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伊達とは?/ ディック

[ 1620] 伊達政宗 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。第16代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼名は梵天丸、字は藤次郎、諡号は貞山。神号は武振彦命で、青葉神社に祭られる。
幼少時に患った疱瘡(天然痘)の後遺症により右目を失明し、また派手で知られていた。諱の「政宗」は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかったもので、この大膳大夫政宗と区別するべく藤次郎政宗と呼ぶことも多い。
徳川家康や豊臣秀吉たちに「右目はどうしたのか?」と聞かれたとき、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語っている[3]。また、片倉景綱たちに右目を切断させたという逸話もある。
若い頃母親から毒を盛られたという逸話がある。それは眼に異常の無い弟を当主に立てるには伊達政宗の存在自身が邪魔だったからといわれる。政宗は後に「母に罪はない」と母を弁護したと伝わっており、近年の研究では創作説も出ている。元亀3年(1572年)、政宗の将来を心配した父・輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。天正3年(1575年)、神職の子である片倉景綱が守り役を命ぜられ側近となる。景綱は政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。
独眼竜伊達政宗、高橋紫燕・著,久保天随・校、大阪:鍾美堂,明34(1901)9月刊行が出典。本の名前である。なお、本文中で奥羽の覇王という用語も使用されている。太閤記では、奥州の太守となっている。独眼竜伊達政宗、奥羽の覇王、いずれも、伊達政宗存命中の呼称ではなく、後世の命名である。なお、それに先駆けて、独眼竜とは、大日本帝国の第一師団長・陸軍・中将・山地元治・君を指す、出典は、支那征討英傑伝、堀本柵・著、東京:東雲堂,明27(1894)11月刊行。独眼竜政宗は、1987年のNHK大河ドラマから由来する。上記著書は、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで原文の詳細を読むことができる。
天正12年(1584年)に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承する。輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、年少を理由に辞退を申し出たが、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意は固く、家督を相続することとなった。
二本松城主の畠山義継を撃破し、侵略しようとしたが、輝宗の取りなしにより5ヶ村を畠山領として安堵することになった。天正13年(1585年)に父の輝宗が、所領安堵の件などの礼に来ていた畠山義継に拉致される。輝宗は城門まで見送りに行った所拉致されたという。政宗は事件の時、狩りに出かけていたが急遽戻り、畠山一行を追跡、畠山義継一行を父・輝宗もろとも鉄砲を放って一人も残さず殺害したという。この事件は、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたとの説や追跡してきた政宗の軍勢がすでに鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったとする説など諸説あるが、その真相は、畠山一行を皆殺しにするため伊達側が鉄砲で武装し畠山勢を待ち伏せしていた、ということのようである。よって、政宗の父親殺しの陰謀説は、信憑性が低い。また、寝返った大内定綱討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清(小手森城の撫で切り)を行うなど、非道な一面も持っている。「撫で切り」は主だった豪族が殆ど親戚・縁戚同士という奥州ではセンセーショナルであり、近隣領主を恐怖に陥れた。これには、近隣領主への見せしめ的な要素も多分にあった。しかし、一方で政宗は後年その大内定綱を家臣の列に加えている。
その後、初七日法要を済ますと父・輝宗の弔い合戦のため早くも畠山氏の二本松城を包囲し、畠山氏救出のため集結した、佐竹氏・蘆名氏など三万の反伊達連合軍と安達郡人取橋で死闘を演じた。数の上で五分の一以下の戦力であった伊達軍は重臣・鬼庭良直を討たれ窮地に立つものの辛くも持ち堪え、反伊達連合軍の撤退により政宗は勝利をおさめた(人取橋の戦い)。
政宗は更なる侵攻を行い、天正16年(1588年)に郡山合戦にて相手国の領土を奪う。正妻愛姫の実家田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで支配下におく。
関白豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、私戦禁止命令を発令した。しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行した。
同年、北方の大崎氏家中の内紛に介入、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、及び味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北。これに乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻。又、最上義光とも一触即発の事態となるが義姫の仲介により和議が成立し窮地を脱した(大崎合戦)。
天正17年(1589年)には奥州南部の覇権を賭けて会津の蘆名義広・佐竹氏の連合軍と戦う。この戦いを摺上原の戦い(磐梯山麓・猪苗代町付近)という。蘆名氏はすでに関白、秀吉傘下の大名となっており、政宗が蘆名氏と戦うことは秀吉への挑戦を意味していた。蘆名義広は1万5千の兵を率い、政宗もほぼ互角の1万4千を率いて磐梯山の中腹に陣を敷いた。この戦いで伊達軍は騎馬武者300騎、兵2千余りを討ち取ったという。黒川城を陥落させ蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配した。さらに兵を須賀川へ進め二階堂氏を滅ぼして奥州南部の大部分を支配下に置き、150万石の領主になった。
この時点で現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し全国的にも屈指の領国規模を築いた。伊達氏の本拠地は伝統的に伊達郡と信夫郡(いずれも福島盆地)、長井郡(後の置賜郡、現在の米沢盆地)であったが、この勝利によって政宗は本拠地を会津に移そうとした。
この頃中央では豊臣秀吉が織田信長の統一事業を継承しており、天正18年(1590年)の秀吉の奥州仕置では政宗は小田原へ参陣した。それ以前にも秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられていたが、政宗はこれを黙殺していた。今回の秀吉の攻撃対象である、後北条氏とも度々書状を取り交わして好を通じていたこともあり、小田原参陣すべきか、直前まで迷っていたという。結局、秀吉の兵動員数に圧倒された政宗は臣従を誓い、本領を安堵される(ただし、会津領攻略は秀吉の令に反した行為であるとされ、会津領などは没収され、72万石になった。)。記録ではこのとき小田原攻めに遅参したという理由で秀吉が政宗に切腹を命じようとし事実上監禁したが、政宗は千利休の茶の指導を受けたいと、詰問に来た前田利家らに申し出、更に政宗は全軍に白装束を着せ、街を練り歩き、秀吉への忠誠を誓ったように見せたという。これらの行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。参陣前には自身の身を転覆させようとしている母親を止めるため弟の伊達小次郎を斬殺した。母・義姫(保春院)はその後も伊達家にとどまったが、四年後に実家の兄・最上義光のいる山形城へ突如出奔した(詳細は義姫参照)。[4]
翌天正19年(1591年)には蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定するが、政宗自身が葛西大崎一揆を策略していた嫌疑をかけられる。これは蒲生氏郷が「政宗が書いた」とされる一揆勢宛の書状を入手した事に端を発する。また、京都では政宗から京都に人質として差出した夫人は偽者であるとか、一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届いていた。そこで政宗は上洛。一揆扇動の書状は偽物である旨秀吉に弁明し許されるが、米沢城から玉造郡岩手沢城に58万石に減らされての転封となり、城名を岩出山城に変えた。文禄2年(1592年)秀吉の朝鮮出兵にも従軍して朝鮮半島へ渡る。また、普請事業なども行う。豊臣政権では五大老である徳川家康に接近し、慶長4年(1599年)には長女・五郎八姫を家康の6男松平忠輝と婚約させる。
朝鮮出兵時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は大変に華美なもので、上洛の道中において盛んに巷間の噂となった。三千人もしくは千五百人の軍勢であったとの記録がある。他の軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった[5]、と伝えられる。これは、派手好みの秀吉が気に入るような戦装束を自分の部隊に着させることで本陣に近い配置を狙い、損害を受けやすい最前線への配置を避けるよう計算したものと言われる。
豊臣秀吉死後の慶長5年(1600年)に家康が会津上杉景勝に謀反容疑をかけ、上杉討伐を行うと従軍して、7月25日に上杉の支城で登坂式部勝乃が守る白石城を陥落させた。家康の留守中に五奉行の石田三成らが家康に対して毛利輝元を総大将として挙兵し、小山まで北上していた家康は西へ向かった。この際、家康は政宗に、戦勝の暁には現在の所領58万石に加え、新たに49万石の領土を与えるという内容の書状(「百万石のお墨付き」仙台市博物館・蔵)を送っている。これは、家康が上杉景勝を会津に釘付けにしておくため、政宗の東軍参加が是非とも必要であったことから、100万石のお墨付きを与え、東軍参加を促したとされる。
同年9月、関ヶ原の戦いになると、家康ら東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が最上氏居城山形城を攻撃すると、伊達政景を名代として最上に援軍を派遣した(長谷堂城の戦い)[6]。9月25日には茂庭綱元に命じて、上杉領の湯原城を攻略させた。
政宗は長谷堂城の戦い後、直江兼続が米沢に帰ったのを見て取ると、仙道方面への侵略を開始、10月6日宮代で本庄繁長の上杉軍を破った。伊達軍は更に福島城を囲んだが、城の防御は堅く、翌日には撤退した(宮代表合戦、上杉家俗称松川の戦い)。
戦後、政宗が密かに白石宗直に支援させて、南部氏領国で和賀忠親に一揆を煽動させていた策略が発覚した(一揆軍は翌慶長6年4月に敗北)。この「和賀一件」を重く見た家康は、事件追及の構えを見せ、49万石加増、すなわち計100万石の約束手形を反故にした。結果的に政宗への恩賞は、仙台開府の許可と陸奥国刈田郡(白石)合わせて2万石の加増のみにとどまり、領地は60万石となった(後に近江と常陸に小領土の飛び地2万石の加増で62万石となる)。
豊臣秀吉の天下平定以降も、ノビスパンとの交易路の開拓など領国拡大と天下獲りに挑戦しつづける姿勢を崩さない政宗は、関ヶ原の合戦以降も徳川家康から東北最強の外様大名として徹底して警戒心を持たれたが、江戸の天下普請や、江戸への米の供給を支えるなどの功績により、家康の末期には、幕府の後事を託されるまでになった。
慶長6年(1601年)には仙台城、城下町・仙台の建設をはじめ、居城を移す。慶長19年(1614年)の大坂の役では、片倉重長が後藤基次らを討ち取り、真田信繁(幸村)の攻勢を受けて立つなど大きな功があった。 仙台城は山城で天然の地形を利用した防御であるものの、仙台城下の城下町は全面的な開発であるため、のべ百万人を動員した大工事となった。藩内の統治には48ヶ所の館を置き家臣を配置した。また、家臣の支倉常長らの慶長遣欧使節団をヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)からエスパーニャ、ローマにまで派遣して海外貿易を試みているが、いずれも成果は実らなかった。
世情が落ち着いてからは、もっぱら領国の開発に力を入れ、後に貞山堀と呼ばれる運河を整備した。北上川水系の流域を整理し開拓、現代まで続く穀倉地帯とした。この結果、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保した。文化的には上方の文化を積極的に導入し、技師・大工らの招聘を行い、桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出し、大崎八幡宮や瑞巌寺などの建造物を残した。さらに近江在住の技師・川村孫兵衛重吉を招き、北上川の河口に石巻港を設けた。これにより北上川流域水運を通じ石巻港から江戸へ東回り航路で米を移出する体制が整う(江戸時代の多くの期間において、江戸で流通する米の半分は仙台藩石巻港からの廻米であった)。
2代将軍徳川秀忠、3代徳川家光の頃まで仕え、寛永13年(1636年)5月江戸で死亡。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
父輝宗は伊達家中興の祖と呼ばれる第9代政宗にあやかって、息子に政宗と名づけたという。[7]本人もそのことを誇りにしていたようで、実際政宗はその先祖にまつわるところへの埋葬を望み結果的にそこへ埋葬された。
当時の武士の例にもれず衆道の嗜みもあり、只野作十郎(只野伊賀勝吉)という寵童への書状が残されている。ちなみに作十郎と勝女姫(側室)は実の姉弟(多田吉広の子)である。
また、同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子重綱に対しても、大坂の陣出陣の前夜、翌日の先陣を願った重綱に、「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言って重綱の頬に接吻した、との記述が『片倉代々記』に残っている。
政宗は正室・愛姫との間にもうけた嫡出の次男忠宗を後継者とし、側室飯坂氏(通称・猫御前[11])との間に生まれた長男・秀宗はあくまで庶子とみなし、また豊臣家との関係もあったため本家を継がせなかった[12]。
摺上原の戦いの後、政宗が黒川城に入城する際、戦勝を祝って一族の伊達重宗が即興で「音もせで 茅野(かやの)の夜の時雨来て 袖にさんさとぬれかからぬらん」と歌った。これが後に結婚式などのおめでたい席で歌われることがある東北民謡「さんさ時雨」の元歌になったと言われる。福島県北部と宮城県では、現在でも結婚披露宴等の祝いの席ではさんさ時雨が歌われるが、一方、福島県会津地方ではさんさ時雨を歌うとひんしゅくを買うことがある。
大崎一揆煽動の疑惑で豊臣秀吉に呼び出され、証拠の文書を突きつけられた際証拠文書の鶺鴒の花押に針の穴がない事を理由に言い逃れを行い、それまで送られた他の文書との比較で証拠文書のみに穴がなかったため、やり過ごす事が出来た。実際には二種類の花押を使い分けていた可能性が高く、秀吉も疑ったらしいのだが確証が得られなかった。[13]但し、現存する政宗の書状の中に花押に穴の開いたものはない。
政宗は朝鮮出兵に同行していない説がある。隠居所である若林城(現宮城刑務所)に朝鮮から持ち帰らせたといわれる「臥龍梅」が残っている。
母の義姫には、毒殺されかけたり大変な思いをしているが、母義姫の実家で逃亡先である最上家が近江大森に改易となってからは母と和解し、仙台に母を引き取っている。なお、義姫が最上家に戻ったのは毒殺事件の数年後とされる史料もあり、事件の真偽ははっきりしていない。
政宗は家康に従って後の天下取りの機会をうかがうことを優先し、旧領である上杉領を侵略し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙った。しかし、関ヶ原の戦いが予想以上に短期間で終結したためにその試みは頓挫した。
最上氏の居城である山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙い、漁夫の利を奪うよう進言したが政宗は母親の安全を理由にこれを却下し援軍を出したと言われるが定かではない。しかし、援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していた。上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたと言われる。
大坂夏の陣後には天下安泰を願う家康に心服し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望をあきらめざるをえず、領国経営に努めたようだが、この説は、後述の史料(政宗の野望説)などから否定されることも多い。
政宗は、大坂夏の陣の際に豊臣家滅亡の責任を家康や将軍家に取らせて切腹させ、婿の松平忠輝を将軍職に就ける構想も描いたともいわれる。
大坂夏の陣の際に、5月7日船場口で伊達勢の前方に展開していた神保相茂隊が明石全登隊の奇襲を受けて全滅したが、政宗による味方討ちではとの風聞が立った。政宗は、神保隊が明石全登隊によって総崩れになったため、これに自軍が巻き込まれるのを防ぐため仕方なく処分したと主張した。この事件は、幕府が最終的に伊達家の見解を追認して決着したが、事件直後から様々な興味と憶測を生んだ(詳細は神保相茂の項を参照)。
砂金常房(砂金貞常の嫡男)は大坂の役で、軍令違反を起したが咎められず逆に一族に列したことなどから落胤ではないかとの説もある。
下の世代の徳川家光からは非常に尊敬されていた。政宗本人の器量に加え、自らを将軍として立ててくれた後見人であり、また敬神する祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあって、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう[14]。幕府の意向はどうあれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様に遇する程度を超えている。
将軍の前での脇差帯刀を許されていた。側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると中身は木刀であったという[15]。
政宗が病床についた際は、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせ、死の3日前には家光自らが見舞いにきた。政宗が亡くなると、父・秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、江戸で7日、京都で3日の間殺生や遊興が禁止された。
第3代将軍・徳川家光が鷹狩に没頭し、下宿を頻繁に行うのに困った家臣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光に言い放つと、以後下宿を行わなくなったという。
黒脛巾組という忍者集団を創設し、伊達家の諜報活動・特殊工作を行なわせて敵を攪乱したり、情報収集を行なったりしている。
実戦経験がない将軍家光はしばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をした。ある日、政宗と佐竹義宣を招いて摺上原の戦いについて色々質問したが、勝者であった政宗が雄弁であったのに対し、佐竹義宣は始終無言で、唇を噛みしめているだけであったという。
遺品にロザリオがあったことなどから、政宗は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと伝わっている。政宗の長女の五郎八姫はキリシタンだった。
料理が趣味[16]。元々は兵糧開発のために行っていたのだが、戦国が終わり太平の世になると美食を極めるために料理の研究をしていた。政宗は、料理について「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」と言う名言を命期集に残している。仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響と思われる。また仙台城下では味噌倉を建てていたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初といわれているという。
岩出山名物の凍り豆腐と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものであるが、元々は兵糧用だった。仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説がある。
隙のない印象の政宗であるが、酒にだけは滅法弱く、酔って失敗した逸話がいくつか残されている。中には将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかし、仮病を使って言い抜けたという話まである。
映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーのマスクは仙台市博物館所蔵の「黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用」の兜をモチーフにデザインされた[18]。
大悲願寺13世海譽の元で弟子として在山していた弟・秀雄のもとを政宗が訪れ四方山話をし庭にあった白萩を気に入り所望し[19]貰い受け、臥龍梅を大悲願寺に贈った。
米沢城から岩出山城に移封される時、最上家に隣接するところに領地を有していた舟山政義という側近の領民がそのまま移住したという話がある。政宗の政治は人気があったのがうかがえる。
明治天皇は政宗の事を「政宗は、武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いをはせて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである」と評している。[20]
秀吉の小田原征伐のとき、参陣に遅延したのは、奥州、特に新たに手に入れた芦名家領土の「経略多端」の故と弁明している。佐竹氏一派との対抗上で同盟関係にあった後北条氏と手を結んで秀吉と対抗しようと日和見した見方も出来るが、秀吉はこれを貸しとして容認し、伊達氏を従えて奥州仕置を行なった。また、伊達家を中心に奥州の諸大名の連合軍を組織し後北条氏と連携、徳川家康ら豊臣家中の不穏分子の蜂起を待つという構想も持っていたようだ。
この火事場泥棒的に領地を獲得しようとした政宗の行為に、家康は大変心象を悪くしたため、刈田郡のみの加増にとどめたという。これは東軍参加の武将の中では加増の伸び率が最も少ない部類であり、上杉景勝を牽制するという、どちらかといえば地味な働きだったことを差し引いても懲罰にも等しい微増であった。
政宗の関ヶ原直前の所領58万石は度量衡改定以前の一反三百六十歩で計算されたものという説があり、これが正しいとすると豊臣政権において定められた一反三百歩で計算した場合、67万石にまで上昇する。また仙台平野には開墾に適した三角州などの土地が多数存在し、当初から土地には余裕があった。政宗は関ヶ原以降、開拓地を知行として与える方式を取りら各領主に開墾を奨励、仙台平野の新田開発を推し進めた(1628年には、白石城主片倉重長が新田開発を行い千石相当の石高を新たに獲得している)。この政宗に始まる開墾事業は後の藩主たちにも受け継がれ、仙台藩の実高はみるみる増大した。寛文年間以降は藩自らが主動した新田開発も行われた。100年後の江戸時代中期には実高200万石とも謳われる日本最大級の藩に成長した。[21]政宗が江戸に廻送を始めて以降、江戸に供給される米の大半は仙台の米となり、作の豊凶は江戸の米相場を支配するほどであった。最盛期には表高の1/3にあたる二十万石もの米が江戸に出荷されていた。1732年(享保17年)には、西国の蝗害により江戸で米価の暴騰が起こり、例年の倍以上の米が出荷されたとある。なお、このときの収益は約五十万両にものぼったという。この豊かさは広く知られており、安井息軒の『読書余滴』に「二百万石余」、帆足万里の『東潜夫論』には「二百五十万石」との記述がある。[22]
政宗は幕府転覆を図るために、支倉常長を使者としてローマに派遣した(慶長遣欧使節)。このときのことを示す有力な史料もある。支倉常長はローマとの軍事同盟交渉のとき、国王・フェリペ3世に対して、「政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。けだし日本においては、継承の権は一に武力によりて得るものなり」と発言している。また、仙台藩の庇護を受けていた宣教師のジェロニモ・デ・アンジェリスも、次のような手紙を本国に送っている。
「テンカドノ(家康)は政宗がスペイン国王に遣わした使節のことを知っており、政宗はテンカに対して謀反を起こす気であると考えていた。彼ら(家康・秀忠父子)は政宗がテンカに対して謀反を起こすため、スペイン国王およびキリシタンと手を結ぶ目的で大使(支倉常長)を派遣したと考えた」
支倉常長はローマ教皇にも謁見した。この時代の日本人がローマ教皇に謁見した史実は、日本の外交史の中で特筆される実績であり、今でもスペインには現地に留まった日本人キリスト教徒の末裔だとする人々が存在する。彼らの多くは日本をあらわす「ハポン」を姓として名乗るという。
また、政宗は幕府軍と天下を賭けて戦うことになった場合には、「仙台御陣の御触に付御内試」という、幕府軍との決戦に備えた図上演習、すなわち作戦立案をしていたと言われている。
「元和二年大坂御陣落去以後。仙台出馬之由にて御陣触御座候。此時貞山(政宗)様御内試に。御家中の妻子人しち御取なされ。さて仙台川を藤塚閑上辺にてせき留藤塚へ番勢を被指置。御裏林より砂押へ御馬を被出。砂押御鉄砲薬蔵の南の山。にか峯に御旗を被立。御対陣可被成との御内試にて。其節ひしと御裏林よりかの地へ。御出御見分被遊候」(仙台川(現在の名取川)を堰き止めて仙台南部を水浸しにして幕府軍の進軍を阻止し、さらに狭隘地に幕府軍を誘い込んで迎撃する一方で、一揆衆を幕府軍後方で扇動し、後方を撹乱するつもりだった)。
「大軍を御引受。御境目之御一戦。万一御おくれの刻。右に書付御内試之通。横川筋へ御馬を被入候節。御定かかりの地と申候。自然御運命尽夫も不被為叶時節に候はば。御最期之場と思召にて、瑞巌寺御菩提所に御取立被成候よし」(政宗は幕府軍に敗れた場合は、松島瑞巌寺にて自害するつもりだった)。(『東奥老子夜話』より抜粋)。
しかし、政宗の後援者であった大久保長安の死去や娘婿の松平忠輝の改易、スペインとの同盟不調などもあって、これらは実現されることは遂に無かった。
幕府は政宗存命中は、政宗がいつ謀叛を起こすかと常に警戒していたといわれている。家康晩年の元和2年(1616年)1月23日のイギリス商館長・リチャード・コックスの日記では、「風評によれば、戦争は今や皇帝(家康)とその子カルサ様(松平上総介忠輝)との間で起こらんとし、義父政宗殿は、カルサ殿の後援をなすべし云々」と記されている。
寛永5年(1628年)3月12日、政宗は徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応した。このとき、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだのだが、そのとき秀忠側近の内藤正重が、「伊達殿に鬼見(毒見)をしてほしい」と声をかけた。政宗はこれに対して、「外記(正重)言はれぬ事を被申候。政宗程の者が御成を申自身御膳を上るうへ。おにする(毒見する)所にてはなきぞ御膳に毒を入るるは、早十年前の事なり十年前にも。日本の神かけて毒などにて。殺し奉るべきとは夢々思はぬぞ。一度は乗寄てこそとは思ひ候」と激怒して返答したと、『政宗公御名語集』に記されている。つまり、10年前の元和4年(1618年)なら、(徳川幕府の基盤がまだ磐石ではなかったため)謀反を起こす気もあったが、その時でさえ、この政宗は毒殺などというせせこましいことはせず、一槍交えて戦おうとしただろうと正重を厳しく叱責しているのである。秀忠は御簾の向こうでこのやりとりを聞き、「さすがは伊達の親父殿よ」と涙したという。
「年月より病気次第に心重く覚候。兎角して快気難成覚候間。少も本心の有内に。其方へ掛御目度事は昔より今日至迄。御心指一ツとしてわするる事なし。大御所(家康)様駿河の御殿にて御病気重き折節悪き者の申入候にて、己に其方謀反のよし其聞へ候間。我等も御病気にもかまはず奥州へと心掛候」(家康が駿府城で死の床に臥していたとき、政宗が謀反を起こすという噂が立ったので、家康は自分の病気にかまわず奥州征伐のための軍を起こそうとしていた)。
家光が「生まれながらの将軍」を自称したのは政宗の擦り込みだったとも言われている。政宗は軍略、野望ともに最も危険視されていた外様の代表格であるから、それを逆手にとり自ら大名筆頭として頭を下げる事で、幕府に対し有無を言わせない立場を確立した訳である。幕府、家光に対しては恩を売れるし、またその他大名家に対しても伊達の強さを印象づける形になり、どう転んでも損のない大胆な戦略という事になる。
晩年の政宗は、『酔余口号』という漢詩を残している。「馬上少年過(馬上少年過ぐ)、世平白髪多(世平らかにして白髪多し)、残躯天所赦(残躯天の赦す所)、不楽是如何。」というものだが、最後の句を「楽しまずんば是いかん」と読むか「楽しまず是如何に」と読むかで全く解釈が違ってしまう。政宗自身がどちらともとれるように作ったとも言われ、この辺は永遠の謎となっている。
仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後、平城へ移ることを奨めていた。逆に言えば生前は死の前まで天下を取る野心を捨てていなかったといわれる。
上述のように隙あらば天下を取ろうと狙っていた彼は、中央から常に警戒されていた。彼は「あと20年早く生まれていれば……(天下が取れたのに)」と悔しがっていたといわれる。
『ハンニバル・ライジング』(2007年トマス・ハリス作の同名小説の映画化。主人公ハンニバル・レクターの伯母、レディ・ムラサキは伊達政宗の子孫ということになっている。)
一、仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐれば諂(へつらい)となる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
一、気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。
^ 義姫が懐妊前に白髪の老僧の瑞夢を見たと言う伝説や、政宗は万海上人の生まれ変わりであるという伝説が政宗存命中より語られていた。
^ ただし義姫に関しては、最上家が改易され、伊達家が大藩として残ったという事情も手伝ってか、江戸期以降貶めるような創作説話が多いため、この偏愛も史実かどうかは疑問を差し挟む余地がある。詳しくは義姫を参照。
^ ただしこの事件のあとも母子は親しく手紙のやりとりをしていることや、義姫が最上家に戻ったのは事件のさらに数年後とする史料が新たに発見された。この事件は小次郎擁立派一掃のための政宗自作自演説もある(海音寺潮五郎『武将列伝・五』)。
^ 伊達男とは政宗がかなりの男前だったことから苗字を取って伊達男となった、と思われることが多いが、伊達政宗の数百年前から「男立て」(おとこだて。男らしくあるいは勇敢に振舞う、という意味だが、徐々に男らしさを演出する傾向が強くなっていく)という言葉があり、それが略されて「だて」となり、やがて「伊達」と結び付けられていった。
^ 一説によると重臣であり軍師格である片倉景綱(小十郎)は上杉・最上両軍が戦い、山形城が落城し、上杉勢が疲弊しきったところを討つべしと進言したが、母・義姫がいる山形城を見捨てるに忍びないと、政宗はこの策を受け入れなかったという。
^ 伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきた。しかし、政宗の元服は足利義昭が織田信長によって追放された後であった為、一字拝領は無かった。
^ 正室・愛姫が産んだ嫡出子は夭折した子も含めて記録に残っているが、側室が産んだ庶子は成人した子しか記録に残っていない可能性も考えられる。また側室も政宗との間に子供をもうけた女性だけが正式に記録され、実際には他にも関係を持った女性がいた可能性もある。
^ 大崎一揆煽動の疑惑をかけられた際には、白の死装束に金箔を塗った磔柱(十字架)を背負った姿で秀吉の前に出頭したとも言われている。
^ 似たような話が平家物語に登場している。清盛の父忠盛は、闇討ちを警戒して常に刀を帯びていたが、そのことで貴族の讒言を受けた。上皇に問い質された忠盛が「お調べください」といって刀を差し出すと、それは木刀に銀箔を張ったものだった。上皇は「身を守るための帯剣であれ、後日の訴えを考えて木刀を用意したことは見事。これこそ武人に相応しい振る舞いである」としてかえって忠盛を賞賛したという。(『殿上闇討』)
^ 「追って曽掛に候へ共、折節に任せ、小袖壱重ね進め候。以上。態飛脚を以って申し入れ候。先度は参り、会面を遂げ本望に候。仍無心の申す事候へども、御庭の白萩一段見事に候き、所望致し候。先日は申し兼ね候て罷り過ぎ候。預候はば恭かるべく候。猶後音を期し候。 恐惶謹言 松平陸奥守 八月廿一日 花押 彼岸寺御同宿中」
^ その割に表高に変化がないのは、表高を増やすとそれに応じた軍役負担を課せられ出費の増大に繋がるからである。見栄を張って表高を増やしたための財政負担を主因として改易にまで至った松倉勝家、真田信利のような事例も存在する。
^ その数字は誇張されている可能性もあるが、隣藩である米沢藩にも上杉治憲・上杉治広時代に表高の三倍の実高50万石と称された時期があり、決してありえない数字ではない。文久3年幕府大目付調べにおいては石高62万石とされているが、この資料における石高は表高であり、実高とは一致していない。10万石格・実高5千石の喜連川藩や同じく10万石格である対馬藩も10万石として記されていることなども注意すべきである。
^ 俳優の名演により、NHK大河ドラマとしては史上最高の平均視聴率39.7%を獲得した、伊達政宗を描いた映像作品の事実上の決定版。放映当時は「政宗ブーム」を巻き起こし、仙台市には多くの観光客が訪れた。政宗を演じた渡辺謙は当時まだ無名に近い俳優だったが、本作の名演で一気にスターダムにのし上がり、いまだに渡辺以外が演じる政宗など考えられないともいわれるほどの強烈なインパクトを残した。
^ 伊達政宗直系の子孫である伊達征士が登場。時期的には第33代目当主・伊達貞宗の息子という事になる。ただし現当主の伊達泰宗や他の実在の子孫を考慮した作画がされている。

 

[ 1621] 伊達公子 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E5%85%AC%E5%AD%90

伊達は「ライジング・ショット」の名手として、世界的にも有名な選手であった。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、当時のテニス界で“ライジング・サン”(Rising Sun)と呼ばれたという。
6歳の時から、京都市北区にあるテニスクラブ「セブンスリー」でテニスを始める。滋賀県大津市に転居後、京都市山科区にある「四ノ宮テニスクラブ」でレッスンを積む。このクラブのオーナーである竹内穣治は、現デ杯監督・竹内映二の父親である。中学校時代に滋賀県テニス選手権で優勝した。中学卒業後は兵庫県尼崎市にあるテニスの名門校・園田学園高等学校で、名コーチ光国彰(みつくに・あきら)監督の指導を受けた。1988年のインターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の3冠獲得を達成する。高校卒業後の1989年にプロ転向した。
1989年 「サントリー・ジャパン・オープン」でWTAツアーにデビューし、岡本久美子との準々決勝まで進出。全仏オープンで4大大会にデビュー。予選3試合を勝ち上がり、本戦2回戦に進出。ウィンブルドンと全米オープンにも本戦出場。女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップ(当時の名称)の日本代表選手に初選出され、西ドイツ・チームとの2回戦でダブルス戦に起用された。
1991年 8月中旬の「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス」大会で準優勝。準決勝で当時世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニを破る大金星を挙げ、決勝では当時の女王モニカ・セレシュに挑戦した。全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を果たす。
1994年 1月にオーストラリアの「ニュー・サウスウェールズ・オープン」で海外初優勝。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界トップ10に躍進する。直後の全豪オープンで初の4大大会ベスト4進出を果たしたが、準決勝でグラフに 3-6, 3-6 で完敗。全米オープンで2年連続ベスト8入り。日本人選手として初めて女子テニスツアー年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」の出場権を獲得し、準決勝まで進出した。(この大会は世界ランキング16位以内の選手しか出場資格を得られない。1994年までは「バージニア・スリムズ選手権」の名称で、1995年からスポンサー変更により「チェイス選手権」の名称となった。)
グラフ選手との名勝負のほかに(通算対戦成績は1勝7敗)、スペインのコンチタ・マルチネス選手には「6勝2敗」と大きく勝ち越した。またアメリカのリンゼイ・ダベンポート選手の若き日の好敵手でもあった。
伊達の世界的な活躍は、日本の女子テニス界にも計り知れない刺激を与えた。1995年の全米オープンでは実に8人の日本人選手が本戦に直接出場するなど、伊達が活躍した時代は日本勢全体の活躍が目立った時期であった。しかし、伊達の引退後、日本の他のトップ選手たちの相次ぐ引退もあり、日本女子テニスは衰退の一途をたどってゆく。最も引退が早かったのは神尾米であったが、1998年には遠藤愛、沢松奈生子、長塚京子、雉子牟田直子も現役を引退したため、一時期は杉山愛ひとりにに頼りきりの状態が続いた。その後、伊達の後輩にあたる浅越しのぶが2004年全米オープンでベスト8進出を果たしたが、2006年に浅越と小畑沙織が現役を引退する。2006年10月末の時点で、女子世界ランキング100位以内の日本人選手は、杉山と森上亜希子、中村藍子の3人になった。そのような状況の中、2005年4月に日本人テニス選手として史上最年少のプロ転向を認められた森田あゆみが日本のテニスファンの期待を集めている。

 

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