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グルーブとは?/ ディック

[ 1662] 電気グルーヴ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4

テクノを中心とした電子音楽による楽曲を音楽的特徴とするバンド。結成当初はボーカルスタイルにラップの方法論を取り入れていた為、ヒップホップグループに分類される事も多かったが、1993年のアルバム『VITAMIN』のリリース以降、より純粋に電子音楽を主体としたスタイルへと移行する。その頃より日本国内での活動と並行し、MAYDAYへの参加など外国でのリリースやライヴ活動も精力的に行う。そのため評価は日本だけでなくヨーロッパ圏のテクノ・シーンでも高い。
一方、前身となったインディーズバンド人生に代表される、かつてのナゴムレコード周辺の「ナゴム系」バンドの傾向・特徴も受継いでおり、特異な歌詞とパフォーマンス、発言の数々は音楽性と並んでサブカルチャー的な支持を集めている。日本では逆にそういった部分を苦手と言われる場合もあるが、一方で石野卓球が細川ふみえや篠原ともえをプロデュースした際はかわいらしい歌詞や、最高売り上げ記録を持つシングル「Shangri-La」などの、彼らの普段とは方向性が異なる曲もある。
現在はソロ活動も精力的に行っている。石野卓球は主に音楽面、ピエール瀧は主に映像面で活動している。タレント業とソロの方向性が違っており、それぞれ特異な才能を発揮している。
石野は前述の篠原ともえのプロデュースや、プレイステーションのゲーム「攻殻機動隊」でのBGMなども制作するなど活動の幅は広い。また瀧は映画「ステレオフューチャー」や「ローレライ」で重要な役柄を演じたり、漫画雑誌週刊少年チャンピオンで連載していた「樹海少年ZOO1」の原作を担当する(作画は漫☆画太郎)など、こちらも幅広く活動している。
最初に結成を呼びかけ、主に音楽的な方面でイニシアティブをとるのは石野だが、メンバーが三人以上在籍する当時から、バンドのリーダーを瀧とする場合と石野とする場合と、その時々によって宣言は適当である。特にデカくて目立つという理由からか、TVのバラエティ番組等では瀧をリーダーとして紹介する場面も多々見られた。
テクノバンド「Cutemen」での活動を一旦終了し、耳夫と高橋が脱退した後の1990年に電気グルーヴに加入。電子楽器のプログラミングと作曲を担当した。本名は北川潤。CMJKの名前は電気グルーヴ加入後につけられたものである。石野卓球、ピエール瀧と同じく芸名で活動することを要求された事から、しぶしぶ考案し名乗るに到ったという。そこで尊敬するDJ「カット・マスター・スウィフト」に肖り「カット・マスター・ジュン・キタガワ」、略してCMJKとした。現在もこの芸名は使用され続けており、今となっては本名よりもこちらを好むという。これがもし考え付かなかったら、メンバーから「ゲンゴロウマル」という芸名がつけられるところであった。アルバム『FLASH PAPA』発表後は電気グルーヴを脱退。その理由に関しては、当時マスコミによってメンバーとの不仲説などいくつかの憶測が囁かれていたが、実際のところは人気グループの一員として楽に活動し、定期的に印税を受け取り、既成のロックバンド的プロセスを踏んでいく事に対し疑問を抱いた結果、いちダンスミュージック・プログラマーとして折り合いをつけた末の決断だったとファンクラブの会報では語っている(ちなみにマスコミ向けに行った脱退会見では、全裸で会見に臨んだ卓球と瀧をバックに「もうこんな奴等とはやってられません」とコメントしている)。
近年では不定期ながらCMJK名義でソロライヴも行なっており、Cutemenのピコリンをゲストヴォーカリストに迎えてライヴパフォーマンスを展開している。
4月10日 - メジャーデビューアルバム『FLASH PAPA』リリース。その後同年6月にCMJKが脱退。かねてから付き合いのあった良徳砂原(よしとく・すなはら。のち砂原良徳、愛称:まりん)が加入し、ライヴを主とした活動を展開する[6]。また同時期より、石野と瀧がニッポン放送の『オールナイトニッポン』土曜2部のパーソナリティを担当[7]。ギャグセンス巧みな2人のトークと毒舌、荒唐無稽な企画が一部のリスナーに大人気となる。また「お薦め」コーナーで石野が紹介した外国の最新テクノ・トラックの数々は、リスナーにテクノの種を植え付けることになる。
12月1日 - アルバム『VITAMIN』リリース。石野が当時旅先のイギリスで体験したアシッド・リヴァイヴァルの衝撃を初期衝動に制作されたこのアルバム以降、それまでのギャグ路線は影を潜め、電気は本格的なテクノに挑戦し始める[8]。また、この頃から石野は音楽以外の仕事を控えるようになる。当時レギュラーを務めていたテレビ番組「モグラネグラ」も音楽制作に集中したいという理由から降板した。
12月5日 - 約8年ぶりのシングル『少年ヤング』リリース。ナゴムレコード時代の盟友大槻ケンヂ原作でケラリーノ・サンドロヴィッチが監督を務める映画『グミ・チョコレート・パイン』のエンディングテーマとして書き下ろされた曲である[17]。
メンバーのソロアルバムをパッケージしたボックスセット。電気グルーヴのレアトラックを収録したシングルCD付き。
ドイツのレーベル「MFS」からリリースされたシングル。石野とも交流の深い親日派のクリエイター、マイク・ヴァン・ダイクとポール・ヴァン・ダイク、The Positive Thinkingのリミックスを収録。マキシCDシングル盤も存在するが、こちらは若干内容が異なる。外国における電気の活動展開のきっかけをつくった。MFSからのリリースのきっかけは、トビーネイションがマイク・ヴァン・ダイクに虹を紹介したことがきっかけである。
上記リミックス盤とは異なる内容。電気がドイツのMayday参加に際してコンピ盤に提供した石野によるニューリミックスをシングルカットしたもの。石野のレーベルLOOPAからのリリースとなった。キャプテン・ファンクのリミックスも収録している。
ヤマハの50ccバイクの教習用ビデオ。そのナビゲーター役を何故か電気グルーヴが担当(当時ヤマハJOGの雑誌広告に電気グルーヴが起用されていた)。基本的に非売品で、バイクショップの店頭で原付免許受験者向けに貸し出ししていた[20]。
「オールナイトニッポン パーソナリティーズ」としてしぶしぶ名を連ねた。ジャケット裏の寄せ書きとコーラスに嫌々参加している。
ワープ、ライジングハイ、R&Sといった当時のヨーロッパ三大テクノレーベルの楽曲から電気が選曲したオムニバスアルバム。詳細な解説を収録したブックレットやバッジなどのオマケつき。
阿部がユニコーン時代にリリースしたシングル「+OR-」のカップリング曲の作詞を担当。。まだバンドとして活動中にメンバー全員がそれぞれに製作したソロシングルを発売するといった企画だった。棋士を目指す妖怪の姿を描いた内容。そもそもはラジオ放送内で電気がユニコーンのファン、とくに阿部をリスペクトしていると発言した事が切っ掛けとなった。砂原は参加していないが、発売当時の雑誌企画で感想コメントを残している。
電気グルーヴのライヴやライヴ・ツアーのタイトルにも変遷がある。以前は毎回凝ったインパクトのあるものばかりだったが、「野村ツアー」以降はひねらないシンプルなものになっている。
当初は石野たっての希望で「元祖生理用ショーツに陰茎ねじ込み健康法」が提案されたものの、却下されスタッフと大いに揉めたが、そのロゴが印刷されたTシャツを石野デザインとして販売するという事で落ち着く。
高城剛、チエコ・ビューティ・スチャダラパー・クラッシュポッセ等とメインMC担当。月曜夜7時?8時45分、銀座ソニービルソニープラザ内スタジオSOMIDOからの公開生放送。CDデビュー前にゴールデンタイムで生放送のレギュラーを持った。その後、番組レギュラー降板後もゲストとして頻繁に出演。ちなみに当時メンバーだった砂原はこの番組で1990年頃からMCとして出演していた佐藤生子(さとういくこ)と後に結婚。
本来はレコード会社によって「電気グルーヴ」というバンド自体をプロモーションするためのアーティストビデオ的な30分番組作品であった。同時期に電気と共にキューン・ソニーに所属していたスチャダラパーも「スチャダラ30分」という番組を制作している。これらは各地のレコード店にVHSソフトのかたちで配布され、店頭で流される事を目的としていたが、のちに一部の民放TV局でもオンエアされている。電気と親交の深い中京テレビの苅谷氏のディレクションのもとに名古屋ロケで製作された。構成は電気たっての希望で、当時「夢で逢えたら」や「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!」で東京進出を始めた頃の高須光聖を起用。高須も電気との対談というかたちで番組に出演している。冒頭にはダウンタウンも僅かながら登場[23]。
関西ローカルの深夜枠「フリーチャンネル」で放送された今田耕司と東野幸治司会の特番第二弾。初回では今田と東野の対決という構図で展開された[24]が、続編である今作では東京から電気のメンバー三人を向え、今田・東野(+人数あわせに山田花子)と数々の過酷なバトルと罰ゲーム(知らないおじいさんが裸足で踏んでついた餅を食べさせられる等)を演じた[25]今田・東野といったツワモノを相手に、芸人としても優れた才能を発揮していた当時の電気の活動の極北として、ファンの間で伝説となっている番組である。この番組の収録で大阪に訪れた際には、その日の夜に同局のラジオ番組「ABCミュージックパラダイス」にもゲスト出演[26]。
鈴木慶一や田島貴男、ローリー寺西(後にROLLYに改名)、大槻ケンヂなど、曜日ごとに異なるミュージシャンがホストを務めた深夜番組。電気担当の金曜日は「亀甲縛りトーク」などの珍企画が数多く放送された。のちに瀧個人による番組となり、タイトルも「月曜モグラネグラ 瀧正則アワー なかよし学級」と改められた。この番組でも卓球や盟友の伊集院光が出演[27]。
ちなみに番組放送中に「俺らのオールナイト聞いてる奴らって俺らのだけじゃなくて他の曜日も聞いてるんだろ? 誰のオールナイトが一番面白くて誰が一番つまんねーかハガキ募集しようぜ」と言って当時のパーソナリティをランキングしたことがある。自分たちの番組内で募集したのにもかかわらず一位は福山雅治、最下位は裕木奈江だった。関係性は不明だが裕木奈江のオールナイトニッポンは程なくして終了している。
上記番組と同タイトルだが「伊集院光のOh!デカナイト」・「キャイ〜ン天野ひろゆきのMEGAうま!ラジオバーガー!!」内で放送された月曜日〜木曜日までの10分帯番組。CBCラジオ他でもネットされた。放送地域によって金曜日分が放送されている場合もあった。
'96年4月-9月の水曜UP'sの時間枠は週代わりでさまざまなパーソナリティーが担当したが、電気グルーヴも(少なくとも)4月10日と6月19日に「主は冷たい土の中に」のタイトルで担当している。どちらの回もメンバー三人に加え、月曜UP's担当の伊集院光がゲストとして出演。残念ながらレギュラー番組にはならなかった。
FMらしく、以前の番組に比べフリートークと音楽紹介中心の構成。宣伝になっているのかどうかが微妙な新作ゲーム紹介のコーナーもあり。'96年10月18日放送回より砂原がレギュラーとして加わり、三人で放送していた。
一連の『Aプロジェクト』を総括し振り返る特別番組。当時のメンバー3人で放送する予定だったが、収録の直前に砂原が入院した為に欠席となった。
2月のマンスリーパーソナリティとして瀧が起用される。最終週には卓球もゲストとして登場した[29]。発売延期や諸般の事情でお蔵入りになった楽曲と卓球選りすぐりの珍曲などが多数放送されている。
かつて坂本龍一らが担当した「サウンドストリート」のリニューアル番組。10月のマンスリーパーソナリティーを担当した細野晴臣からバトンタッチされるかたちで電気が11月を担当[31]。
田中秀幸(フレイムグラフィックス)制作のCG映像のBGMとして瀧のナレーションと録り下しのインストゥルメンタル曲提供。
当時はサブカル誌だった「宝島」誌上で連載されていた企画「脳が溶ける奇病」の内容を下敷きに、大幅な加筆と再編集を加えた一冊。石野、瀧、砂原の生い立ちから、アルバム『UFO』リリース前後までを、虚実織り交ぜて綴られた書き下ろし単行本。内容としては意図的な乱丁、文章の乱れ、嘘のディスコグラフィー、単発本にもかかわらず読者コーナー、無意味な割引券などの演出に、根本敬、岡崎京子、井上三太、そして天久聖一の漫画が掲載されている。彼らの家庭環境からアマチュア時代までを振り返ることができる一冊である[32]。
石野、瀧、砂原の3人が世にある様々な職業をいわゆるコスプレをしながら紹介する[34]、低学年向け書籍を模した本。体裁は文庫本。
ソニー・ミュージックエンタテインメントからプレイステーションで発売された。電気グルーヴがプロデュースした作品で、自らゲームのジャンルを「クソゲー」と名乗っている。オールナイトニッポン二部時代から構想されていた物が実現したともいえる一本。ひたすらバイト(ミニゲーム)に勤しみ、溜めたお金でガチャガチャで音素材をゲットする。その音素材を組み合わせて曲を作る事ができるという内容。ゲーム部分を瀧、音部分を石野&砂原がプロデュースしている[36]。
プレイステーション・ポータブル用ソフトとして発売された。ピエール瀧がプロデュース。「グルーヴ地獄V」のバイト・ゲーム部分のみを再構成。
石野の中学時代の後輩にして元「人生」のメンバー「ポートピア83才」。「人生」の代表曲「男の中の男」のコーラス担当などが有名である。静岡の伝説のバンド「正露丸X」出身であり、「人生」解散後は自身のバンド「ジェリーボーン」を結成し活動した。また、『オールナイトニッポン』に放送作家として参加。陸上部出身で足腰が強かったので、「深夜の使いっ走り」というコーナーが誕生した。「スイカの差し入れひとつで女性教育実習生を落とした」、「ジェリーボーンのライヴで意気揚々とステージに上がったは良いものの、ボーカルマイクがトラブった事に激怒して出演を中断し楽屋に篭城」、「ボイラー技師の親父はいかりや長介似」、「静岡時代は数々のライヴハウスを締め出され、公民館を中心とした活動を余儀なくされる」など数々の伝説をもつ。のちに『ココリコミラクルタイプ』、『OH!スーパーミルクチャン』、『西川貴教のオールナイトニッポン』など数々の人気番組に関わる。また、天久聖一らと共に雑誌「SPA!」の投稿ページ「バカはサイレンで泣く」を担当。電気の『オールナイト』のDNAを受継ぐ高いクオリティのネタハガキが毎回投稿される長期名物連載である。
本名・西井健一。電器販売店店員を経てピエール瀧のマネージャーであったが、その活動や影響、見る者に与える衝撃はその範囲に留まらない。メンバーからは「金の埋まる顔」とも、初対面のココリコ田中直樹には「あれは反則」とも言わしめたほどである。もともとは『オールナイトニッポン』内の『見知らぬ他人の家にお泊り』企画にハガキを応募した一般リスナーであった。だが、実際には彼の家に瀧は泊まらず、後述するリスナー藤崎龍馬の家に瀧ともども何故か西井も泊まらせられるハメに。番組終了以降もその容姿と憎めないキャラクターを買われ、なにかと電気グルーヴのマスコット的存在として親しまれてきた。 『Flash Back Disco』、『ピエール瀧体操30歳』『ピエール瀧の体操36歳』等のPV映像でその姿を確認できる。『電気グルーヴのドリルキングアワー』内にて世界的なテクノクリエイター、ケン・イシイにあやかり(世界の)ケン・ニシイの名を授かる。ピエール瀧製作のDVD『究極ホ乳類ニシイ』ではタイトルにその名を冠する事となった。いっぽう藤崎龍馬は後に渡独し、現在はDJ LYOMAとして主にベルリンのテクノシーンを舞台に活躍中である。2007年ROCKIN'ON JAPAN6月号のメロン牧場にて、電気のマネージャー引退、実家に戻る事が発表された。ちなみに、本家ケン・イシイとは熱狂的なプロレスファンである事のみ共通している。
「お客様は神様です」で有名な大衆歌謡歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。1992年、シングル『ハウスおまんた囃子』で突如ハウス・サウンドを導入。これに関連して開催された"HARUO IN DANCE BEAT"なるライヴイベントにて電気と共演(「ハウスおまんた囃子」等の楽曲の製作そのものには電気は関わっていない)。当日はゲストとして、死んだはずの瀧勝も登場した。そこで勝は春夫に「おまんた囃子」のワンフレーズを伝授されるが音程を外してしまうという、うすら寒いミニコントを披露。春夫サイドの書いたシナリオを瀧が嫌々演じたかたちとなる。この経験は現在でも瀧にとってトラウマになっているという。が、翌日のワイドショー等の報道では電気の活躍の模様は一切触れられなかった。2001年に他界。息子はタレントの三波豊和(万年さん)。
日本テレビ『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などの番組でも有名な強烈なキャラクターのニューハーフタレント。デビュー当時の電気とは雑誌の対談がきっかけで親しくなり、『オールナイトニッポン』二部時代には度々ゲストとして登場。「みんなオカマにするわよ!」「起きるのよアンタら!悪夢を見るわよ!」「あ〜らアンタら勉強不足よ!」などの名台詞を残した。1982年にショーパブ「ギャルソンパブ」にてダンサーデビュー。その後は歌手としても活躍する。代表曲はチモ・バヨの楽曲の日本語カヴァー『燃えろバルセロナ』。1990年代初頭の電気グルーヴは新宿二丁目にハマっており、連日連夜、日出郎の店に通い詰めていた。別に彼らがゲイというわけではなく、その場の独特の『キてる』雰囲気と、怖いもの見たさ、そしてオカマさん達の強烈なキャラとトークの面白さという点で好んでいた模様。電気がラジオやイベントなどの締めの言葉によく使う「なにひとつ盛り上がる事なく〜」というセリフは日出郎がショータイム終了時に使っていたものである。ちなみに上記の『燃えろバルセロナ』は当初は石野に作詞依頼が来たものの、当時の歌手としての日出郎は普段のキャラとは正反対のシリアス路線の作品を発表し続けていた為、マジメな歌詞を書いて提出したところ、結局ボツになってしまったらしい。実際フタをあければ『燃えろ〜』は当時のバルセロナオリンピック開催に便乗した下品極まりない直球ゲイソングで驚いたと語っている。後に椎名基樹が脚本・シリーズ構成を担当した『OH!スーパーミルクチャン』シリーズでは、オカマの大家を演じている。
ミュージャン・俳優。電気グルーヴが今最もリスペクトする人物。石野のユニットInKのライヴツアーでは「ショーケントレイン」のカヴァーを披露している。特に著書『俺の人生どっかおかしい』は石野オススメの一冊。
「新幹線」および「虹」で美しい声を披露した女性ミュージシャン。そもそもは電気と同じキューンソニー在籍(当時)ということで白羽の矢が立ったが、この起用は正解だったらしく、石野も「天使の声」と絶賛している。電気の作品やライヴへの参加だけでなく、石野プロデュースでシングル『TSUKI NO HANA』もリリースした。ボーカリストだけでなく、作曲者としても和久井映見、西田ひかる、中島美嘉、椎名純平、高橋真梨子らに作品を提供している。
王選手といっても王貞治のことではない。通称あっちゃん。元「人生」のメンバーで、瀧と並んで楽器を演奏しないメンバーとして在籍した。もともとはナゴムレコード関連のライヴの客として訪れていたが、中でも異彩を放っていたため、気がつくと演者として舞台に上がる事となっていた。ナゴムきっての怪人物であったが、昼は某有名大学ロシア文学科に通う秀才でもあった。初期は「井ノ頭健康」の芸名で活躍したが、のちに「王選手」、「長嶋監督」などへと改名する。主にダンスやコントや奇行、暴れ役、たまにメインボーカルなんかも担当。ライヴ中、自分で投げた消火器にあたって四針縫う大怪我を負い血まみれになったことも。ピエール瀧と組んで「畳ワンちゃんミュージカルショー」も公演。サッカーボールに扮した王選手を瀧がドリブルしながら蹴りまわす内容だった。「人生」だけでなく「筋肉少女帯」や「死ね死ね団」などナゴムの看板バンドのいくつかにメンバーとして加入と脱退を繰り返した。しかし「人生」解散後、電気グルーヴとして1991年に2月に東京タワーで行われた特別ライヴにダンサーとして乱入を試みるが、メンバーには全くの知らない人として無視される。その頃には都内の翻訳会社に入社。後に外資系のソフトウエア企業に転職、さらに脱サラして有限会社を起こしたなど、様々な噂がある。その姿は、筋少のメジャーデビュー後の楽曲『キノコパワー』のPVで確認できる。冒頭と後半に出演している白塗りにガクラン姿の男が彼である。
渡辺俊美(G.Vo.)、BIKKE(MC.Vo.)、川辺ヒロシ(Turntable)からなるユニット。ヒップホップをベースとしながらも、文学的な歌詞をライムとも詩の朗読ともつかない独特なスタイルで聴かせるBIKKEのラップが特徴的。インディーズでのいくつかのリリースの後に1994年「ロマンティック伝説」でデビュー。結成は1980年代後半〜1990年代初頭と諸説あり。スチャダラパーらと「リトル・バード・ネイション」を結成し、ジャパニーズ・ヒップホップ・シーンの黎明期を切り開いた。電気との直接的な関わりは、近年の電気グルーヴXスチャダラパーでの活動を経た以降、石野と川辺によるInKなど盛んだが、それ以前にも1990年代よりSOUL SETのメンバーは雑誌のインタビュー等で電気に対するリスペクトを表明していた。また、石野も「オールナイトニッポン」での浅草キッドとのサイコロトークの中で、「いま気になる女性タレント」として渡辺の嫁であるタレントのちはるの名を挙げたり、ソウルセットの名曲「ヤード」を自身の連載で大絶賛していた。また、石野、川辺ともに番組開始当初のNHK「ポップジャム」にて、『DJ』と称して変な神輿のような高いところにあるブースにひとりぼっちで置き去り&さらし者にされたという苦い経験を持つ。
ロリポップ・ソニック、フリッパーズ・ギターを経て、現在はソロユニットCorneliusとして活動するミュージシャン。和田弘とマヒナスターズのボーカル三原さと志を父に持つ。一見して小柄で華奢に見えるが、三度の笑えない交通事故から生還した鋼の肉体を持ち、女装も似合う。電気とフリッパーズ・ギターは、スチャダラパーなどと共にデビュー当初からポストバンドブームという括りで論じられる事が多く、電気も少なからず良きライバル的に意識していたようで、当時の発言の端々でフリッパーズの斬新な活動姿勢や作品などに肯定的な態度を示していた。「ミュージシャンの歌詞には思い入れが無い」と頻繁に言っていた石野ですら、CMJKとの対談で、「好きな歌詞のミュージシャン」としてフリッパーズギターを挙げていたほどである(ちなみにCMJKはフリクションを挙げていた)。活動当時は自ら「『小学六年生』から『リミックス』まで」と語るほど多岐のジャンルに渡る媒体露出も有名となったが、このプロモーションスタイルは電気やスチャダラパーにも影響を与えている(ただし、電気の場合は『リミックス』から『スーパー写真塾』までで、その後、電気グルーヴが小学六年生に露出した際には中山美穂の楽曲を酷評した)。瀧いわく日本の音楽業界は総て少なからず『小山田の影響を受けている』らしい。砂原は「KARATEKA」発表後に、石野の「いないいない病」の発病などから、一時的に解散の危機に陥った電気の状況を憂いで「まだ電気にとっての『ヘッド博士の世界塔』(※フリッパーズが解散直前に発表し傑作とも評されたアルバム)を作らずに終わるのは勿体無い」と涙ながらに訴え、危機的状況を覆したほどであるという。一方、小山田も自身のラジオ番組内で電気とスチャダラをして『別の学校にいる同じ学年の友人みたいなもの』と発言している。それから『オールナイトニッポン』、『ドリルキングアワー』に小山田がゲスト出演するなどの場面はあったが、音楽活動方面での直接的繋がりは1996年に発表されたCorneliusのリミックスアルバム『96/69』まで待たれる事となる。このアルバムでは石野と砂原がそれぞれ一曲を手がけたが、当初の構想では電気グルーヴとして一曲任されるアイデアもあったという。ちょうどその頃辺りからプライベートにて砂原と親しくなり、一緒にパジャマパーティを開くほどに。同時期に製作された電気の「A」、小山田の「ファンタズマ」は互いに何らかの影響を与え合う作品となったという。これ以降、電気とのメディア上での共演もさらに増え、テレビブロス10周年記念シングルとして「九官鳥 & ヒズフレンズ」を石野と共同制作。スペースシャワーTVの10周年記念イベント「2001: A SPACE SHOWER ODYSSEY」では対バンし、電気の10周年企画アルバム「The Last Supper」、電気グルーヴ×スチャダラパーのシングル『聖☆おじさん』にもリミキサーとして参加した。石野、川辺ら共にポップジャムの「DJブース」に置き去りにされた1人でもある。瀧が愛猫の便所を掃除したまま手を洗わず握った「喧嘩握り寿司」を食らわされた経験を持つ。
通称ケラ。またはKERA。現在は主に演劇方面で劇作家&演出家としての評価が高い人物であるが、かつては「人生」も所属したインディーズレーベル「ナゴムレコード」を主宰し、石野や瀧を静岡から全国区へブレイクさせた偉大なる人物。自身も「有頂天」、「空手バカボン」として音楽活動を行い、石野にも多大なる影響を与える(「いないいない病」の先輩でもある)。これと並行して当時から劇団「健康」を主宰し、初期の公演では石野と瀧、大槻ケンヂらを演者として起用していた。現在は「健康」を解散し、劇団「ナイロン100℃」をベースに活動している。音楽方面に関しても「有頂天」解散後「ロングバケーション」としての活動を経て、「ザ・シンセサイザーズ」を結成した。ちなみに、外国人名を名乗っているが、生粋の日本人。本名は小林一三という。太りやすい体質である。1991年にクラブチッタ川崎のイベントに電気とともに「ロングバケーション」として出演したが、楽屋で他の出演バンドの喧嘩の嵐に巻き込まれた。その仲裁に砂原が入ったときに発したセリフ「ケラさん、逃げて」は名言として語り継がれている。昨今では彼が監督を務め、瀧も出演している映画『グミ・チョコレート・パイン』に電気がエンディングテーマ曲「少年ヤング」を提供。同曲シングルのジャケットイラストはケラの手によるもの。最近、飲み屋で既に泥酔状態の石野にばったり遭遇。「おばけカボチャに似ている」と笑いものにされ激怒した。
名古屋のテクノDJ、中原忍らを中心に結成されたユニット。どう聴いても初期電気グルーヴの亜流としか思えないスタイルでオモロテクノラップを展開。電気本体としての活動が半ば休止に近い状況にあった『ORANGE』から『A』への間の時期にメジャーデビューし、数枚のCDを発表した。それでいて当時のクラブ系雑誌のインタビューでは、電気グルーヴの名前が引き合いに出された時点で、ソロ活動に傾倒する当時のメンバー達に対する批判めいたコメントとノーリスペクトな態度を露にしていた。これに対して敏感だったのはむしろファンよりも本人たちで、『メロン牧場』等の連載ではことあるごとに宇宙犬をネタにトークを展開。かつて「マイアミ天国」で歌っていたような行為が「盗まれる側」として自分達にふりかかるという、石野自ら「当時の電気は世の中にナメられていた」と語る状況を最も顕著に物語る事件のひとつ。
自称ギャグオペラ歌手であり元落語家のラジオパーソナリティ、タレント。深夜ラジオにおいて絶大な支持を得ている。電気とは共にニッポン放送でラジオ番組を持っていた頃の大親友であり最大の理解者の一人。伊集院は早くから電気のトークの手法やセンスを高く評価し、強い影響を受けている。『電気グルーヴのオールナイトニッポン』では土曜2部時代に天久聖一と共に「ポパイとマンガさんのザックザク情報局」なる嘘番組のパーソナリティとして登場したり(伊集院=ポパイ、天久=マンガさん)、火曜1部に昇格後は伊集院の担当していた『伊集院光のOh!デカナイト』が直前番組だったため度々番組に乱入、丸々2時間伊集院とのフリートークになってしまったこともある。『電気のANN』『Oh!デカナイト』は番組同士の交流も盛んで、いくつかの企画において数度対決している。まず、ニッポン放送で催された『スーパーファミスタ』対決では電気が惨敗。罰ゲームとしてサソリ、ムカデ、カマキリの腹などを串カツ状にしたゲテモノ料理を食べさせられるハメとなった(後日これが災いし、石野は発熱し体調を崩すという事態に)。さらに続いて西武ライオンズ球場(2007年にグッドウィルドームに改名)でリスナーと芸能人の混合チームによってオーロラビジョンとグラウンドを利用したファミスタ対決リターンマッチが開催された。なお、電気はこのイベントのライブアクトで尻を丸出しにした状態をオーロラビジョンに映し出し、出入り禁止になっている。そして『Oh!デカナイト』内の企画「ベースボールクイズin東京ドーム」の際には「蓮根頭ぶち殴り大会」を開催。電気チームと伊集院&久保こーじチームが対決したが、敗れた伊集院は罰ゲームとして陰毛を剃られ、それを筆に加工した「チン毛筆」を製作させられるという辱めを受けた。この「チン毛筆」は当時素人の女子高生だった乾貴美子が筆おろしを行った事でも有名である。余談ではあるが、乾は伊集院、電気、そして浅草キッドがパーソナリティーを務めたそれぞれの番組のヘビーリスナーであり、電気のANN復活の折にはスタジオへ花束を送っていた。
玉袋筋太郎と水道橋博士からなるお笑いコンビ。オフィス北野所属。放送不可能なネタを散りばめた漫才師として、またたけし軍団の若手とベテランを繋ぐ若番頭的ポジションとして、現在も活躍中。電気とは『電気グルーヴのオールナイトニッポン』と『浅草キッドのオールナイトニッポン』『浅草キッドの土曜メキ突撃!ちんちん電車!』との間を通じて深い親交を得るようになる。その後は玉袋が紹介した風俗店へ電気の二人と繰り出し大暴れするような間柄に。『電気のANN』では2時間丸々この4人のフリートークになってしまうこともあった。また、電気の武道館単独初ライブの前座としてキッドが登場。電気とキッドのジョイントライブ「2階からギョー虫ぶらさげおじさん」も開催している。
本名:中山裕介。その天才的で情熱的かつ軽薄なトークのセンスは、かのビートたけしも認めるところであり、終始投げっぱなしの大ボラは、たけしをしてもツッコミにまわらざるを得ない。かつてはラテンロックバンド「BINGO BONGO」にヴォーカル&司会として参加し、電気と同じくキューン・ソニーレコード(当時)に籍を置くミュージシャンであった。その関係で当時は瀧との共演も何度か続き、『ピエール瀧生誕30周年パーティ』ではユースケが司会を務めている。瀧をして「同じジャンルの人」とは、バンドを解散しソロデビュー後間もないユースケの弁である。その後は篠原ともえとのユニット『カロゴンズ』やテレビドラマ『踊る大捜査線』への出演で着実にステップアップを重ね、現在は俳優やタレント業が盛んである。主演作『交渉人 真下正義』は記録的なヒットを飛ばした。かつて瀧は事務所の人間に「音楽さえやめてくれたらすぐに年収2億なんだけどね〜」とタレント業一本化へのアドバイスを受けた事があるが、その人物がユースケの担当に移った時点で(「年収2億」かどうかはともかく)現在のブレイクが本格化したというのは有名なエピソードである。
ミュージシャン、作家。現在は筋肉少女帯、特撮、空手バカボンのボーカリストとして活躍。電気の二人とはその前身、人生と筋少が同じナゴムレコードに所属していたため交流がある。人生のシングル「LOVE」では大槻やケラをゲストに迎える形で音源上の共演を果たした。のちに「ボヨヨンロック」でメジャーデビューを果たす「まんが道」という大槻のバンドには瀧も参加していた事がある。インディーズ時代、瀧の静岡の実家へ遊びに行った際「高木ブー伝説」がブーの所属事務所(イザワオフィス)から訴えられたとの一報をケラと卓球からの電話で知る。実際はガセの情報だったのだが、レコードは自主回収となり、ナゴム閉社への決定打のひとつとなってしまう。また、筋少メジャーデビュー後に大槻が大槻ケンヂのオールナイトニッポンを始める際、パートナーとしてまだインディーズで一般の知名度がほぼ皆無であった卓球を起用したいという意向をディレクターに打診したが却下されたというエピソードもある。のちに電気のメジャーデビューにあわせ大槻のオールナイトの枠を借りた電気の特別番組が放送され、それを受ける形で数ヵ月後に電気のオールナイトが放送開始された。上記の通り、昨今は彼が原作の映画『グミ・チョコレート・パイン』において、間接的なコラボレーションが実現している。
1995年に「篠原ともえ+石野卓球」名義のシングル『チャイム』でデビュー。それ以降から初期の活動にあたる三枚のシングルと一枚のアルバムのプロデュースを石野が担当。1990年代中期に独自のスタイル「シノラー」を浸透させた。シングルのカップリングでは人生や電気のライヴのみで演奏されていた楽曲「ポールレモス(チチョリーナ)」(「忘れちゃうモン」に改題)をカヴァーしている。電気のアルバム『VOXXX』にはゲストボーカルとして参加した。当初「こいつなら恋愛関係に発展する事はないだろう」と見込んで石野はプロデュースを引き受けたが、当時若干16才だった彼女の肌が赤ちゃんの肌のようにスベスベしていた事を気に入り、顔面を舐めたり、自分の肛門付近の痔を撮影したデジカメ画像を見せるなどのセクハラまがいのスキンシップを行っていた。
韓国のポンチャックの第一人者。石野が敬愛する根本敬によって日本にその活動が伝えられ、その独自のスタイルに衝撃を受けた電気の推薦もありキューンレコードより日本デビュー。電気の日本武道館公演のオープニングアクトを務めた。電気の楽曲「NO」を含む日本のヒット曲メドレーをポンチャック化したCD『ポンチャック大百科』とそのリミックス盤『李博士vs電気グルーヴの「ひらけ!ポンチャック」』などをリリースした。韓国では2000年代に入り逆輸入のかたちでリミックス盤がテクノポンチャク(テックポン)として評価され、自身もよりテクノ的な要素を取り入れた韓国初のオリジナルアルバム『SPACE FANTASY』をリリース。それ以降より、かつての彼の姿を知る者にとっては一見して別人と見紛うほどに洗練された音楽スタイル、ファッションへとイメージチェンジをはかっている。
日本人テクノDJのTOBYによるプロジェクト。80年代後半より世界各地を放浪し、90年代よりドイツのテクノシーンを基盤に活動を開始する。通称「テクノ外交官」として日本国内へのテクノの認知度アップにも尽力し、電気の日本国外への進出に際し大きくサポートした人物でもある。自身も『虹』のドイツ盤でリミキサーとして参加した。現在は日本に拠点を移し、石野と並ぶ日本のテクノシーンのベテランDJとして活躍している。DJプレイだけでなくトークにも定評がある。近年のDJではプレイ中にくるりの曲を熱唱するなどの個性的なスタイルが話題となった。
『ウゴウゴルーガ』、『OH!スーパーミルクチャン』などに参加し注目を集めた株式会社フレイムグラフィックス代表のアートディレクター。電気の作品のアートワークやPVの多くを手がけ、「グルーヴ地獄V」にも参加した。瀧とは「プリンストンガ」なるVJユニットを結成し、WIREなどで活躍している。NHKのアマチュアクリエイター育成番組『デジタルスタジアム』には瀧をパートナーに出演している。
1990年代初頭のバンドブーム以降の日本のメジャーシーンでブレイクしたバンドの中で、珍しく公に電気がリスペクトを表明した存在。特にライヴでのハイテンションなパフォーマンスが目立った阿部義晴を評価していた。その事から発展したのか、阿部のソロ作品発表の際は電気が作詞を担当している。また、ゲーム好きということで『オールナイトニッポン』では奥田民生との対決も実現。のちに「“KARATEKA”マガジン」にコメントも寄せている。1993年9月21日に電気の『オールナイト』の枠を借りて組まれた特番にてバンド解散が発表された。
テクノミュージシャン、DJ。まだ無名の時期に大阪に訪れた卓球と意気投合し、自身のレーベル「とれまレコード」を主宰。1993年頃より黎明期の日本のテクノシーンを卓球と共に牽引した人物。卓球にDJを薦めたのも彼。「とれま」の初期のリリースには卓球の変名「DOVE LOVES DUB」の作品や卓球とまりんのユニット「マンガヘッド」のリミックス曲などがあった。活動を開始した当初は初期のトランス、バレアリック、プログレッシブハウスに影響を受けたDJプレイを行っていたが、のちにミニマル系に移行した。電気グルーヴの活動には一部の楽曲のプロデュースや「たんぽぽツアー」への参加(一部の公演では彼のDJプレイと電気のライヴの二本立イベント形式がとられた)などがある。また、卓球以外ではWIREに毎年出演している唯一のアクトである。現在はKarafuto名義の活動や「とれま」とは別レーベルの「op.disc」も主宰している。
イラストレーター、小説家、ミュージシャン等、様々な分野で活躍する人物。もともとミュージシャンや文化人など多方面に交友関係の広い彼であるが、電気もその中に含まれている。瀧とは『ココリコミラクルタイプ』で長年共演し、石野とはインストアトークイベントとして『InKとリリーフランキーの楽しいおしゃべり』を開催した。ちなみにミゼットプロレスのリトルフランキーとは別人。
電気のANNにおいて、「ツチノコ市場」、「北京面(ペキンヅラ)」等のペンネームで活躍した出待ち兼ハガキ職人。現在は「ペイパービュウ」というコンビで西口プロレスのイベント出演などで活動中。かつては大川興業に在籍していた(現在はフリー)。
電気グルーヴや関連作品などを繋ぐ一種のキーワード。 もともとは石野と瀧が高校時代に製作したテープに由来する。石野と瀧の共通の友人H氏を石野の自宅に招き、彼と面識のないツッパリで強面の先輩(その正体は石野の後輩)を同席させ、H氏に罰ゲームやヨガなどの無理難題を強要させた。その際、ちょうど脚を頭の後ろに上げるポーズをとらせたとき、あまりにも無理な姿勢だった為、突如H氏の口から悲鳴とも呻きともつかない声が漏れた。それが「ピグ」である。※あくまでもこれは身内でのドッキリ企画のようなもので、後日H氏にも事の説明と了解があったらしい。
この一部始終はラジカセで録音されており、当時の電気グルーヴの前身バンド「人生」のライヴでも流された。1992年には「オールナイトニッポン」で瀧も参加した後日談的第二弾のテープと共に放送。その内容は全国区に知れ渡り、今ではファンの間で伝説のフレーズとなっている。
「オールナイトニッポン」をきっかけに親交を深めた漫☆画太郎の「週刊少年ジャンプ」誌連載作品。当時まさに黄金期だったジャンプの連載陣のなかで、異彩を放ちつつ孤軍奮闘する画太郎に対し、電気は番組中でエールをずっと送り続けていた。画太郎自身にもそれは確実に届いており、打ち切り直前の終盤にて本編に石野と瀧をキャラクターとして登場させた。最終回のエンドクレジットにも電気グルーヴの名が刻まれており、最終巻では瀧が巻末コメントを寄せた。その後も親交は続いており、瀧とタッグを組んで「虐殺!ハートフルカンパニー」、「樹海少年ZOO1」などの作品を生み出した他、実写映画版「ババァゾーン」にも瀧が出演した。
「電気語」とは、電気グルーヴの楽曲の歌詞や、電気グルーヴのオールナイトニッポン内で卓球と瀧によって交わされた会話の特徴的な単語やノリ、番組の各コーナーで生まれた独特のテイストを含んだ会話や文章を指す。「電気しゃべり」とも。特に石野卓球の果たした役割は大きく、当時多くの番組リスナーたちが影響を受けた。ANN1部当時、個人で「電気語辞典」を作成して番組宛に送りつけた女性リスナーがいたが、彼女こそは後に「ニュースステーション」でお天気お姉さんを務めることになる乾貴美子であった。
電気グルーヴというバンド名が示すとおり、結成当初より「電気で作るグルーヴ」=シンセサイザー、ドラムマシン、サンプラーを駆使した打ち込みによるサウンドプロダクションが貫かれている。
ローランドが発表したモノフォニックアナログシンセサイザー。石野にとって最初のシンセ。シンプルでコンパクトながら、その完成度は高く、生産完了から久しい現在でも中古市場でプレミア化している。「人生」時代より数々の楽曲で主戦力として活躍し続けているが、「Shangri-La」のシンセベースでの使用が最も有名。砂原も同じものを持っており、「A」のレコーディングでは砂原所有のものが使われていた模様。石野所有のものにはボディ全体に瀧による落書きが施されていた(近年は黒マジックと修正液で上から塗りつぶされている)。
ローランドが発表したミュージックワークステーション。サンプラーとシーケンサー、キーボードが一体になっている。石野が所有し、シーケンサーとしてコンピューターを本格導入する1995年まで、初期〜中期の電気グルーヴのサウンドプロダクションの中核を成していたといっても過言ではない。「662 BPM BY DG」の内ジャケでその勇姿が確認できる。ちなみに石野は機材の取扱説明書を読まないので、シーケンスパターンのコピー方法を知らず、曲の頭から最後までマニュアルで打ち込んだりしていた。
W-30と同じくローランドが発表したサンプラーで、やはり「662 BPM BY DG」の内ジャケで姿が確認できる。ピエール瀧がローンで購入した。この機材も結成当初の電気グルーヴで大活躍したといわれているが、サンプリングタイムが短い事と、保存メディアに時代遅れのクイックディスクを採用していた事などから、AKAI S-1000導入以降は徐々に一線を退く事となった。ちなみに石野が最初に購入したサンプラー、X7000もクイックディスクを採用していた。既にメディア自体が入手困難だった為に、ファミコンのディスクシステム用のディスクを調達し、任天堂ロゴ部分をハンダごてで焼き切って代用品として使っていたという。
カワイ製のデジタルPCMシンセ。今となってはマイナーな機材ではあるが、初期の電気では生音系の音色などで活躍した。WIRE04でのライヴの際、このとき演奏された「電気ビリビリ」は「FLASH PAPA」収録のバージョンに近いアレンジが施されていた事もあり、石野は久々にこのシンセを引っ張り出してきて使ったらしい。
AKAIが発表したサンプラー。民間でもなんとか入手可能な価格と、充実した機能によって音楽シーンの歴史を塗り替えたともいわれる革命的機材。マイナーチェンジ版であるS1100と共に、初期のサンプリング主体だった電気のサウンドにおいてはレコードからのブレイクビーツ、フレーズサンプリングはもちろん、声ネタとしていかりや長介や横山やすしのボイスサンプル、果ては屁までさまざな音がサンプリングされ、まさに縦横無尽の活躍を見せた。ただ、デビュー当時の電気にとってはやはり高価な代物であり、石野が増強メモリーを購入した際は、当時の給料が10万円だったところを、家賃が5万3千円、サンプラー関係のローン返済が月2万円となっていた為、相当貧しい生活を強いられていた。
ローランドのアナログポリシンセ。オシレーターにDCOを使用する事で音程が安定しており、ポリ仕様なので和音が弾ける。音色のメモリーも可能で、さらにMIDI規格にも対応しており使い勝手が良く、音も良い。これもS-1000などと並んで当時のテクノ/ハウス界で重宝されている逸品である。石野と砂原が愛用している。だが、砂原は親戚が購入した一台を借りたままずっと使っている。石野もやはり友人から借りたまま済し崩し的に所有していたが、そのJUNOをなんと一旦は売り飛ばしてしまい、その後に必要性にかられて再び買い戻したという。現在に到るも永らく使用され続けており、まさに電気グルーヴや石野&砂原サウンドの要である。
KORGが発表したDCO方式のシンセサイザー。過去に石野の家に二台、瀧と砂原の家にそれぞれ一台が確認されている。そのうち石野と瀧が所有する一台はリバース鍵盤(白鍵と黒鍵の配色が逆になっている)というレアなモデルである。メンバー所有のうち一台は、「オールナイトニッポン」のリスナーにプレゼントされた。おなじDCO方式であるJUNOに比べれば若干チープな音色であるが、独特の味がある。簡易シーケンサーなども装備している。
KORGが発表したアナログモノフォニックシンセサイザー。パッチングにより多彩な音作りが可能であり、石野とウェストバムのユニット「Takbam」のファーストシングルの音色は全てこのシンセで製作されたものである。完成度の高いフィルターは外部からの音源入力を通す事も可能であり、サンプラーの出音を取り込んで加工したりといった方法でも使用された。ただし、こういった古いシンセは同期規格が現在主流のMIDIとは異なっており、現状の打ち込み環境に組み込むには1993年前後の専用コンバーター普及まで待たねばならなかった。その為、手弾きしたフレーズをサンプラーに取り込むなどして使うしかなかったという。砂原は「キーボードスペシャル」連載にてこのシンセを売ってくれる人を公募していた。平沢進が自身のファンクラブ会報において所有する2台のうち1台を砂原にあげたと言っており、時期は不明だが平沢進からもらった可能性が高い。石野は「人生」時代に友人が所有していたものを借りたまま今も使用。
ローランドのアナログシンセサイザー。リズムマシンと同期演奏する事を前提としたシーケンサー内蔵ベース音源として発売されたが、後年それとは違った用途で再評価され、アシッド・ハウスという一大ジャンルを形成するまでとなる。石野はとあるクラブに遊びに行った先でファンの少年からプレゼントされ入手。それを切っ掛けとしてこの機材に心酔し、『Flash Papa Menthol』以降の作品から大幅にフィーチャーしていく事となる。折しも当時(1993年)には英国を中心としたアシッドハウスリヴァイバルが起こっており、そのシーンが電気の活動に与えた影響も大きい。「野村ツアー」で販売されていた限定TシャツはTB-303を正面にプリントしたものであった。日本ではYMOのアルバムで使用された事や石野、砂原による音楽雑誌上での啓蒙活動もあり、その中古価格は高騰した。1990年代を過ぎてからは、熱狂的だったブームの沈静化もあり、作品から影を潜めていたものの、2004年以降の石野ソロを含む音源やライヴでは、再びその音色が大幅に使用されているのを聴く事が出来る。現在石野は計三台を所有し、そのうち一台はReal World Interfaces社による『Devilfish』というチューンナップ版に改造されている。
ローランドの歴史的名機とも評されるリズムマシン。ハウスシーンにおける再評価によって、1990年代以降の幾多の音楽シーンに多大なる影響を与えた。電気の活動初期には本体そのものをメンバーが所有しておらず、主にレコード等からのサンプリング音源や、おなじくローランドのPCMリズムマシンR-8の音色ライブラリを使用するに止まっていたが、デビュー後に石野が入手。続いて砂原も必要性に駆られて導入したといわれる。一時期はその過剰なまでの愛着から、ライヴにおける舞台セットに巨大なTR-909とTB-303の書き割りを設けていたほどである。そのあまりにも有名な音色以外にも多機能で知られる909であるが、電気のレコーディングでは時期によって使用方法が異なるのも特徴である。当初はメインシーケンサー(W-30、MC-50等)で組まれたシーケンスによってMIDI音源的に使用されていたが、『ORANGE』の一部の曲では909本体内蔵のシーケンサーをメインに据え、サンプラーなどの外部音源をトリガーするといった使用がみられた。続く『A』ではメンバー自身がサンプラーによるリズムプロダクションに傾倒していた為、一旦音色をサンプラー内に取り込んだ上で間接的に使用されている。現在、石野使用のモデルはバスドラム、ハイハット、リムショット等に独自の改造を加えた上で再びメインのリズムマシンとして愛用されている。砂原は1995年のソロ作あたりからしばらく距離を置いていたが(一方で当時のインタビュー記事では『ただし売り払うつもりは全くない』と明言)、近年のスーパーカーのプロデュース作業などで再び大胆に使用した。
KORGの12bitサンプリングシンセサイザーDSS-1のラックマウントタイプ。「サンプリングシンセサイザー」と銘打っているだけに、音作りの幅の広さに定評のあるシリーズである。1990年代中期以降は12bitサンプリング方式という事で、当時主流の16bit方式よりスペックでは劣ってはいたものの、むしろこれらの旧式サンプラーは、折からのLO-FIブームの影響で、その荒い音質が逆に評価されていた。特にDSM-1、DSS-1はメモリー内にサンプリングせずとも外部入力から音を取り込んでスルーするだけで12bitサンプラー独特の音質効果が得られるという事で、ボーカルなどの長尺の素材に対してエフェクター的に使用される事が多かった。最初にテイトウワ、坂本龍一らを中心に再評価の波は広がり、電気の「ORANGE」のレコーディングでも主に砂原が使用していた。
Propellerheadが製作したPC用波形編集ソフト。PC上やサンプラー内のサンプリング素材を取り込み、アタック部分を自動的に検知して分割し、さらに鍵盤上にマッピングしてくれるという機能を持つ。BPMを任意に設定してピッチを合せるなどの作業も容易に出来た。これらの作業はサンプラー単体でも不可能ではなかった行為だが、非常に手間が掛かった為、このソフトの登場は、とにかく1990年代後期以降のサンプリングミュージックには衝撃的な代物だった。面倒な作業から開放されるだけでなく、サンプルループ/ブレイクビーツの各パーツ前後並び替えや一部差し替えなど、極めて複雑な構成でキットを組む事も頻繁に試されていった。このようにクリエイター達に新たな発想を齎した事でも特筆に価するソフトである。電気のレコーディングでは「A」で大活躍している。当時は「VITAMIN」以降から続いたリズムマシンで直接ビートを組む方法に対して食傷的になっていた為、TR-909のキックなどの定番ビートにも敢えてサンプリングを多用していた時期であった。
ドイツのSND社製アナログシーケンサー。パネル上に横に16個並んだツマミを操作しパターンを制作する方式を採っている。石野はこれで偶発的なフレーズを作り出し、そのデータをCubase上にて編集して楽曲に用いている。規格はMIDIとCV/GATEに対応している。全ての個体がハンドメイドで制作されており、総生産台数は極めて少ない。日本での所有者は石野の他に田中フミヤの二人だけであると言われている。InKのインタビューで川辺ヒロシは「軍用機械みたいな風貌」とコメントしている。
ベルギー製のフィルターマシン。フィルターマシンはサンプラーなどの外部音源を入力する事で独特の音色変化が得られるのが特徴で、その効果を活用したフィルター・ハウスなどといったジャンルも1990年代後半よりダンスシーンに定着した。このSherman製の機材は効果が極端かつ予想不可能なものとして支持を得た。電気のレコーディングではフィルター・ハウス的な用いられ方よりも楽曲の着想段階で多用されたという。かつて石野はこれを肩に担いだ姿で雑誌の表紙を飾った事もあった。
^ そのほかに「電G軍団」、「電気ちゃん」などがある。世俗的に「電グル」と略される場合も多くあるが、ファンにとっては敬遠されている略称である。
^ この背景には当時ユニコーンが発表したミニアルバム「おどる亀ヤプシ」に収録された「PTA?光のネットワーク?」に小室が触発され、電気を抜擢したとの話もある。電気曰く、「虎の威を借る狐作戦」で大ヒットしたが、石野は当時から小室を内心小バカにしていたそうで、小室所有のフェラーリに自分の性器を押し付け、「ここから腐るぞ」と語ったという。その後も石野は小室の作るユーロビートの路線に一貫して否定的態度を示していた。
^ 当初の彼等は「ハウス・ラップ・ユニット」という触れ込みであり、ナンセンスで過激なラップ歌詞をハウス・サウンドに乗せる手法を取っていた。
^ 当初、アルバムの内容が半分以上がインストというものだったため、レコード会社からは「これでは売れない」と発売の許可がおりなかった。アルバムに収録せずシングルとして発売する予定であった「N.O.」をアルバムに入れることでレコード会社としぶしぶ合意し、発売にこぎつけた。N.O.だけ曲間が空いているのはそういった事情があるためである。結果、アルバムはレコード会社の予想を超えた好セールスを記録。日本のテクノ・ブームの火付け役とも評されるようになる。
^ だが、後にメンバーいわく「電気が世間になめられていた時期」と話す。初期電気グルーヴのスタイルを真似た宇宙犬なるバンドがメジャーデビューを果たし、メンバーを憤慨させる。
^ 余談だが、電気グルーヴの当時の事務所に日産自動車からヒットの祝いとしてテラノが1台プレゼントされたという。
^ ただしこれは文字通りの「休止」であって、解散を意味するものではなかった(ただし、一部のメディアでは解散と解釈され「元・電気グルーヴのピエール瀧さん」などと紹介された例が実に数件あった)。唯一の活動として雑誌連載の「メロン牧場」は変わりなく継続される事に。また、「休止」の最中にも、全身を隠し尻だけ露出して「電気グルーヴ、尻だけ復活」する案や、石野と瀧が脱退して新たに加入させた別人だけで復活するという案もあったが、結局実現せず。
^ ケラの手によるジャケットイラスト(色鉛筆とクレヨンで描かれた石野と瀧の似顔絵)や、歌詞も含め、かつてのナゴムレコードに対するオマージュ的な内容となった。
^ 同シリーズのアニメでは長年、水木しげる作詞・いずみたく作曲による主題歌「ゲゲゲの鬼太郎」が歌手、アレンジ等を変えながら使われ続けてきたが(厳密には別作品とはいえ)それ以外の曲が主題歌に採用されるのは今回が初めてである。また、この作品には瀧が声優としてレギュラー出演することも決定しており、瀧が歌う劇中歌「有楽町で溶けましょう」もカップリング収録される予定である。ちなみに、元祖「ゲゲゲの鬼太郎」のOP、ED曲はインディーズ時代に「人生」や別ユニット「I-JOE」等で幾度かカヴァーが披露されている。
^ ちなみにジャケットの半人半馬の人形のモデルは当時プロモーターを務めていた「ゲロモーター(=酔ってゲロを吐くプロモーター)」こと中山道彦(現キューンレコード社長)。
^ もともと石野は熱狂的なダウンタウンファンであり、大阪時代より独自の情報網を駆使して「4時ですよ〜だ」などの番組VTRを入手していた。その後も電気は「ごっつええ感じ」等、多数の番組にゲストとして出演しており、瀧は高須ともプライベートで親交が深い。
^ なお、当番組は対決パートの他に撮りおろしの今田・東野のコントと歌(「親父の唄」)と電気のライヴ映像が挿まれた。とくに電気のライヴはCDに収録されていないバージョンのアレンジ(「オールスター家族対抗蛇合戦」。クラフトワークなどをサンプリング)で、資料性も高い。ちなみに、当時の今田は「ごっつええ感じ」で東京進出を開始した時期で、東野は関西中心に活動していた。この番組が縁となったわけではないが、のちに石野は彼らによるWEST END×YUKIの「テクノでSO・YO・NA」のプロデュースとリミックスを手がけた。
^ ヘトヘトになりながらも昼間の収録でボルテージの上がっていた石野は、このとき実に饒舌で「女を殴るミュージシャンは日本で俺と坂本龍一だけ」などの発言を残した。
^ 略して「ある土」。タイトルはオールナイトニッポンの番組中でもネタにしたことのある、小学校の音楽の時間に歌わされたスティーブン・フォスター作の曲名より。
^ 冒頭卓球が持参して来たシャンパンを開ける音からスタートし、時間の経つごとに卓球が泥酔。当時は発売を予定していた二種類のアルバムが相次いで発売延期を余儀なくされるというヘビーな状況が続いていた為か、それとも電気として久しぶりのラジオ番組だったからなのか、思いついた単語やダジャレをその場で延々と口にするなど、終始妙なハイテンションでトークを展開。瀧による番組進行をダジャレと愚痴で妨害し、後述のOH! MY RADIO以上にグダグダの放送となった。
^ 終始独特のユルいテンションで放送された。短期間ながらも朝青龍をいじった投稿コーナーが好評を博す。二週目にボーズとシンコ、三週目に石野、そして最終回の四週目はメンバー全員が登場。シングルとアルバムの制作秘話と砂原良徳の近況について語った。番組中でかかった曲の一部は瀧のiPodから直接ポン出しされた物であったという。
^ FM番組らしからぬAM番組ノリで終始放送された。一週目より週替わりで「お互いの近況」、「ルーツミュージックについて」、「旅について」、「電気グルーヴについて」をテーマにしたトークと、石野選曲による「病んでるけど楽しい曲」を多数オンエアした。リスナーからは絵葉書を募集。番組中では瀧が11月末まで「ピエル瀧」に改名する事が発表された。御歳四十に差し掛かった2人の肉体の衰え(特に記憶力)と、石野のますますの壊れっぷりが露となった放送であった。
^ 特筆すべきは巻末のディスクレビューで、彼らが影響を受けたであろうテクノ、ニューウェーブからプログレッシブロックの名盤が、ジャケット写真と共に数多く解説されている。当時これらのジャンルを総括する書籍は例がなく、重宝された。また三人の部屋も紹介され、数々のアナログ機材がページを飾った。執筆には静岡時代からの盟友野田努が参加。この本とほぼ同時期にリリースされた「人生」ベスト盤のレヴューも「こくそ虫(狂人鬼)」名義で担当している。余談ではあるが、野田の実弟は「人生」の元メンバー(当時の芸名は「くちづけ」)だった。ちなみにこの単行本を作るにあたっての伊豆で行った合宿は惨憺たる光景であったと語られている(全員泥酔し、あちこちにゲロがまみれ、なぜか全裸でプラモを作ったと言われている。
^ 石野の「メリーノイズ」としての初ステージから当時の電気の活動までを貴重なスナップ写真と共に振り返る「KARATEKAそして鼻毛あばれ牛への道」は、上記の「俺のカラダの〜」と合せて読むことで、電気の歴史をより深く知ることができる。また三人の家族(石野・砂原の母、瀧の姉)他、森若香織・奥田民生・スチャダラパーといった友人たちがメッセージを寄せている。
^ 『テクノ・ユニット』の項では「テクニックがないというコンプレックスは強く、なにかというと「センス」を強調したがります」と、自嘲的に表現している。また、『タキ』も職業のひとつとして取り上げられている。後にメンバー自ら「なんで出たのかわからない本」と振り返る。

 

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