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[ 977] 鈴木みのる - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%82%8B

この項目ではプロレスラーについて記述しています。漫画家、本名鈴木稔(みのる)については鈴木みそをご覧ください。
プロレスラーながら、相手の技をよけることを得意(信条)としている。だがこれは総合格闘技のように短時間で相手を倒すためや試合の組み立てを無視した行為ではなく、本人なりの緩急の付け方や観客の盛り上げ方である。小橋建太とのGHCヘビー級選手権でも、序盤は小橋選手の打撃をかわし続けたが、試合中盤以降はしっかりと受けている。
とにかく試合前・試合中・試合後全てで卓越した話術・レスリング技術を用い相手をおちょくり続ける根っからのヒールを演じている。
1988年に飯塚孝之戦でデビュー。翌1989年3月には、デビューから1年という一介の若手にもかかわらず、アントニオ猪木と対戦する機会を与えられ、新日本プロレスから期待されていた存在であったが、当時隆盛を極めていた新生UWFへ移籍。
同年5月には田村潔司のデビュー戦の相手を務め、新生UWF初白星。その後、高田延彦や前田日明といった大物とのシングルが実現した。特に安生洋二との対戦は常に白熱したものとなった。11月には骨折した船木誠勝の代打として東京ドーム大会「U-COSMOS」で、モーリス・スミスと異種格闘技戦で対戦。5ラウンドでKO負けを喫するが、周囲から絶賛を浴びる(ただし、鈴木は後に、「実はビビっていた」と述懐している。周囲が手放しで褒める中、そんな鈴木の内心を見抜いていたのは前田ただ一人だった)。この試合が鈴木の格闘技人生において大きなターニングポイントとなる。
1990年末から1991年初頭にかけて、UWF分裂騒動が起き、鈴木は盟友の船木らとプロフェッショナルレスリング藤原組へ参加。1990年4月1日、SWSとの提携で行われた神戸ワールド記念ホール大会におけるアポロ菅原戦は、UWFスタイルにこだわる鈴木と、それに付き合おうとしない菅原がまったくかみ合わず、苛立った鈴木が明らかにプロレスの範疇を逸脱した攻撃を繰り出し、不可解な試合となった(船木がかつて担当していた「プロレス格闘技DX」のコラムによれば、当日の試合後、鈴木は楽屋で泣いていたという。またこの興行は、北尾光司がプロレス史上に残る事件を起こしたことでも知られている)。
1991年7月、東京ベイNKホール大会における佐野直喜戦は、佐野が鈴木のスタイルに適応したこともあり大きな反響を呼んだ。1992年10月の東京ドーム大会ではソウル五輪レスリング金メダリストのゴベリシビリ・ダビッドと対戦、チョークで快勝。
藤原組はカール・ゴッチを顧問として据えており、ゴッチが直接指導することもあったため、ゴッチに傾倒したのもこの時期である。アメリカ人選手がゴッチのレクチャーを受けた際、「痛い、これじゃ鈴木じゃないか」とクレームをつけると、「私が鈴木であり、鈴木が私なのだ!」と返答したこともあるなど、ゴッチもまた鈴木に大きな期待を寄せた。
1993年1月に船木誠勝と共に藤原組を離脱、パンクラスを旗揚げ。11月の神戸大会ではモーリス・スミスと無謀にもキックボクシング・ルールで対戦、KO負けを喫するも、翌5月に行われた武道館大会のリベンジマッチでは腕十字で勝利し、5年越しの雪辱を果たす。1995年5月のNKホール大会ではケン・シャムロックを破り、第2代キング・オブ・パンクラシストに輝く。
しかし、同時期に台頭してきたブラジリアン柔術の技術を導入しようと試行錯誤を試みる船木を「ツキハギだらけ」と公然と批判。この時期から船木に対する反感を露にするなど、盟友の船木とソリが合わなくなっていた。
同年9月の日本武道館大会では、バス・ルッテンを相手にキング・オブ・パンクラシスト初防衛戦を行うが、ギロチンチョークで敗退、王座から転落。1996年1月、ルッテンが負傷により王座を返上し、空位になったキング・オブ・パンクラス王座の暫定王者決定戦をフランク・シャムロックと行うが敗退する。以降、首の負傷が原因で連敗を重ね、6月にはデビュー半年の近藤有己にまで敗退。船木からは「もう両雄ではない」と見切りをつけられてしまう。同年10月より長期欠場した。
1997年5月にジョエル・サトゥン戦で復帰。続くジャグジット・シン戦は、21秒で快勝と全快したかに思われたが、7月には負傷が再発し再び欠場。以後、ルーキーの域を出なかった山宮恵一郎や、それまでの対戦では問題もなく一蹴していた冨宅飛駈などに敗退。熱心なファンからも限界説が唱えられるようになる。
この頃の鈴木は、リングスとパンクラスとのトラブルの発端を生み出し、リングスCEOの前田日明に挑発されたり、当時シュートボクシングに在籍していた村濱武洋に「(言動が)ダサい」とインタビューで発言され、当時蜜月だったフリーライターの安田拡了が村濱に圧力をかけるなど、中立的なファンにも眉をしかめさせる言動が目立っていた。
ほぼ1年の欠場を経て、1999年に唯一行われたパンクラス公式戦である菊田早苗戦はなす術なく完敗。既に鈴木のサブミッション技術が、ブラジリアン柔術を導入した技術には通用しないことを知らしめてしまう。2000年9月のデニス・ケイン戦では、試合中に腰痛が再発しギブアップ負け。
その後は、「キャッチレスリング」という組み技限定ルールと、エキシビジョンを中心に活動。2002年6月にはDEEP2001に出場し、ルチャドールのエル・ソラールと対戦するが金的蹴りにより反則勝ち。しかし、対戦相手のソラールの評価だけが上がる結果になるなど、様々な面で悪い結果に終わっていた。
DEEP2001で愛弟子である窪田幸生を一蹴した元リングスの坂田亘に「横浜の大将」とリング上で挑発されたり、パンクラスのリング上で猛威を奮っていたGRABAKAの郷野聡寛に「美濃輪とやるのは早い」と発言したことに対してリング上で「目をさましてくださーい!」と皮肉混じりにアピールされた。公式に反論できずに、スタンドプレイに必死なロートルという評価がコアなパンクラスファンにも定着。
指導者としても「柔術が嫌いだから」という個人的な理由で「出稽古禁止」などのルールを設け、ますますパンクラスとその他の総合格闘技団体との技術的なギャップを広げる原因を作ったことから、引退していた船木誠勝にも「鈴木を切った方がいい」と言われてしまう。
2002年、パンクラスのリングで獣神サンダー・ライガーと対決し勝利する。本来はライガーではなく、前座のころに激闘を繰り広げてきた佐々木健介と対決する予定だったが、健介は新日本を退社していた。「もうやめようかなぁ」と思っていた鈴木に、ライガーが「俺じゃダメか?マスク脱いででもやる」と強烈にアピール。鈴木は心を打たれたと後に語っている。また、負けたライガーの評価がむしろ上がったことに、対相手だけではなく対客というスタンスもあるプロレスに再び興味を持った。
ライガー戦を最後に、パンクラスを含めて総合格闘技の試合は行っていない。この頃にはハイブリッド・ボディと決別し、プロレスラーらしい脂が乗った体型に変化していた。なお、本文中で名前が挙がった選手のほか、セーム・シュルトやガイ・メッツァーらとの対戦経験がある。
2005年6月18日には、シングル戦以来お互いに興味を持った丸藤正道と共に、スコーピオ・タグ・ウイリアムス組が持つGHCタッグ王座に挑戦し見事奪取する。その後は丸藤を正パートナーとして、「ベルトには興味が無いが、ベルトで面白いことをする」と宣言し、イギリスでの防衛戦を成功させた。しかし、10月28日に挑戦者として迎えた森嶋猛・モハメド・ヨネ組に奪取されてしまう。
ノア所属の秋山準との初対戦で失神に追い込んで以降、鈴木は「世界一性格の悪い男」、秋山は「NOAH一性格の悪い男」と称され、キャラもかぶっていることからお互いに舌戦を繰り広げ、試合が組まれればえげつなく攻め立てる関係と発展していていた。
2006年には佐々木健介20周年自主興行に参戦。全日本プロレス所属選手の不甲斐なさに吼え、それでも絡んでこない全日本に罵声を浴びせたが、怪我欠場中である本間朋晃が反応したことで全日本参戦へのきっかけを作り上げ、2006年4月以降、全日本を主戦場とする。全日本では東京愚連隊のNOSAWA論外が勝手に『みのる軍団』を名乗ったりと、嫌々そうな顔をするものの、実は楽しんでいる姿も見られる。なお、みのるは「NOSAWAはパシリだ」と言っており、論外が『みのる軍団』と言うたびに「『鈴木みのるwith東京愚連隊』だ」と修正している。
6月23日にはメカマミーと戦う。当初は記者会見などで「メカ」という存在を否定していたが、試合の終盤にセコンドから奪ったペットボトルの水でショートさせ、スリーパーで「機能停止」させた。
9月3日の全日本札幌メディアパーク・スピカ大会で太陽ケアを破り、三冠ヘビー級王座を奪取(第35代)。12月12日のリアルジャパンプロレス後楽園大会では、初代タイガーマスクとシングルで対戦し完勝。
2007年1月4日の新日本東京ドーム大会で、新日本の永田裕志を相手に死闘を演じ、スリーパーホールドで勝利。2月17日、全日本両国国技館大会で小島聡を破り、三冠王者として3度目の防衛を果たした。
7月1日の横浜文化体育館大会では武藤敬司を下し、5度目の王座防衛を果たしたが、8月26日、両国大会での佐々木健介戦にて、42分の死闘の末に敗れ、1年に渡る長期政権からついに転落した。
現在は全日本を主戦場とし、ノア、新日本などにもスポット参戦を行っている。またテレビ出演、執筆活動等、幅広い活動も行っている。
立ち位置はヒールであるが、高山善廣と同様、発言など全てを悪役として通しているわけではない。「性格の悪さ」から普段はサイン・写真撮影には全く応じないが、2007年1月26日の全日本プロレス沖縄興行の会場にて、めずらしくファンと写真撮影をしている姿が見られた。
人から物を頼まれるのが嫌いらしい。だが、時間がある時は練習生にレスリングを教えたり、パンクラスの「Kids Lab」にレスリングを習いに来ている少年を可愛がり、少年の大会に応援にかけつけるなど、性格のいい一面も合わせ持っている。
横浜高等学校レスリング部主将の時、体育祭で各部がそれにふさわしいものを持ってリレーするというときに彼はレスリング部のアンカーとなり、人形を抱えてコースのあちこちで技をかけて見せるというサービスをした。もちろんビリだったが、ゴールでは人形にジャーマンスープレックスをかけてみせて喝采を浴びた。
プロレスに再進出してからは、ヘアスタイルを頻繁に変えるようになり、凝った剃り込みが入っている。常連であるの横浜の美容室の美容師を「おらが村のカリスマ美容師」と呼び、大きな大会の前にはヘアスタイルを変えている。以前、好きな食べ物に「唐揚げのマヨネーズ和え」と発言した事から、ライン坊主を基調とした独特の髪型は一部のファンから「唐揚げカット」と呼ばれる。
普段は黒のショートタイツに黒のリングシューズといういでたちであるが(レガースは着用しない)、パンクラス時代から現在に至るまで、ここ一番の大舞台では白のショートタイツを着用する(近年では先述のパンクラスでのライガー戦、ノアでの秋山準戦、全日本での武藤敬司戦など)。
息子は「とても鈴木みのるの子とは思えない程かわいい(北斗晶談)」らしい。さらに2005年7月18日のノア東京ドーム大会にその息子を連れてきたり、「息子に自慢するから」とノアの5周年記念パーティでネブ博士と写真を撮ったり、ドラえもんの映画を息子と一緒に観に行ったりと、ファイトスタイルからは想像できない、いいパパぶりを発揮している。
2007年1月には、全日本沖縄大会に参戦するため沖縄を訪れたが、その際に与那原警察署で一日署長を務めた。しかし東京スポーツに「みのる、逮捕」なる見出しが載り、本人はブログで笑いと取っていた。
中村あゆみの大ファンであり、入場テーマ曲は中村あゆみに直接製作を依頼したオリジナル曲『風になれ』であるが、入場テーマにオリジナル曲を使用する選手の中で、ボーカル曲の例は殆ど無く、日本語でメッセージ性の高いものであった為かみのるファン以外には余り評判が良くなかった。しかし、最近の活躍と、ブログ内で披露した楽曲製作を依頼した裏話により再評価され始め、会場ではリング・インする瞬間にくる「かっぜにぃなれー♪」の部分で大合唱が起こるようになってきている。歌詞に合わせてリングインを決めるタイミングは(サビの前にリングのエプロンに到着したときは、観客に向かい手拍子をしろと囃し立て、サビがくるのを待つ。またエプロンに着いた時にリングのロープを開けて待っている若手を蹴散らす)名人芸の域に達している(曲の作成を依頼したら「作ってもいいけど入場はサビが終わるまで待て」と言われたらしい)。2006年5月21日に参戦した、全日本後楽園ホール大会からは、ニューバージョンの『風になれ Rough-Mix』を使用している。
UWFの流れを汲んだレスラーであることや、ヘビー級戦線では102kgと小柄であることもあり、基本的に大技を用いることはあまりなく、老獪なテクニックと相手をおちょくる動き、そしてピンポイントで決める投げ技で試合を組み立てていく。
関節技の多さ・正確性から、対戦型格闘ゲーム「鉄拳シリーズ」のキャラクターキングのモーション・キャプチャー(コンピュータへの動作の取り込み)に参加。ゲーム内にベルウッド(鈴木)・スペシャルコンボという名称を残す。
本人曰く「大技ではなく必殺技。ハヤタ隊員がウルトラマンに変身していきなりスペシウム光線を出さないのは、怪獣を動けなくさせてからでないと避けられるから。あと視聴者につまらない印象を与えないため」と、ウルトラマンに例えて自分のファイトスタイルを語っている。
相手の頬を叩くだけの技。得意技としながらも「ビンタだけなら2歳児でも出来る」と本人は認めており、プロレスラーだからこそ出来る立派な技としてのビンタへ昇華させようとしている。緩急をつけ易い為、思い切り行くと見せかけて途中で止め軽く叩き相手をおちょくったり、掌底のようにフルスイングで打ち付けたりと大きな幅を持って使用している。2006年3月5日のGHCヘビー級選手権試合・秋山準戦では、お互いに213発にも及ぶ張り手合戦を繰り広げた。
鈴木のドロップキックは、しっかり足を揃えてキックするので形が綺麗。プロレス再復帰戦となった成瀬昌由戦でこの技を綺麗に決め、観客のどよめきを誘った。
カール・ゴッチが使用していた、相手の股をクラッチしてのパイルドライバー。元々の「ゴッチ式」は、通常のパイルドライバーの体勢で股をクラッチするように持ち替えて落とすものだが、鈴木の場合は最初から股をクラッチしたまま持ち上げて落としている。
2004年、佐々木健介とのIWGP戦のために開発した秘密兵器。相手の腕を交差した状態でのパイルドライバー。太陽ケアとの三冠王座戦でも使用した。
後ろから相手の首をねちっこく締め上げる。基本的にこの時のみのるは舌を出し、相手や観客を挑発する表情をしながら絞めていることが多い。格下相手にはこれで失神を奪い勝利を決める。
その名の通り、スリーパーホールドの状態から後方へクルっと首を絞めながら払い腰の要領でマットに叩きつけるコンパクトながらも危険な投げ技。投げた後、そのままスリーパーホールドをかけ続けてギブアップを奪う場合が多い。たまに、投げた後フォールにいくこともある。
新日本系レスラーが多用するお馴染みの技。みのるはこの技をセカンドロープ上やトップコーナーなど、様々な場所で繰り出す。例によって相手を締め上げている間は良く舌を出している事が多い。
パートナーは高山善廣。5度目の防衛戦は高山が脳梗塞からの復帰のめどがたたず、王座を返上しなければならない危機となっていたが、高山がパートナーの座を佐々木健介に譲り、これを新日本プロレス側が認めたため、返上はなく(実際には高山&鈴木組が一旦返上→鈴木&健介組が暫定王者…という扱いだった、という説もある)、防衛戦が行うことができた。自らがフォールを取られて王座から陥落したが、棚橋・中邑組とのこのIWGP戦はかなり激戦になり、試合後鈴木は「新日本でも骨のあるやつがいるじゃないか」と語った。

 

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