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大久保とは?/ ディック

[ 697] マシッソヨ! 大久保 韓国ランチ
[引用サイト]  http://korea-lunch.seesaa.net/

日本一のコリアタウン大久保にある、韓国料理屋のランチを食べ歩き!安くて、おいしくて、健康的。さらに、お腹イッパイになるボリューム。マシッソヨ!(おいしい)な韓国ランチの魅力、みなさんにお伝えしたい。
■今後は承認制で ちと思うトコロがありまして、今後はコメントは承認制にします。常時チェック出来るワケではないので、反映までに時間がかかってしまうコトも多くなるかと思いますが、何卒ご理解よろしくお願いいたします。 マサト
■2008年もまったりいきます(笑) 遅くなってしまいましたが、あけましておめでとうございます。転職してからは、ほとんど更新出来ていない状態のサイトではありますが、本年も何卒よろしくお願いいたします。月イチぐらいでたまに覗きに来てやって頂ければ幸いです。続きを読む
■ヘンテコメニューが無くなっちゃった…第1回来店の記事『抹茶パッピンス』(パッピンス特集記事) 久しぶりの更新になってしまった…。9月末ぐらいの話だったろうか。相変わらず韓国ランチは食べているのだが、最近では食べた料理の写真撮影をしなくなってしまった。ちょっと前の自分からすると、考えられないほど面倒くさがり屋さんになってしまったみたいだ。ま、たまにはというコトで、料理写真を撮る!、ちゃんと記事にする!と意識して、ランチへ出かけてみた。続きを読む
■大久保で韓国式刺身に初挑戦第1回来店の記事『ビビンバ』(525円) 5月末ぐらいの話。もう先々月の話か…。刺身のネタなワケだが、情報の鮮度は落ちまくりですな……。 夜、仕事をしていると、社長の所にお客さんが来ているのが見えた。社長に「マサト君、名刺持ってこっち来て!」と言って頂けたので、その方とありがたく名刺交換させてもらった。そして自分のデスクに戻り、再び仕事をしていると、上司が「社長と○○さん(前出のお客さん)、食事に行くみたいだから、マサト君も行って来なよ」とのコトで、心の準備が出来ていない私は心拍数が上がりまくり。てなワケで、私もお供させて頂くコトに。続きを読む
■韓国料理ネタじゃなくて申し訳無いのですが… 突然、こんなタイトルの記事が上がっていて、驚かれた方も多いと思います。すでにネット上でかなり話題になっているので、タイトルを見てピンと来られた方も多いのではないでしょうか。これから先の話は、政治のコトも関係していたり、風俗関係の話題もあったりで、人によっては不快に感じるコトもあるかと思います。ここまで書いておいてこういう物言いもなんですが、興味が無い方や、こういう話題はちょっとという方は、下の『続きを読む』をクリックせずに、スルーして頂ければ幸いです。当ブログは韓国料理専門なワケですが、こういった話題の記事を扱うコトをお許しください。続きを読む
■噂のノルブ初体験 6月初旬頃の話。5月ぐらいから、私の仲間内で「大久保に『ノルブ』が進出する」なんて話で盛り上がっていた。私はあまりよく知らないのだが、『ノルブ』というのは韓国では大層有名な韓国料理チェーン店で、壷漬けのデジカルビ、ポッサム、ブデチゲなどの専門店があるそうな。すでに日本でも進出しているらしい。 で、以前は『ブタハウス』というサムギョプサル専門店があったトコロに、新しくオープンした。それが5月末の話。ちなみに『ブタハウス』はでっかくオープンした割に、あっという間に無くなってしまった。 で、大久保に出来た同店は、壷漬けカルビの専門店だそうな。つーワケで、オープン日に行くコトは出来なかったが、6月の始め頃、私の師匠、最近では職業安定所的存在のnabe氏とともに、同店へ行ってみた。続きを読む
一言:1年前から韓国にハマり、韓国語を猛勉強中。最近では韓国料理にも夢中。オススメの店などありましたら、ぜひ教えてください。メールはコチラ

 

[ 698] 大久保利通 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A

文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の娘・ふく子の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に下加治屋町(現・鹿児島市加治屋町)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。
久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷と共に政治の中枢として活動し、慶応3年(1867年)に江戸幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉と共に王政復古のクーデターを計画して実行した。
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や江藤新平らと対立し、明治六年政変にて失脚させた。また同年、台湾出兵を行い9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡り、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。
明治6年(1873年)、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。
趣味は囲碁。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変なヘビースモーカーで、指宿煙草というキツいものを愛用しており、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだったという。茶は京都の玉露を濃く淹れたものを好んだ。漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かった。
官僚的、または絶対権力者のイメージが強く、西洋風の豪邸を建てた(建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる)。しかし、金銭には潔白で私財をなすことをせず、死後は8,000円もの借金が残ったという。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。
口数こそ少ないが他を圧する威厳を持ち、かつ冷徹な理論家でもあったため、面と向かってまともに大久保に意見できる人間は少なかった。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も大久保に対しては怖くてまともに顔を見ながら話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払い気持ちを大きくした上で意見しようとしたが、大久保に一喝されるやすぐに引き下がったといわれる。
また岩倉使節団の一員として欧米諸国を実際に見るまでは維新の根幹として「人事の刷新」を最も重要視しており、「国家機構の改革」に重きを置く木戸孝允や大隈重信と対立した。大木喬任や薩摩出身の吉井友実・松方正義ら倒幕に尽くした人々を重く用いて、彼らとともに能力次第では旧幕臣を登用する木戸・大隈の人事方針を「旧弊の温存」と批判して「冗官整理」を口実に幕臣出身者の追放を画策した(明治3年10月三条実美宛覚書)。渋沢栄一が大蔵省を辞めた原因の1つには大久保が渋沢が旧幕臣というだけでその能力を全く評価しなかったことに失望したからだといわれている[1]。 こうした大久保のやり方は「党派的行動」と見なされて大隈重信はもちろん、井上馨・後藤象二郎・江藤新平らの抗議を呼び、岩倉具視からも自重を求められるほどであった。だが欧米の国家運営の実情を知って以後はこうした自分のやり方を改めるようになった。
大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った。また大久保没後の帝国議会で板垣退助が答弁したとき野次や怒号で騒然となったが、それを見た議員の一人は「大久保卿であればこんなことにはならないのに」といって大久保の威徳を偲んだ。
内務省で勧商局長などとして大久保の部下であった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省は伊藤博文内務卿の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの話をしたり仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。
家庭内では優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると次男の牧野伸顕と三男の大久保利武が争って玄関に出迎え靴を脱がせようとして勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。
青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用するという当時としては非常に洋風な生活をしていた。また出仕の際にポマードを使用していた。
江藤新平が佐賀の乱で挙兵した際に、明治政府全権を持って、これを攻め、瓦解させている。大久保は江藤のことをよほど憎んでいたらしく、大久保の日記には「・・・今日、裁判所に宮に随従、江東(藤)之裁判を聴聞す」や、「江東、陳弁曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」など、辛辣極まりない表現を使い、罵倒している。 これに対し、小説家司馬遼太郎はこう記している。 “江藤の藤を東と書いている。大久保にはむかしからひとの姓名をあて字でかく癖があったが、それにしてもかつて自分と同僚だった正四位前参議の姓を江東と略してしまう神経はどうであろう。これによってことさらに江藤を日記において軽んじようとしている意図があるのかもしれず”とその悪意と怜悧な政略家ぶりを表現している。
かつての盟友西郷隆盛が挙兵したときは、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と書き送った一面があった。もっとも、暗殺された時に生前の西郷から送られた手紙を持っていたとか、暗殺の直前に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って西郷の伝記を書くことを人に勧めたりしていたともいう。
大久保は西郷を殺し、西南戦争で薩摩を滅ぼそうとした張本人として地元での評価は高くない。近年まで地元への納骨すら避けられていたというからよっぽどのことであろう。現在鹿児島市には大久保の銅像があるが、西南戦争百周年の頃に県外から「なぜ大久保の銅像がないのか」と言われて半ば渋々作ったものだという風説がある。藩閥政治から距離を置いていた薩摩に対しその後も長く隠然たる権力を保持した長州派のイメージ操作にも一因があるとも言われている。
暗殺される日の朝、福島県令山吉盛典に対し「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進に譲り、発展を待つ時期だ。」と将来の構想を語ったという(『済世遺言』)。
安政4年(1857年)に薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女満寿子と結婚。満寿子との間には、長男大久保利和・次男牧野伸顕・三男大久保利武・五男石原雄熊・長女芳子が生まれた。芳子は後の外務大臣伊集院彦吉に嫁いだ。大久保には妻の外におゆう(杉浦勇)という愛妾が居り、おゆうとの間に四男大久保利夫・六男大久保駿熊・七男大久保七熊・八男大久保利賢を儲けた。
孫の大久保利謙は日本近代史家で東大名誉教授。もう一人の孫大久保利春は丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。
^ 実際に渋沢は大蔵卿となった大久保によって明治4年7月29日から8月14日まで太政官枢密権大史に移されている。だが、渋沢ら排除した旧幕臣官僚の代わりとして大久保が推挙した人材で財政を理解できたのは松方正義のみだったために仕方なく呼び戻されたと言う。

 

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