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[ 1183] 二葉あき子 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%91%89%E3%81%82%E3%81%8D%E5%AD%90

広島駅のすぐ北側、広島県広島市大須賀町二葉(現在の東区二葉の里)出身で、芸名は二葉の里で安芸の国と地元からとる。本名は加藤芳江。
広島県立広島高等女学校(現在の広島皆実高等学校)を経て、昭和10年(1935年)、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)師範科卒業。音楽学校在籍中、東京音楽学校の奏楽堂で同校期待の増永丈夫の美しいバリトンを聴いて感銘を受ける。その増永丈夫はすでに藤山一郎として流行歌手として名をなしていた。
レコードデビューは、在学中にコロムビアで吹込んだ教育レコード。卒業後、地元の広島の三次高女(現在の広島県立三次高等学校) で教鞭をとる。教師時代も上京して学校用教材のレコードを吹込んだ。
昭和11年(1936年)、春コロムビアの専属となる。「愛の揺り籃」が最初のレコードだった。「あの夢この夢」「月に踊る」、「乙女十九」などで世に知られ昭和14年、松竹映画『春雷』の主題歌「古き花園」が大ヒットすると人気歌手としての声価を得る。この曲でブルースを歌う自信をつけ、以後多くのブルースをヒットさせるようになった。戦時中は歌手として慰問活動をする。
1945年8月6日、久しぶりに帰郷する為、広島から芸備線の汽車に乗り、トンネルをくぐっているときに原子爆弾が投下され、トンネルを出たら、きのこ雲と落下傘を見たという。
戦後になると、「別れても」「夜のプラットホーム」「恋の曼珠沙華」「さよならルンバ」「村の一本橋」など多くのヒット曲を放った。昭和25年の「水色のワルツ」は、綺麗なメロディーに二葉あき子の歌唱が合い、人々に潤いをあたえた。
昭和30年(1955年)前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。その後、作曲家の服部良一に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。自ら低音発声法を作った。NHK紅白歌合戦には昭和26年の第1回から10回連続出場。昭和30年(第6回)には代表曲の一つである「バラのルムバ」で紅組トリを務めるなど、渡辺はま子・淡谷のり子・松島詩子・笠置シヅ子と並ぶ創世記の紅白を代表する女性スターでもあった。
懐メロ歌手として21世紀を超えてもなお活躍したが、老人性難聴のため2003年夏にファンのつどいにて引退宣言(2002年、第1回放送から常連として出演を続けていた大晦日の「年忘れにっぽんの歌」で代表作「さよならルンバ」を披露したが、その際に難聴が進行した影響でバンドの演奏の音が聞き取りづらくなっており、全編音程・リズムが外れた状態という往年の実力派歌手としての彼女の姿を知る者にはあまりにも衝撃的なステージとなってしまったことが、「生涯現役」を標榜し続けたにもかかわらず引退を余儀なくされた最大の理由であったとも伝えられる)。現在は広島に帰郷して余生を送っている。淡谷のり子、藤山一郎、霧島昇ら戦前・戦中・戦後を代表する大物歌手の殆どが鬼籍に入る中、二葉あき子はこうした大物歌手の数少ない生き残りと言ってよい。
この「二葉あき子」は、歌手に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。

 

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