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三郎とは?/ ディック

[ 1041] 川淵三郎 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%B7%B5%E4%B8%89%E9%83%8E

川淵 三郎(かわぶち さぶろう、1936年12月3日 - )は大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本代表監督、初代日本プロサッカーリーグ理事長(初代Jリーグチェアマン)を経て現在は第10代日本サッカー協会会長である。会長職を「キャプテン」と称する。小中学生時代は野球に打ち込むが、高校からサッカーを始めた。
氏の著書及び母校「大阪府立三国丘高等学校サッカー部史」によれば、同じ中学校で野球部に入っていた友人が、人数合わせのために先に高校のサッカー部に入っていた。それでも人数が足りず、運動神経の良かった川淵を「四国の高松で開催される西日本大会に行こう。」と誘い、「四国に旅行で行けるなんてラッキー」という気持ちで即座に入部した。
川淵はJリーグのチェアマンだった1994年、チームの呼称から企業名を外すことを決めた(当初はJリーグ発足から5年で撤廃する約束だった)。これはオーナー企業からの反発を招き、特に東京ヴェルディの前身ヴェルディ川崎のオーナーであった渡邉恒雄と川淵の対立は先鋭化することになった。企業名を入れることをあくまで主張した渡邉は1998年読売本社のヴェルディへの出資を止めた。サッカーの場合日本代表が絶対的存在として君臨しており、日本プロ野球における読売ジャイアンツ的クラブを作ろうと目論む渡邉の主張は受け入れられなかった。
なお、当時川淵は究極的な目標として「チームの呼称だけでなく、運営母体の企業名からも株主の名前を外す」ことを掲げていたが、2008年現在Jリーグの加盟チームの中には、東京ヴェルディ(株式会社日本テレビフットボールクラブ)以外にも浦和レッズ(株式会社三菱自動車フットボールクラブ)、ジェフユナイテッド千葉(株式会社東日本ジェイアール古河サッカークラブ)、柏レイソル(株式会社日立柏レイソル)、ジュビロ磐田(株式会社ヤマハフットボールクラブ)など、依然として運営母体の企業名に株主の名前が入っているチームが多数存在しており、川淵の目標は現実には完全には実現していない。
ただ、1999年には横浜F・マリノスの運営母体が「株式会社日産フットボールクラブ」から「横浜マリノス株式会社」へ、2002年に川崎フロンターレの運営母体が「富士通川崎スポーツ・マネージメント株式会社」から「株式会社川崎フロンターレ」と名称を変更するなど、徐々にではあるがチームの運営母体からも親会社名を外す動きが出てきている。
日本サッカー協会会長就任時、川淵は「会長」に代わる愛称を募集。その結果、「キャプテン」が採用された。「舵取り役といったイメージで選んだ」と理由を説明したが(船長の意)、この名称には二宮清純や広瀬道貞(テレビ朝日社長)、増島みどり(フリーライター)、竹内達朗(報知新聞記者)の4人しか応募しなかった。応募自体が「内輪」向けで、しかも応募総数はたったの50通しかなく、「茶番」「自己満足」という声も聞かれた。しかし、公式な行事や文書、ほとんどのマスコミではすべて「キャプテン」と表記するようになった。
川淵が「会長」に代わる愛称を募集したのは、会長就任後も川淵自身が親しみやすい存在、開かれた協会を目指したいという川淵の意向と、「協会の『会長』という肩書きは重く感じるから」「選手と対面した際、(肩書きが会長だと)選手が固くなってしまうから」という理由からである(これは川淵自ら語っている)。
なお、日本サッカー協会の基本規程により会長職は就任時の年齢が満70歳未満と定められているため、今回の任期が今度こそ最後になると見られている。
Jリーグチェアマン当時、Jリーグのシーズンオフに放送されたテレビの特別番組において俗に「珍プレー」と呼ばれるような選手や審判のミス等を集め、更に間抜けな効果音を付けて編集し視聴者の笑いを誘う内容があり、この放送を見た川淵は「一生懸命プレーする選手達を笑いものにするとはけしからん!」と激怒。Jリーグではこの件以降そのような番組への映像使用を許可しない方針を取った。一方でこの決断はメディアとの関係を険悪にし、Jリーグ自体の露出低下に繋がった。
1980年にサッカー日本代表チームの監督に就任。1982 FIFAワールドカップスペイン大会の予選に臨むものの、成績不振で僅か半年程度で現場から身を引く。その後は強化部長としてロサンゼルスオリンピック (1984年)への出場を目指すが、最終予選でタイ、マレーシア、イラク、カタールに4連敗して出場を逃す。この時のショックで川淵は数年間、サッカーの仕事から身を引いていた。
川淵の退任後、サッカー日本代表チームは急速に力をつけて1986 FIFAワールドカップメキシコ大会やソウルオリンピック出場まであと一歩と迫ったため、指導者としての各方面からの評価は低い。
2002年の日韓ワールドカップ後にフィリップ・トルシエが日本代表監督を退いた後、後任としてジーコを推したのは川淵であると言われている。このため、ジーコの在任中、川淵は全面的にジーコを擁護し、またジーコの方も協会が提示する契約条件、強化日程に不満をほとんど述べることはなく、まさに両者は蜜月と言うべき関係を構築していた。
ジーコを擁護する姿勢はドイツワールドカップで日本が敗戦したにも拘らず、ジーコが退任した後の監督選びの際も「ジーコ路線の継承」を主張した。
1次リーグ敗退という結果でワールドカップドイツ大会から選手達が帰国した2006年6月24日に、川淵はジェフユナイテッド市原・千葉監督(当時)イビチャ・オシムが日本代表監督の後任候補の一人として交渉中であることを示唆する発言を行った。ジェフ側は交渉の事実を否定したが、翌日になってジェフ社長淀川隆博が交渉の事実を認めた。
この時の川淵の行動は大きな物議を醸した。サポーターの中には、「W杯での清算が終わっていない中での大失言」「惨敗の責任問題に自分が巻き込まれることを恐れた川淵の計算された行動」といった様々な批判をする者もおり、彼らの川淵に対する不信感は一層深まった。しかしマスコミの関心は「ジーコ・川淵体制の総括」よりオシム新体制への移行にすっかり移ってしまい、結果的に川淵の責任問題はうやむやにされることになった。またジェフのフロント(特に祖母井秀隆GM)にも、クラブの契約下にある監督を強引に引き抜こうとした川淵や協会に対する不信が芽生えた。しかし最後はオシム自身が代表監督就任への意欲を表明し、その就任を認めざるを得なかった。しかし、協会側が希望した「間瀬秀一通訳と祖母井GMの協会招聘」にはジェフのフロントは最後まで首を縦に振らなかった。
7月21日にオシムが正式に日本代表監督に就任し騒動は終結したものの、協会がクラブとの契約を破棄させて代表監督に就任という悪しき前例を残す結果となった。また、ジーコ体制の総括・反省がほとんどされぬまま新体制への移行がされてしまったことを不満とする者たちの中には下記の解任デモに参加する者もいた。
オシム騒動の最大の被害者であるジェフ千葉のサポーターの中には特に川淵を嫌うものが多い。皮肉にも川淵はジェフ千葉の前身である古河電工の出身である。
8月9日、国立競技場で開催された国際親善試合トリニダード・トバゴ戦の後、川淵会長の解任を求めるデモ行進があり、400〜500人前後の人々が参加した。代表者の荒巻丈氏は (1) 機密の漏洩(オシム失言)、(2) ジーコジャパンの総括がないことの責任、(3) Jリーグ軽視の三点を問題視し、ネット上で参加を呼びかけた。ただ実質、この解任デモの一番の理由はドイツW杯での本大会一次リーグ敗退の責任の所在をはっきりさせるのが目的であった(ただし、ドイツW杯前に発刊されたサッカーマガジンW杯記念号では「アウェイでのベスト16を果たすことができれば快挙である」と書かれているように、戦力として識者の間ではベスト16は困難であると認識されていたのは確かである)。
しかし、一方でW杯惨敗が理由での会長辞任というのはサッカー強豪国の協会でもほとんど例が無く、尚且つサッカー協会の会長の仕事は代表の強化だけではなく普及などもあるのでとても現実的ではなかった為に「W杯の成績だけで安易に会長のクビを切って良いのか?」等の反対的な意見もあり、このデモ行進自体は世間的には懐疑的に見られていた。
川淵はJリーグ開幕時の初代チェアマンであり、創設にも大きくかかわった人物とされている。よって、川淵はマスコミへの対応など表向きの仕事を担当したのもあって世間一般には川淵がJリーグの創設者と捉えられることが多い。しかし、川淵が委員会に加わったのは途中からでその頃から既に当時の専務理事だった木之本興三を始めとした様々な人間が裏方として働いていたので現在のJリーグの基本的なフォーマットはほぼ固まっていた。その為に一部のサッカーファンの間では木之本興三こそがJリーグの創設者と言われている。 Jリーグの誕生自体は日本サッカー界全体が一つになって取り組んだ一大プロジェクトであり、川淵や木之本なども含めてサッカー業界の様々な人々の努力によってなし得たものであることは確かである。

 

[ 1042] 北島三郎 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B3%B6%E4%B8%89%E9%83%8E

永谷園のお茶づけシリーズ(お茶づけ海苔、さけ茶づけなど)のCMに出ていたことにより、ごく一部の若者の間からはお茶づけじじいと言われていることもある。
『函館の女』に始まる「女シリーズ」、『兄弟仁義』などの「任侠シリーズ」各曲など、数多くのヒット曲により、演歌の第一人者という評価を得ている。
演歌の振興や後進の育成にも貢献しており、山本譲二、小金沢昇司など、北島と同じ事務所または北島を慕う演歌歌手によって北島ファミリーが形成されている。ファミリーからは親父と呼ばれている。
出身の知内を離れ、北海道函館西高等学校に進学した。高校時代の北島三郎(大野穣少年)には、海で溺れた小学生を救助したという逸話がある(この人命救助の件は当時の函館新聞にも掲載され、その記事が函館市の北島三郎記念館に飾られている)。
18歳で高校を中退、東京の親族を頼って上京し、当初は東京声専音楽学校(後の昭和音楽芸術学院、現在は閉校)に入学。しかし歌謡曲への志向が強く、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指すようになった。流しの収入は3曲100円であったと言われる。またこの頃、妻・雅子(後に北島音楽事務所社長→副会長となる)と結婚。
歌手デビュー以前に、『ゲルピンちん太ぽん太』の“ちん太”として漫才コンビでのステージも経験した。これは歌の師匠がステージ度胸をつけるためにやらせたらしく、お客さんに受けなかったため、ギャラは一切もらえなかったという。
北島三郎という芸名は、当時の恩師であった船村徹によって命名された。北の島(北海道)から来たので姓を北島とし、また三郎はみんなが親しみやすい様にとの理由であった。
1962年に開かれた村田英雄の『王将』のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を踏み、その後の映画出演に措いても「兄弟仁義」等の東映任侠路線で多数共演した。このような縁から後年も村田英雄を先輩歌手としてよく慕った。また1962年6月、『ブンガチャ節』(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)でメジャーデビューしたが、レコード売り上げも芳しくなかった。
この『ブンガチャ節』は、いわゆる放送禁止となった曲として有名である。一般的には、歌詞の中に「キュッキュッキュー」という合の手がベッドがきしむ音を連想させ卑猥だから、という説がもっともらしく言われている。しかし、この当時はベッドも一般家庭にまだまだ普及していない頃である。したがって事実ではない。この曲の元曲は渋谷などの繁華街で流しが歌っていた春歌・猥歌であり、それを星野が歌詞を変えて売り出した。この元曲が春歌であることを知っていた放送関係者が不適切だとして見送ったのが真相である。
デビュー曲の屈辱にもめげず、2作目に出した『なみだ船』は20万枚の大ヒットとなり、大物演歌歌手への礎を築いていった。
当初の所属レコード会社は日本コロムビアであったが、1963年秋に日本クラウンが設立されると同時に、同社へ移籍。クラウンレコードの第一回新譜に、美空ひばりらと共に名を連ねた。またこの年に紅白歌合戦に初出場した(詳細は後述)。
1978年に発表された『与作』は平易な歌詞とゆったりした曲調で年齢層を超えた大ヒットとなり、ファン層を広く拡大することに貢献した。
『兄弟仁義』のヒット以降、映画、テレビドラマ、舞台公演にも積極的に進出し、任侠映画スター、時代劇スターとしても実績も重ねた。また、テレビのバラエティ番組にも積極的に出演していている。そのため、“北島ファミリー”以外でも、とんねるずの木梨憲武ら、北島を慕う芸能人が多い。
1980年代以降は作詞、作曲、演出なども手がけるようになった。こうした活動の際に用いられるペンネームの原譲二は、腹が丈夫であることが由来とされる。
1985年8月には飛行機に特設ステージを設け、機内コンサートを開催した。当時飛行機内での本格的コンサートは世界初であった。
2006年10月、満70歳を迎えたことを祝うパーティーの席上で、ファミリーの「長男」という位置づけであった山本譲二を2007年に“暖簾分け”の形で独立させることと、音楽事務所の社長を夫人の雅子から長男の龍に交代させることを発表し、周囲を驚かせた。なお北島は今後も、山本を支援し続けることに変わりは無いとも明かした。
対戦相手の歌手名のカッコ内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にあるカッコはトリ等を務めた回数を表す。
およそ1か月の期間において行われる。北島自身もシナリオ・演出に関与する時代劇ベースの人情芝居と、北島ワールド全開の歌謡ショーの(北島三郎大いに唄う)2部構成となっている。最後のまつりが流れるときの舞台は毎年違うセットである。
現在は、会場として新宿コマ劇場(東京都新宿区)、梅田芸術劇場(大阪市北区)、御園座(名古屋市中区伏見)及び博多座(福岡市博多区)が使われている。
パイロット(現パイロットコーポレーション)万年筆1960年代後半のCMで北島が歌う「まっくろけのけ」は当時流行った
2003年頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する北島の代表曲で背景映像に北島本人が出演する映像が多く採用されている。主な作品は以下の通りである。
重賞勝ち馬にはニュージーランドトロフィーを勝ったキタサンチャンネル、ファンタジーステークスを勝ったキタサンヒボタンがいる。
また地方競馬でも、楠賞全日本アラブ優駿を制したトライバルセンプーなどがいる(登録上の名義は「大野商事」。トライバルセンプーは夫人名義だが北島も実質的にオーナーに等しい)。
三女の領子は『演劇集団 円』を経て『オスカープロモーション』に所属する、女優・声優の水町レイコである。
山本譲二(2007年元旦付で北島音楽事務所から独立したが、暖簾分けの形であり現在も北島ファミリーの一員である)

 

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