文雄とは?/ ディック
[ 977] 早坂文雄 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%9D%82%E6%96%87%E9%9B%84
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1914年(大正3年)、宮城県仙台市に生れる。祖父の代までは裕福な家柄だったというが、父の代には没落していた。幼時、札幌に移住する。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も北海中学時代には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った。 だが音楽への情熱は冷めやらず、ピアノを買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた。この頃に伊福部昭、三浦淳史と知り合い、互いに意気投合する。早坂はピアノ、伊福部はヴァイオリンを弾き、伊福部が同好の大学生と組織した弦楽四重奏団と伊福部の兄の弾くコントラバスを加えてピアノ六重奏団を結成した。1934年(昭和9年)、「新音楽連盟」を創立し、第1回国際現代音楽祭を札幌で開く。曲目はすべて日本初演となる西欧現代作品で埋め、早坂はサティの《3つのグノシエンヌ》、《気取り屋の気むずかし屋の3つの特異的ワルツ》などを演奏した。この頃の作品はラテン的な影響の中に日本的なニュアンスの確立を目指したものである。ピアノ曲《激越なる小品》(1934)、《サティ讃歌》(1934)、ピアニストのジョージ・コープランドに捧げた《君子の庵》(1934)、《エヴォカシオン》(1935)などがあるが、これらはのちに習作として作品リストから除外している。 1935年(昭和10年)、札幌のカトリック教会でオルガニストを務め、ラテン語、神学を学ぶ機会を得、グレゴリオ聖歌の研究を始める。一時神父になろうとさえ思った。この間に作曲した《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協会「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、1936年(昭和11年)1月に放送初演される。同月上京し、清瀬保二、菅原明朗、江文也らに会う。3月には日本現代作曲家連盟に入会し、この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく。また光星商業学校で音楽、美術、英語を教えるようになる。独学の中で苦労も多かった早坂だったが、同年チェレプニンが札幌を訪れた際に多くの助言を得て、大きな啓示を受ける。 終戦後、一時札幌に住んだが、1946年(昭和21年)に東京へ戻り、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現代音楽協会」の作曲部推薦委員に就任する。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った。 戦後は新作曲派協会において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映画音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協会第1回作品発表会においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて会う。 1953年(昭和28年)、以前より次第に悪化していた病勢により、一時危篤状態に陥るが、奇跡的に回復を果たす。同年秋、新作曲派協会、日本現代作曲家協会を脱会、また蔵書を売るなど身辺整理を始める。翌年、『音楽芸術』誌上で三浦淳史と『早坂文雄と汎東洋主義(パンエイシヤニズム)音楽論』と題して対談し、自作を語る。 早坂はピアノ曲、管弦楽曲、室内楽曲、映画音楽の分野で作品を残している。特にピアノ曲は全創作期に渡っている。また映画音楽の分野では「羅生門」「七人の侍」他の黒澤明作品、「雨月物語」などの溝口健二作品など数多くの作品の音楽を手掛け、その功績は計り知れない。 早坂は「汎東洋主義」を唱え、日本的・東洋的な美学を、作品に生かそうと試みた。武満徹、黛敏郎、芥川也寸志、佐藤慶次郎、佐藤勝といった後の世代の作曲家にも、彼の影響は大きい。 早坂の音楽が語られるとき、それは形而上学的、美学的、典雅、絢爛といった言葉で語られることが多い。しかし、このような言辞でのみ語りうるのが彼の音楽というわけではない。抽象化の思考のプロセスの中で変換されていった、彼に内在の「概念」が指し示すものが何であるかを見極めることが、より重要となるだろう。次第に抽象化されていった彼の思考の生み出す音響をどのように捉え、解釈するのかが、早坂文雄の音楽を語るに際して必要なことであるといえよう。 |
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