によって喚起された)我々の認識能力がもともと自分自身で用意しているものが合わさって、はじめて生まれてくるものである可能性が高いのである。 この我々の認識能力が用意しているものと元の素材との違いは、そう簡単には見分けられず、そこに注目してその違いが分かるようになるには長年の訓練が必要だろう。 これが本当にそうなのかはよく調べてみないと分からないし、とても簡単に答えられないことである。いったい、経験にも感覚的印象にも依存しないような知 識が存在するのだろうか。そのような知識は、経験によって後天的に生まれた知識である経験的知識とは区別して、先天的知識と呼ばれている。 しかし、先天的知識というだけでは、我々の問題が意味することを充分正確に表しているとは言えない。なぜなら、我々は経験から得た知識であっても、その 時には直接経験せずに常識で考えて分かったことを、「そんなことははじめから分かっていた」と言いがちだからである。しかし、常識は経験から手に入れたも 例えば、家の土台の下に穴をあけたために家が倒れた人がいると、そんなことはあらかじめ分かるはずだ、つまり、家が実際に倒れるという経験がなくても分 かるはずだと言うだろう。しかし、その人が前もってそのことを知らなかった可能性はある。なぜなら、そのことを前もって知っているためには、少なくとも、 物体には重さがあって、支えがなくなると落下するということを経験を通じて知っていなければならないからである。 したがって、我々が以降において先天的知識と言う場合は、特定の経験に依存しない知識ということではなく、どんな経験にも依存しない知識を意味するもの とする。その反対が経験的知識であり、経験を通じて後天的にしか手に入れることのできない知識を意味する。そして、先天的知識のうちでも、経験に依存する たとえば、「あらゆる変化には原因がある」という命題は、先天的ではあるが純粋ではない。なぜなら、この命題の中の「変化」という概念は経験によらなければ手に入らないからである。 次に問題なのは、純粋な知識と経験による知識を明確に区別する基準は何かという問題である。経験によって我々が知ることができるのは、あるものがこれこれであるということだけである。それが必然的にそうであるということは経験によって知ることはできない。 したがって、第一に、もし我々に必然的にそうであると思われるような内容の命題があれば、それは先天的な判断を表していることになる。そして、その命題 がさらに先天的な判断を内容とする命題から引き出されたものだとすれば、それは完全に先天的な判断を表していることになる。 第二に、経験から引き出された判断(帰納法)は、例外のない普遍性を備えていない。それは比較的多くの場合に当てはまるだけである。つまり、これまで観 察した範囲では、これこれの法則には例外が見つからなかったと言うことしかできない。したがって、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その内容 経験的な普遍性を持つ命題は、多くの場合に当てはまることを全てに当てはまるように言っているだけである。例えば「全ての物体は重さを持っている」とい う命題がそうである。それに対して、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その判断は先天的認識能力という特殊な源泉から引き出されたものであ る。つまり、その内容が必然性と例外のない普遍性を備えていることが、先天的知識の基準であって、この二つの基準は互いに密接に結び付いているのである。 しかしながら、ある判断が必然的でないことを示すより、例外のない普遍性を持たないことを示す方が簡単であるし、ある判断の必然性を示すより例外のない 普遍性を示す方が分かりやすかったりする。だから、これらの二つの基準は別々に使うのが望ましい。片方だけで充分正確だからである。 さて、ここまでくれば実際に人間の認識の中に、必然的で例外のない普遍性を持つような判断、すなわち、純粋で先天的な判断があるかどうかを示すことは簡単である。 学問から例を求めるなら、数学の様々な命題を思い浮かべればよい。また、常識的な頭の働きから例を引くなら、「全ての変化には原因がある」という命題をあげれば充分だろう。 後者について言うなら、「原因」という概念そのものの中に、原因と結果の結びつきという必然的な概念と、原因結果の法則の持つ例外のない普遍性が含まれ ているのは明らかである。したがって、もし原因の概念が(ヒュームの言うように)ある出来事とそれに先立つ出来事を何度もいっしょにして、その二つを結び つけて考える習慣から引き出されたもので、主観的な必然性しか持たないものだとしたら、それはもはや原因とは言えなくなるだろう。 とは言え、今のところは、我々の認識能力に純粋な用法があることを確認し、そのような用法の特徴を示すだけにとどめておこう。 しかし、判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概 念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのもの このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、 (実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象 諸君は何についてであれその本質について考えざるを得ないのである。そのために、諸君は本質という概念が諸君の先天的な認識能力のなかに存在することを認めざるをえない。 これまで述べたことよりもさらに重要なことは、ある種の認識が、経験の領域に留まっていずに、経験の世界に対応するものがないような概念を使って、経験の領域を越えて我々の判断の範囲を拡大しているように見えることである。 我々の理性は、現象の世界で知ることができるどんな事よりもはるかに重要ではるかに高級な問題を探求し続けているが、この探求はまさにそのような認識に属しており、経験を手がかりに真実を探求する感覚の世界を越えたところで行われている。 実際、我々は、どれほど疑いの目で見られようと、どれほど軽蔑され無視されようと、あらゆる誤謬の危険を冒してまで、この重要な問題の探求を止めようとはしない。この純粋理性にとって避けることのできない問題とは、神と自由と、霊魂の不死の問題である。 そして、形而上学とは、これらの問題を解決することにあらゆる精力を注ぎ込んできた学問である。この学問は最初から、独断的に、つまり理性の能力を前もって見極めることなしに、これほど重大な問題に自信満々で取り組んできた。 しかしながら、経験という土台を離れる以上は、我々がこれからうち立てようとする建物の土台が大丈夫なのかどうかをよく調べておくのが自然である。どの つまり、我々の知性はどうやって上記の先天的な認識能力を手に入れるのか、そして、先天的な認識能力はどの程度のもので、どれほど有効で、どんな値打ち があるのかという問題を、前もって考えるのは自然なことである。もし「自然」という言葉が、「ふさわしくて合理的に起こるべきこと」を意味するなら、実際 しかし、もし「自然」という言葉が「普通に起きること」を意味するなら、逆に理性の能力に対する検査がこれまでずっとなおざりにされてきたことほど、自 然で分かりやすいことはない。なぜなら、先天的な認識の一つである数学的認識の信頼性はずっと昔から確立されているので、数学とはまったく性格を異にする しかも、いったん経験の世界の外に出てしまうと、もはや経験と矛盾する心配はなくなってしまうし、認識を拡大する魅力は抗しがたいものなので、明らかな 矛盾に直面しない限り、拡大の歩みは止まりようがない。しかも、この明白な矛盾は虚構の世界を念入りに組み立てることによって避けられるのである。しか 数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもど んな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によら なくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。 こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。 このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出して いったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはで 理論によって何らかの構築物をうち立てようとするとき、人々はできるだけ急いでそれを完成して、その基礎がしっかりしているかは後から調べようとする。 それが思索の場での人間の理性のいつものやり方である。しかも、その基礎が大丈夫だと得心するために、あるいは手遅れの危なっかしい検査を無しで済ませる 建築の途中では基礎について何の疑問も不安も抱かず、しっかりした基礎の上に建てていると思い込んでしまうのは、我々の理性が行うことの大部分が、対象についてすでに我々が持っている概念を分析することだからである。 概念の分析というものは非常に多くの知識を我々にもたらしてくれる。しかし、分析は、実際には既存の概念の中ですでに(混乱した形ではあるが)考えられ ていたことを明るみに出したり明確にしたりするだけである。ところが、少なくとも形の上からは、それらは新たな知識のように思われがちである。しかし、そ しかし、この分析というものは実際に先天的な認識(分析的判断)をもたらしてくれるし、その認識は確かなもので役立ちもする。この見せかけにだまされ て、人々はいつの間にか、概念の分析だけで元の概念とはまったく別の認識、つまり、既存の概念にそれとは違う先天的な概念を付け加えるような認識(総合的 判断)を生み出せると思い込んでしまった。ところが、どうすれば総合的判断を生み出せるかは誰も知らないし、そんな疑問を抱いた人さえもいないのである。 主語と述語の組み合わせで表現される判断(ここで扱うのは肯定判断だけだが、以下に述べることは否定判断にも容易に応用できる)には、二つの種類が可能 である。その一つは、主語Aと述語Bがあるとして、Bの概念がAの概念に(隠れて)含まれている場合。もう一つは、二つの概念の間につながりはあるが、B 最初の場合をわたしは分析的判断と呼び、あとの場合を総合的判断と呼ぶ。分析的判断では(肯定の場合)、同一性によって主語と述語が結びつけられている。それに対して総合的判断では、同一性なしに主語と述語が結びつけられる。 前者の場合は、述語は主語の概念に何も付け加えることはない。それは、主語の概念の中に(混乱した形ではあるが)すでに存在すると思われる部分的な概念に分解するだけである。したがって、これは注釈的な判断と呼ぶことができる。 それに対して、後者の場合、述語は、主語の中にはけっして存在しない概念、主語の概念をいくら分析しても引き出せない概念を主語の概念に付け加える。したがって、これは拡張的な判断と呼ぶことができる。 たとえば、もしわたしが「全ての物体には大きさがある」と言えば、それは分析的判断である。なぜなら、わたしは「大きさ」が「物体」と結び付いているこ とを発見するには、「物体」と結びつけて考えられる概念を越える必要はなく、「物体」の概念を分析していき、わたしがいつも「物体」の概念の中にあると 思っている様々なものを想起すれば、この述語を見つけ出すことができる。したがって、これは分析的判断である。 それに対して、もしわたしが「全ての物体には重さがある」と言えば、この述語はわたしが一般的に「物体」という概念の中にあると思っているのとは全く違う概念である。そこで、このような述語を付け加えるのは総合的判断だということになる。 ところで、経験に基づくあらゆる判断は、本質的に総合的判断である。なぜなら、分析的判断の根拠を経験におくのは無意味だからである。わたしが分析的判 断をする場合には、自分の持っている概念の外に出る必要はないし、その判断の正しさを経験によって証明する必要もないからである。 「物体には大きさがある」というのは、先天的に成立する命題であり、経験に基づく判断ではない。なぜなら、経験するまでもなく、「物体」の概念の中を探 せば、この判断を下すのに必要なものは全て揃っているからである。だから、わたしは「物体」の概念から、矛盾律(「AがBであると同時にBでないことはあ り得ない」という法則)にしたがって述語を引き出せばよいのである。そうすれば同時に、この判断は、決して経験から得ることのできない必然性を備えたもの 一方、わたしは「重さがある」という述語を「物体」の概念に含めて考えることはないが、「物体」の概念は経験の一部となることによって経験の対象となる。 すると、わたしは経験の一部となった物体の概念に、同じ経験の他の一部(重さ)を付け加えることができるようになる。こうして、重さの概念は物体の概念に わたしはその前に、「物体」の概念を「大きさ」や「不可侵性」や「形態」などどれも「物体」の概念の中に存在すると思われる特徴によって分析的に認識することができる。しかし、今わたしは、自分の認識を拡大しようとしている。 つまり、わたしは物体の概念を引き出した際の経験を想起して、上記の様々な特徴に「重さ」という特徴が結びついていることに気づいたとき、この「重さを持つ」という述語を「物体」の概念に付け加えるのである。 このように、「物体」という概念と「重さ」という述語を総合的に組み合わせることができるかどうかは、経験に依存している。一方の概念は他方の概念に含 まれてはいないが、両者はそれぞれ、たとえ偶然であっても、経験という全体の中の一部として互いに結び付いている。経験とはそれ自体様々な直観を総合的に しかし、総合的判断の中でも先天的なものの場合には、この経験の助けを全く得ることができない。では、わたしはAという概念の外へ出て、Bという概念が Aという概念と結び付いていることを知るには、何を頼りにすればよいだろうか。何によって総合的な結合は可能となるのだろうか。なぜなら、この頼りとすべ 例えば、「全ての出来事には原因がある」という命題を考えてみよう。「出来事」という概念には、ある存在とそれが存在する前になにがしかの時間が経過し ていることなどを考えることができる。そして、この「出来事」という概念から分析的判断を引き出すことはできる。しかしながら、「原因」という概念は「出 来事」という概念とは完全に別のところにあって、「出来事」という概念とは全く異なるものであり、「出来事」という概念には決して含まれてはいない。 では、どうして、わたしは「出来事」について、それとは全く異なる述語を加えて、「原因」の概念が「出来事」の概念に含まれていないにもかかわらず、それが「出来事」の概念に必然的に結びついていると認識するのだろうか。 我々が、概念Aの外側に、それとは異なるが、同時にそれと結び付いていると思われる述語Bを発見できたと思うとき、その裏付けとなる未知のXとは何だろ うか。それは経験ではあり得ない。なぜなら、ここで問題にしている命題は、前の概念に後の概念を、例外のない普遍性と必然性をもって結びつけるものであ つまり、我々の経験に依存しない理論的な認識の最終的な目標は、このような総合的命題、つまり、拡大的な命題である。なぜなら、確かに、分析的命題は非 常に重要で無くてはならないものだが、それは総合的結合を確実かつ広範囲に行って新たな知識を手に入れるためには概念の明確化が欠かせず、そのためには分 1. 数学上の判断はすべて総合的判断である。この事実は議論の余地のないほど確かであり、それがもたらす結果から見ても非常に重要である。にもかかわら ず、これまでのところ、理性の分析に携わる人たちはこの事実を知らないでいる。いやそれどころか、彼らはこれとは全く反対の考え方をしているのである。 確かに、総合的命題を矛盾律によって説明することができる場合もある。しかし、それは、その命題が引き出された元の総合的命題が別にある場合に限られていて、総合的命題が単独で矛盾律によって説明されるわけではない。 まず第一に、厳密な意味での数学的命題はつねに先天的な判断であって経験による判断ではないことに注目しなければならない。なぜなら、数学的命題は経験 からは引き出せない高いレベルの必然性を備えているからである。これに異議を唱える人がいるなら、この特徴を純粋数学に限ってもよい。ということは、純粋 例えば、7+5=12 という命題は分析的命題で、7と5の合計という概念から矛盾律にしたがって引き出されると考える人がいるかもしれない。しかし、よく見ると7と5の合計という概念は、二つの数を結びつけて一つにすること以外には何も含んでいないことが分かる。 二つの数を合わせた一つの数が何であるかという情報は、その中には含まれていないのである。わたしは7と5を結びつけることを考えるだけでは、決して 12という概念を導き出すことはできない。わたしはそのようなありうべき合計という概念をどれだけ分析してみても、そこに12という数を見つけることはで そのために我々は7と5の合計という概念の外に出て、直観の助けを借りなければならない。その直観とは例えば二つの数の一方に対応する五本の指や、ゼン ガーがその『算数』の中で示したような五つの点である。そして、この直観によって与えられた5の一つ一つを順番に7の概念に加えていくのである。 つまり、わたしは7から出発して、5という概念の代わりに手の五本の指を直観として使って、取りのけておいた一つ一つを5になるまで、このイメージにしたがって、7に対して順番に足していくのである。そうして12という数字が出来上がるのを目にするのである。 7に5を足すということは、「7と5の合計」という概念の中に見つけることができるが、その合計が12という数に等しいということは、その概念の中には ない。つまり、数学的命題はつねに総合的なのである。これはもっと大きな数を扱うならさらにいっそう明らかになるだろう。その場合には、どれだけ手元にあ る概念をひねくり回してみても、直観の助けなしにそれらを分析するだけでは、けっして合計の数を発見できないことが明白だからである。 合的命題である。なぜなら、わたしの中の「まっすぐな」という概念には、質に関する内容は含まれていても、量(長短)に関する内容は含まれてはいないから である。「最短」という概念は、完全によそから付け加えられたものであって、「まっすぐな線」という概念をどう分析しても、そこから引き出すことはできな の命題は直観なしに概念だけで有効であるが、それらが数学のなかに含まれているのは、直観で捉えられるからにほかならない。 数学の場合、このような例外のない必然性を備えた命題の述語は、我々の概念の中にすでに含まれており、その命題は分析的なものだと一般的に信じられているとすれば、その原因はひとえにこのような命題の表現方法の曖昧さにある。 というのは、我々は数学の命題においては一つの与えられた概念に何か一つの述語を付け加えて考えるべきなのであるが、この結び付きの必然性はすでにその 概念に付随しているからである。しかしながら、問題とすべきは、与えられた概念に何を付け加えて考えるべきかではなく、その概念の中に、たとえかすかでは あっても、実際に何があると考えるかである(訳注:数学の命題の場合には、概念の中には何も考えてはいない)。 そうすれば、その述語は、与えられた概念自身の中にあると考えられたものとしてではなく、その概念に付け加えられるべき直観をつうじで、その概念と必然的に結び付いていることが明らになる。 2. 自然科学(物理学)の法則の中には、経験によらない総合的判断が含まれている。そのうちから二つだけ挙げてみよう。「物質の世界の変化においては物 質の量は不変である」と「動きの伝達においては作用と反作用は常に大きさが等しい」である。これらの法則が両方とも、必然性と先天的起源を持っているだけ なぜなら、わたしは物質という概念の中では不変ということを考えたりはしない。物質が空間を占めていることから、わたしはそれが空間の中に存在するとい うことだけを考える。そこで、わたしは物質の概念の外側に行って、その概念の中では考えることのできない先天的な何かをその概念に付け加えて考える。した がって、この命題は分析的ではなく総合的であって、しかも経験に依存しないものである。自然科学の他の純粋な分野の命題もこれと同様である。 3.形而上学は、これまで単に試みとしてなされただけの学問であるとはいえ、人間理性の特性のおかげで、無くてはならない学問であり、その中には経験によ らない総合的な認識が含まれているはずである。なぜなら、その役割は、物事に対して我々が先天的に自ら持っている概念を分析して明らかにするだけでなく、 して、先天的かつ総合的な判断を通じて、もはや経験によっては確認できない世界の探求に乗り出すのである。それは、例えば「世界には最初の始まりがある」 というような命題を探求することである。このように、形而上学とは、完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。少なくとも、形而上学の目的 多くの問題を一つの問題の形にすることができれば、それだけですでに大きな収穫だろう。そうすれば、問題が正確に定義されて、仕事がやりやすくなるだけでなく、我々の意図が実際に達成されているかどうか確かめようとする人たちにとっても、判断がつけやすくなる。 という問題の形に集約できる。この問題はこれまで一度も検討されずにきている。そのために、形而上学はこれまでずっと矛盾と混乱の間を行ったり来たりしてきた。いやそれどころか、分析的判断と総合的判断の違いさえもよく検討されずにきたのである。 この問題がもし解明されるなら、形而上学は着実な進歩を始めるだろう。しかし逆に、総合的な判断は経験によらなければ不可能であることが充分に証明されれば、形而上学は存在できないことになる。 多くの哲学者たちの中でもデビッド・ヒュームはこの問題に最も近づいた人である。しかし、彼は充分明確にしかも普遍的なやり方でこの問題を考察したとは 言えない。彼はひたすら原因と結果の関係という総合的命題(因果律)に取り組んだ。そして、彼はそのような命題は経験によらなければ全く不可能であるとい 彼の結論によれば、我々が形而上学と呼んでいるものは全くの妄想でしかない。つまり、実際には経験から借りてきたものが習慣によって必然性を持っているように見えるだけのものを、我々は理性による認識だと思い込んでいるのである。 彼がもし我々の問題を普遍的な観点から考察していたら、あらゆる純粋哲学を破壊するこのような結論に陥ることはなかっただろうし、自分の説に従えば、総 合的命題を経験によらずに扱う純粋数学が不可能になることに彼も気づいていただろう。頭のいい彼が純粋数学が不可能だと言うはずはないからである。 上記の問題を解くことは、すなわち、対象に対する経験によらない理論的知識を含むようなあらゆる学問を純粋理性を使用することによって創設し完成させることは可能であるかどうかを問うことである。要するにそれは、次の問に答えることである。 これらの学問が実際に存在する以上、このように問うてみることは決して間違ってはいない。なぜなら、そもそもこれらの学問が可能であること自体はそれらが存在することによってすでに証明されているからである。(原注) 原注 それでもなお純粋な自然科学の存在を疑う人がたくさんいるかもしれない。しかしながら、経験に基づく物理学についても、その初期の頃に発見された様 々な法則、質量保存の法則や慣性の法則や作用反作用の法則などのことを考えてみればよい。すると、これらの法則が実は純粋な物理学を構成するものであるこ とが容易に分かるはずだ。このような理性に基づく純粋な物理学は、たとえそれが扱う範囲は狭くても、独立した学問として扱うに値する。 いっぽう、形而上学のこれまでの歩みは遅々としており、また、これまでに提案された形而上学はどれ一つとってみても、この学問の本質的な目的に照らせば、それが実際に存在するとは言えないものである以上、この学問がそもそも可能かどうかを疑ってもよいのである。 なぜなら、人間の理性は、単なる虚栄心に満ちた博識の欲求に駆られることはなくても、内面の欲求に駆られて、ある問い──理性の能力を経験の世界に働か んな人間も、理性が成熟して物を考えるようになると、心の中に何らかの形而上学がいつも存在するようになり、決して消えることがない。そこで という問いが生まれる。それは言い換えると「どのようにして、一般的な理性の本質的傾向として、あの問い──純粋な理性が自らに問いかけ、何とかして答えようと必至になるあの問い──は生まれてくるのか」ということである。 これまでのところ、このような問い──例えば、世界には始まりがあるのか、それとも昔からずっと存在するのかという問い──に答えようとするどのような 試みも、矛盾に直面せずにはいられなかった。そのために、我々は形而上学をめざす本質的傾向には満足できないでいる。それはとりもなおさず、何らかの形而 しかし、我々はそもそも形而上学の対象となるものを認識できるかどうかなら、我々の理性によって確かめることができるにちがいない。つまり、形而上学は 何を研究対象とすべきか、あるいはその研究対象に関して判断を下す能力が理性にはあるのかどうか、あるいは我々は安心して純粋理性の扱う領域を拡大してよ いのか、それともちゃんとした境界線を引くべきかどうかを明確にすることなら、我々の理性にもできるにちがいない。 したがって、上記の漠然とした問題「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能なのか」から始まった我々の問いは、次のように言い換えることができる、 要するに、理性の能力を批判的に検討することこそ学問としての形而上学への道であり、それに対して、理性を批判せず、根拠のない主張に基づいてそれを独断的に使用することは、別の同じく根拠のないな反対意見を生み出すだけであり、結局それは懐疑主義に至る道である。 学問としての形而上学は驚くほど膨大なものとなることはない。なぜなら、この学問は、無限に複雑多岐にわたる理性の対象を扱うのではなく、理性自身を扱 うのであって、理性の内側だけから発生する問題、理性とは異なるものの本質ゆえにではなく、理性の本質ゆえに自分に課せられる問題を扱うからである。 しかも、経験の世界に現れる対象についての理性の能力を批判を通じて前もって完全に理解しておけば、形而上学という経験の世界の境界線を越えたところで理性の使用を試すときにも、その使用範囲と限界を誤りなく決定するのはたやすいに違いない。 したがって、形而上学を独断的に実現しようとしたこれまでの試みは全てなかったものと見なすことができるし、また見なさねばならない。なぜなら、これま での試みの中に見られる分析的な部分は、我々の理性に先天的に宿っている概念を単に分析しただけで、それは本来の形而上学の目標ではなく、その準備に過ぎ この目的にとっては、概念の分析は役に立たない。それは概念の中に何が含まれているかを明らかにするだけで、どのようにして概念を手に入れたかを明らか にはしないからである。ある概念をどのようにして手に入れたかが分かれば、そのような概念をあらゆる認識の対象について有効に活用することができるのであ 形而上学を独断的に実現する要求の全てを放棄することはたいした忍耐を必要としない。これまでの形而上学は、理性が独断的に使用されたために理性が自己矛盾に陥らざるを得ず、ずっと昔にどれも権威を失ってしまっている。 しかしながら、この学問は人間にとって無くてはならないものである。それは、次々に生えてくる幹を切り取っても、根っ子まで破壊することのできない植物 に似ている。この学問を知的困難にも外的抵抗にもめげずにこれまでとは違うやり方で成長させて実を実らせるまでには、過去の形而上学を放棄するよりももっ そして、まさにこの形而上学の再生のために、『純粋理性批判』という名の特別な学問の構想が生まれたのである。 る。すると純粋理性はオルガノン(学問研究の道具)となり、あらゆる純粋な知識を経験によらずに手に入れる原理の総体ということになる。そして、そのよう しかし、それは過大な要求であり、そもそもそれで我々の認識は拡大するのか、またそれはどういう場合に可能なのかはまだ分からない。したがって、純粋理 性の体系を作る前段階として、純粋理性に評価を下して、純粋理性の源と限界を明らかにするためだけの学問が必要なのである。 純粋理性についてのこの学問は、理論ではなく批判と呼ぶべきものであり、思索の場におけるその役割も実際には消極的なものとならざるを得ない。この学問 は理性の能力を拡大するのではなく、それをはっきりさせて、過ちを犯さないようにするためにだけ存在する。しかし、それだけでも大きな収穫となるだろう。 わたしは、知識は知識でも対象についての知識ではなく、対象を経験によらずに知る方法についての知識のことを「超越的」と呼んでいる。 そして、そのような知識を集めて体系化したものが「超越的哲学」と呼ばれることになるだろう。しかし、そのような哲学は最初の間は荷が重すぎる。なぜな ら、そのような学問は総合的認識と分析的認識の両方の先天的認識を完全に含まねばならないため、我々の目的からは、あまりにも遠すぎるからである。 というのは、我々が分析を行うのは、経験によらない総合的認識の原理の全体像を把握するためにどうしても必要な場合だけに限らねばならないからである。我々にとって重要なのはこの原理をつかむことだけなのである。 我々のこの研究は理論ではなく、単に超越的な批判と呼ばれるべきなのである。なぜなら、この研究の目的は、我々の認識を拡大することではなく、我々の認識を修正することであり、我々が持っているあらゆる先天的な認識の価値を見極める手段を提供することだからである。 したがって、この批判は、もし可能ならば、オルガノン(上記)の準備をすることであり、もしそれができないなら、あらゆる先天的認識の規準の準備をする ことである。そして、その基準に従えば、純粋理性哲学の方法の全体像を──この哲学が、純粋理性の認識領域を拡大することになるか、限定することになるか このような批判のシステムを構築することが可能なこと、そしてそれがとても完成できないほど巨大なものではないことは、あらかじめ次の事実から容易に推 測できる。つまり、我々がここで扱うのは物の本質ではなく──それなら膨大な量になる──物の本質について判断を下す知性(悟性)、しかもただ先天的な認 しかもその知性の武器庫(=原理と方法)は我々の内側を探せばよいのだから、それはきっと見つかるはずである。また、どう考えてもそんなにたくさんある はずはないから、それらを完璧に理解してその価値を正しく評価することができるにちがいない。読者はこの本の中に純粋理性に関する書物に対する批判やその 理論に対する批判が書かれていると思わないでもらいたい。ここにあるのは、純粋理性の能力に対する批判だけである。 我々は、この批判に基礎を置くことによってはじめて、この分野における古今の著作を評価する確かな方法を手にすることができる。それがない現状は、資格のない歴史家や批評家が、根拠のない他人の主張を、これまた根拠のない自分の主張によって評価しているだけである。 る。つまり、この哲学のあらゆる部分が完璧で確実な構造をもつことは、『純粋理性批判』によって保証されねばならない。この哲学は純粋理性の全ての原理か この『批判』には人間のあらゆる先天的認識に対する詳細な分析が含まれていないため、一個の完全な体系とはならない。まさにそれゆえに『批判』は「超越 的哲学」と呼ばれることはない。我々は『批判』において、上記の先天的認識に含まれる基本概念の全てを数え上げるつもりである。しかし、これらの概念の詳 というのは、この『批判』の全体の目的は本来「総合」にあり、この場合に見られる問題は、分析の場合には存在しないので、そのような分析や検討は我々の 目的とは関係がないからである。また、そのような派生的なことや分析にまで責任を負うことは、我々の計画の一貫性を損なうことにもなる。我々の目的から 本論の中で示される先天的概念とそこから派生する概念に対する完全な分析は、先天的概念が充分な「総合の原理(Prinzipien)」として存在し、それが本質的な目的を達成するために必要かつ充分なものなら、あとからでも簡単にできることである。 したがって、『純粋理性批判』には「超越的哲学」の基本的な部分は全て含まれることになる。しかし、『純粋理性批判』は「超越的哲学」の完璧な理念を示 すものであっても「超越的哲学」そのものではない。なぜなら、『純粋理性批判』においては、経験に依存しない総合的な認識を完全に調べるのに必要なだけし この「超越的哲学」という学問の内容に関して注意すべき点は、経験に基づく要素を含むような概念はその中に入らないということである。つまり、この学問 なぜなら、確かに、経験に基づく快不快の概念や好き嫌いの概念が道徳的な教訓の基礎となることはないが、純粋な道徳の体系を構成するときには、これらの 経験に基づく概念が、義務を妨げるもの、克服すべきもの、あるいは、払いのけるべき誘惑として,義務の概念を構成する際にどうしても必要となるからであ したがって、「超越的哲学」とは純粋な理論理性だけの哲学である。実践的なものは全て動機を含むために、感情と関係している。つまり、感情は認識の経験的な源なのである。 この『純粋理性批判』を一般的な哲学書のやり方にならって構成するなら、我々がこれから提示する『純粋理性批判』は、最初に純粋理性の原理論 こで述べるつもりはないが、序論あるいは前置きとしてここで言っておくべきことは、人間の認識には感性と知性という二つの幹があって、この二つは我々には そして、感性を通じて対象が我々に与えられ、知性を通じて我々はそれを考えるのである。感性のうちでも、対象が我々に与えられる条件となる先天的概念を 含むものは「超越的哲学」の中に含まれる。また、認識の対象を考えるためには、何よりもまずその対象が人間に与えられねばならないから、超越的感性論が原 |
[ 490] なんでも評点:下着の広告を見ると人間は5分の1秒間理性を失う?
[引用サイト] http://rate.livedoor.biz/archives/50051483.html
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欧米では、下着など、色っぽい看板広告が設置されている付近で交通事故が多発することが統計的にわかっているという。そりゃ、脇見運転の原因になるからだろう。交通課のお巡りさんの間では、「エッチな広告に注意!」の標識を設置するべき時期に来ているかもしれない・・・なんてジョークが交わされているとか。(注:左の写真は、アフィリエートリンクです) 知性派・理性派を自認する人なら、そんな看板に気を取られないように意識的に注意すればいいだけのことだと思うかもしれない。だが、米国のエール大学とカーネギー研究所の科学者たちが行った実験の結果によると、エロチックな写真が人間に与える作用は、意識してコントロールできるものではないらしい。 この実験では、被験者たちにコンピュータ画面上のスライドショーを見せた。数百枚もの風景や建物の写真が次々と切り替わる。被験者は、その中に含まれているホワイトハウス(米国大統領官邸)の写真を特定しなければならない。ところが、これらの写真の中には、色っぽい写真が数枚忍ばせてある。 スライドショーの中で、色っぽい写真が表示されてからホワイトハウスの写真が表示されるまでの時間が短いほど、被験者たちがホワイトハウスの写真を見逃す率が高くなった。見逃した被験者たちは、「ホワイトハウスの写真なんて、どこにも表示されませんでしたよ」と答える始末。 ヴァンダービルト・ケネディ人間開発センターの一員であるデビッド・ザルド心理学助教授は、こう述べている。「当たり障りのない画像の後に目的の画像が表示される場合については、ほとんど問題なく目的の画像を特定できます。でも、当たり障りのある画像が表示された後、5分の1秒以内に目的の画像が表示された場合は、目的の画像を見逃してしまう傾向があることがわかりました」。 エロチックな画像は、それだけ脳に訴える。ごくわずかな時間とは言え、その画像に視線が留まってしまう。情動が理性に勝っている瞬間が生じる。だから、目的の画像を見逃してしまうということのようだ。 その後は、いつもどおりに理性が情動を支配下に置き、ほかの画像を普通に見ている。だから自分の中で情動が支配的になった瞬間のことなど覚えておらず、目的の写真がスライドショーに含まれていなかったと確信したりもするのだろう。 まあ実際、5分の1秒とかいう非常に短い時間の間だけ生じる現象なわけだ。もっと時間に余裕があるケースなら逆の結果になることもありえる。たとえば、Webサイト上のエロチックな画像バナーなどはどうだろう。一瞬視線が止まっても、「またこれか」という辟易感が優勢になることも多いのではないだろうか。 だが、ドライバーや歩行者がエロチックな看板に視線を奪われるケースについては、5分の1秒もあれば事故を引き起こすのに十分なほどかもしれない。米国での調査では、道路脇にセックスやバイオレンスを連想させる看板があると、ドライバーや歩行者が注意を奪われ、事故に至るケースが多いことがわかっているらしい。 米国の科学者たちは、バイオレンスを連想させる写真や広告も、エロチックなものと同じ作用をもたらすと考えている。また、これらの当たり障りのあるイメージに対する脳のリアクションに関しては、男女の性差がないという。 元記事の触りの部分を読んで面白そうに思ったので、この話を取り上げてみたが、やっぱり「何を今さら」感が否めない。 だいいち、道端の刺激的な広告が悪影響を与えるというなら、露出の高い服装で道を歩いている女性はどうなる? 画像より実物の方がはるかに刺激的ではないか? そっちに気を取られて事故る可能性の方が高そうだ。実際、台湾では、ビンロー売りの女性の服装がセクシーすぎて事故が多発しているとかいう問題が取り沙汰されてもいるわけだが。 小林○起氏の選挙法違反…やっぱり選挙が終わるとゾロゾロ出てくるんですねぇ。なんかあの人哀れというかなんというか。小池百合子に選挙事務所を自分の選挙事務所のすぐ横に構えられ、選挙は落選、おまけに私設秘書はタイーホ。 そんな彼を哀れみながら、今朝の更新いってみ... 欧米では、下着など、色っぽい看板広告が設置されている付近で交通事故が多発することが統計的にわかっているそうです。 【ロンドン 21日 ロイター】 − イギリスの男性ドライバーは、5人に1人は道路際にあるセミヌードのモデルの広告看板につい目が行き、わき見運転をしてしまったことがあると認めた−そんな危ない調査.... 件についての、自己完結的検証は録画機器の発達により、かなりの人間が「何を今さら」と感じているかもしれない。 初めてお越しの方へ:コメントは承認制のため、管理者がうっかり見落としていて表示されなかったり、他の理由により永久に表示されないこともあります。このサイトをあまり楽しくないと思っている方はコメントを入力するだけ時間の無駄のようです。また、コメントに露骨な表現が含まれている場合は、その部分が字化けする仕様になっています。あしからず。 ネタとしての珍奇さと、読み物としての面白さのバランスが取れた記事100本を厳選 ― 読んで楽しんだ後は、仲間との話のネタが100本も増えます 全国書店店頭で購入できます。店頭に見当たらない場合は『なんでも評点 世界のありえな〜い100選』とご用命ください。 このサイトでは、主に海外の珍ニュースを題材にした読み物記事をほぼ毎日掲載しています。サイト名の「評点」は、もともと話題に10段階の評点をつけていたことに由来しますが、最近の記事には原則として評点をつけていません。ただし、書籍版なんでも評点では、3つ1セットの五段階評価方式で“評点”が復活しています。 当ブログはリンク無制限です。トラックバックとコメントは、手動で確認した上、表示させていただきます。いずれも、表示されるまでに時間がかかります。投稿したコメントや送信したトラックバックが表示されない場合もあることをあらかじめお断りしておきます。特にトラックバックはリンク元の確認に手間取って反映が遅れがちなので、ご了承ください。 ナビゲーション:右側にあるボタンで上の記事(1つ新しい記事)または下の記事(1つ古い記事)に移動できます。ページトップのフレームの中にピックアップ記事へのリンクがあります。検索ボックスの下のボックスから特定年月のバックナンバー・ページに移動できます。 当ブログの記事の多くには、ソースとした英文記事がありますが、英文を単純に日本語に翻訳したものではありません。あくまでソースを題材とした読み物記事です。報道記事ではなく、読み物として楽しんでいただけるような構成にしてあります。 また、独自に調査した情報を加えていたり、独自の見解を盛り込んでいることが多々あります。よって、ソースは存在するものの、当ブログの記事は独自かつ独立したものであり、その著作権は当ブログに帰属するものと解釈いたします。 したがって、当ブログの記事を引用なさるときは、必ず出典として当ブログの名称またはURLを明記してください。できれば、ハイパーリンクでこちらに移動できるようにしておいてください。 記事の大部分を個人のブログまたはWeb サイトに“転載”した上、独自のコンテンツを付加せずに1つの記事として完結させるような行為はおやめください。記事転載の上、出典表示やリンクがないというような悪質なもの(盗用行為)に関しましては、プロバイダーに削除願いを出すなどの断固とした処置をとらせていただきます。 実際、上に該当するような例(盗用行為)が何度か発生しており、このような断り書きを明記せざるを得ない状況になっております。 なお、2ちゃんねるなど、個人に所属しない媒体での全文転載は、リンクが付けられている限り許容いたします。 当ブログがテクノラティ発表の「最も多くのブログからリンクされている、影響力の強いブログの上位100件」に常時ランク入りしていたらしいことに最近気づいた。「影響力」の意味がちと違うと思うのだが、テクノラティはリンクの多さに基づいて判断している模様。 |
[ 491] 純粋理性批判 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E7%B2%8B%E7%90%86%E6%80%A7%E6%89%B9%E5%88%A4
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『純粋理性批判』は、理性認識の能力とその適応の妥当性を「理性の法廷」において理性自身が審理し批判する構造を持っている。ゆえにそれは哲学(形而上学)に先立ち、理性の妥当な使用の範囲を定める哲学の予備学であるとカントはいう。 伝統的な懐疑論は、認識の内容が人間の精神に由来することから、外界との対応を疑い、もって認識そのものの成立の妥当性を否定したのだが、カントはこうした認識の非実在性と非妥当性への疑問に対して、次のように答える。すなわち、経験の可能の条件である超越論的制約はすべての人間理性に共通なものであって、ゆえにその制約のもとにある認識は、すべての人間にとって妥当なものである、と。 こうした命題は、反対の内容をもちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、あるいはどちらも偽であるという結果におわる。カントはこのような二命題間の矛盾を、論理的背反としてではなく、たんに悟性概念の適応をあやまったなりたたないものについての言述であることに帰する。こうした二律背反命題としては事物の必然性と自由についての背反命題(第三アンチノミー)があげられる。これはキリスト教において予定との関連で伝統的にしばしば問題にされた問いであるが、カントにおいては因果性・必然性という純粋悟性概念を理性概念である自由に適応することから矛盾をきたすように見えるのであり、経験においては必然性が、それを超え出ている人間理性においては自由がなりたつことは、カントの批判の体系内では双方ともに真なのである。 ただし、認識は根源的なものを求めるから、認識が現にあることから如何にして根源的なものに至るのかということが課題になった。現象の根拠を求めると可能的な世界に求められる、しかし、可能的な世界から現象が与えられているとすると現象の根拠は可能性でしかない。それ故に、認識が現象から抜け出せないものであるので、『実践理性批判』で展開されることになる。認識が現象でしかないが故に、可能をみいだしたのである。こうした理性概念と人間理性の問題は『純粋理性批判』のなかでは必ずしも十分に展開されず、理性の在り方を様々に描いている。そして、『純粋理性批判』と『実践理性批判』は『判断力批判』が統合するとされている。 認識は時間的には経験とともに始まる。とはいえ、あらゆる認識が経験から発現するのではない(第二版B1)。「すべての物体は延長している」という判断では、述語が主語のうちに含まれている。この種の判断は分析的判断と呼ばれる。これに対し「すべての物体は重い」という判断では、述語が主語においては考えられていない。この種の判断は総合的判断と呼ばれる。経験的あるいは後天的判断は、何が存在するか、いかに存在するかを告げるのみであり、それ以外であってはならぬという必然性をもつ先天的判断とは異なる。分析的判断はすべて先天的であり、総合的判断は通例後天的である。にもかかわらず数学および自然科学においては既に現実的である先天的かつ総合的な判断は、いかにして可能かという問題を立てることができ、先天的認識に関してのこの批判は先験的(対象一般をわれわれが認識する仕方に関する全ての認識(B67))と呼ばれる。 いかにして先天的総合判断は可能か、あるいは学としての形而上学は可能かという先験的主要問題は以下の4つに分かたれる。 悟性とは感性の受け取る表象によって対象を認識する能力である(B74)。悟性がそれによって多様を客観的に総合統一する規則は純粋悟性概念あるいは範疇と呼ばれる。 思惟の主観的制約である範疇に客観的妥当性を帰する権利は、経験の可能性の先天的基礎を構成する主観的源泉(下記)を解明する範疇の先天的演繹において証明される。 経験的統覚が可能にする知覚的判断に対して必然性を付与することで、これを普遍妥当的判断に高めるものは、「私は思惟する」という表象を産出する先験的統覚である。範疇を感性に適用する媒介となるものは図式(下記)である。 時間制約たる図式(Schema)は先天的構想力の先験的所産である。範疇が図式を媒介として現象に適用されることによって成立するものは先天的最高原則(下記)である。 真理の論理学である分析論に対し、先験的弁証論は仮象の論理学といわれる。この仮象は理性に不可避かつ固有である。純粋理性概念あるいは理念は可能的経験の限界を超えて絶対者にまで(B436)拡張された純粋悟性概念である。経験においては理念に完全に合致する対象が現れることは決してありえない(B384)。理念は心・自由・神であり、定言的推理における実体性・仮言的推理における原因性・選言的推理における相互性がおのおの対応する。 第一類の弁証的推論は、全く多様を含まない主観の先験的概念から、この主観の絶対的統一そのものを推理する先験的誤謬推理(paralogismus)である。そこでは心は実体・単純・同一的・相互作用的といわれる。 上記の諸推理は、実体性の誤謬推理に帰着される。そこでは「心は実体である」といわれる。しかしその推論における媒概念である絶対的主語に対しては、大前提にあっては実在的主体、小前提にあっては論理的主体が意味される媒概念曖昧の虚偽が明かされる。実体が理念である限りでなければ、「心は実体である」とはいい得ない(第一版A351)。 二律背反の解決は、あくまでも課題である理念に客観的実在性を帰する先験的すりかえ(transzendentale Subreption)を避け、理性の原則は可能的経験を超え出る構成的原理でなく、経験をできるかぎり拡張するための統制的原理であることを認めることを必要とする。なお量・質の二律背反は数学的、関係・様相の二律背反は力学的といわれる。後者の力学的二律背反においては、物自体と現象とを区別するかぎり、定立と反定立の双方が真であり、現象における経験的性格の必然性と当為における自由による原因性が両立し、また現象の彼岸における目的の王国(Reich der Zwecke)に関係する可想的存在者が想定される。 第三類の弁証的推論は、その単なる先験的概念からすれば知られない諸物から一切存在体の存在体を推論する純粋理性の理想(ideal)である。 上記の諸証明は、概念から最高存在の現存在を証明する実体論的証明に帰着される。神の概念は矛盾を含まないため、その存在の不可能性は先天的には証明されない。しかし経験的対象でもないため後天的にも証明されない。その存在をその概念によって一層知ることはなく、またその絶対的必然性について何らかの概念を得ることもない。 理論理性によっては与えられない理念の客観的実在性を、可想界において確立すべきものは、何が起こるべきか(当為)を主張する実践理性である。先験的自由と自然因果性の中間に位置する実践的自由は、自由な決意性によって感性的衝動を克服する。ここで自由の理念は直接の事実として確証される(B830)。われわれが幸福であるに値する 者であることを求める純粋道徳律は、純粋理性に由来する。純粋理性の原理に対して客観的実在性を与えるのは道徳的使用であり(B836)、その対象である可想界に属することで心という理念は客観的実在性を獲得する。道徳的完全性が最高の幸福と結合する世界は、最高善の根源的存在者としての神という理想から派生し、来世として希望されることで道徳性の理念を実践の動機たらしめる(B841)。 世界における道徳的使命をいかにして果たすべきかを教える道徳神学は、われわれの理性活動を指導するイデーを有するもので(B855)、主観的にのみ確実である道徳的信に基づく。これに対し自然神学は、証明され得ないが主観的には十分な根拠をもつ理論的な想定に関係する理説的信に基づく。経験の外部において純粋理性が収めえる成果は、神および来世に対する道徳的信である。ここにおいて哲学は、形而上的要求に関しては、普通人の理解力に与えられる手引き以外の何物にも到達し得ないことが明らかとされる(B859)。 『純粋理性批判』第1版は、当時のドイツの講壇哲学者と通俗哲学者の双方から激しい批判で迎えられた。とくにカントの哲学をバークリの観念論と同一視する批判がなされた。カントはこれに反論し、自らの批判の内容を簡潔に要約した『プロレゴーメナ』を著すとともに、とくに感性論および統覚と構想力について述べる部分に大規模な記述の書き換えをほどこし、第二版を発行した。しかしカントの理解としては、第一版と第二版の間には本質的な差はない。現代の研究者は、両者の間に発展をみとめるものの、大筋では同じ内容に異なる表現を与えたものと解している。 しかし『純粋理性批判』は若い世代に熱狂的に迎えられた。哲学的影響は、フィヒテやシェリングといった、次の世代に及び、ドイツ観念論の成立を促した。しかしドイツ観念論は、カントが否定した人間理性による超越の把握に再び向かうことでカントと方向性を別っている。 カントの影響は19世紀末には新カント学派にも見られる。新カント学派では古典的物理学の認識の基礎付けという側面が強調された。またフッサールの現象学にもカントの影響は及んでいる。 美学においては、『純粋理性批判』の構想力論をもとにコンラート・フィードラーが純粋視覚を提唱し、この理論はさらに、20世紀後半のアメリカにおいて、クレメント・グリーンバーグにより抽象表現主義を擁護するフォーマリズム批評の理論的根拠として用いられた。 天野貞祐訳、旧岩波文庫(全3巻)のちに講談社学術文庫(全4巻)(旧岩波文庫版については一穂社よりオンデマンド版が刊行されている) |