ウィリアムズとは?/ ディック
[ 1063] ウィリアムズF1 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%82%BAF1
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パトリック・ヘッドの加入とともに、ウィリアムズはそれまでのテールエンダーから上位チームへと変貌を遂げる。1978年に登場させたFW06は、当時トレンドとなり始めていたグランドエフェクトカーではなくコンサバティブなデザインとしたが、多くのチームがグランドエフェクトカーの調整に苦しむ中で上位を走っていった。そして翌年に、グランドエフェクト理論をしっかり理解した上で開発されたFW07で、ウィリアムズは黄金期を迎える。運営面でもサウジアラビア航空というスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。フランクは営業活動でサウジアラビアの王室へマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたという。 1979年第9戦イギリスGPでクレイ・レガッツォーニがチーム初勝利を挙げ、FW07はシーズン後半戦の最速マシンとなった。そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズを世界チャンピオンへと導いた。 また、翌1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムのネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。 1982年は、ターボエンジン全盛時代において出力的に劣るノン・ターボエンジンの搭載を継続したが、熟成されたマシンはバランスの良さから快走。堅実にポイントを積み重ねたケケ・ロズベルグをわずか1勝で年間チャンピオンに押し上げた。このマシンは、もともとはリヤを4輪にした6輪車として設計されテストもされたが、レギュレーション変更による6輪車の禁止により、4輪に再設計した。このため結果的にホイールベースが短くなり、コーナリング性能に優れたマシンになったのがチャンピオン獲得の原動力となったといえる。 1983年終わりにはそれまでスピリットが搭載していたホンダエンジンを獲得する。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。1985年にはホンダが全面的に設計を見直した新エンジンを投入したが、それにより逆にマシンのサスペンションジオメトリーのアンバランスさが表面化し、一発の速さはあるもののタイヤがすぐに磨耗してしまうため決勝では苦戦を強いられる。しかしシーズン終盤にはサスペンションを改善したマシンを投入し、シーズン最後に3連勝を飾った。 最強エンジンに仕上がったホンダエンジンを武器に、1986年、1987年に計18勝を挙げ、連続してコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、1986年の交通事故によりフランク・ウィリアムズが半身不随となってしまい、チームを離脱している間にネルソン・ピケ派とナイジェル・マンセル派の諍いが生じてしまった(契約金まで出して呼び寄せたピケをホンダが支持し、自国ドライバーのマンセルをチームが支持したと言われる)。両ドライバーの確執の為、1986年はマクラーレンのアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われ、1987年はピケがチャンピオンを獲得するがこのシーズン限りでロータスに移籍してしまう。また、ホンダも運営に不満を持ち、翌年以降マクラーレンと契約を結んで去っていった。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。 翌1988年は、前年までのパートナーだったホンダがマクラーレンへエンジン供給契約を結んだ結果、ジャッドエンジンを搭載したが「ウィリアムズがジャッドエンジンを使用するにあたってホンダがジャッドとウィリアムズへ資金援助をしているのではないか」と噂になった。ホンダはこれを否定したが、後に「エンジン供給契約を打切った見返りとしてジャッドエンジン供給にあたり資金援助をした」と公式に認めた。 ただしジャッドエンジンそのものに大きな戦闘力が無く、前年末から投入したアクティブサスペンションもチームが期待したほどの成果を挙げる事が出来ず、シーズン中盤のイギリスGPでは突貫工事でノーマルサスペンションへ変更せざるを得なかった。優勝は無く、表彰台に上がったのもイギリスとスペインの2レースでマンセルが2位になった2回だけであった。シーズン途中には1989年からルノーエンジンを獲得を発表した。しかしオイルスポンサーであったモービル社との契約がシーズン終了まで残っていた関係でルノー指定のエルフ社のオイルとガソリンをレギュラーシーズン中はテストであっても使用出来ずにいた。 1989年と1990年はチャンピオン争いに加わる事が無かったが、ルノーと良好な関係を築き、マシンとエンジンの共同開発路線を整えた。地味なドライバーコンビも健闘し、ティエリー・ブーツェンが1989年カナダGPで遅咲きの初優勝を達成。1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。また、チームは1990年の途中でレイトンハウスから鬼才エイドリアン・ニューウェイを迎え入れた。前衛的な空力設計者ニューウェイと、堅実なヘッドというデザイナーの異なる個性が融合した「ウィリアムズFW14」は、翌年から王者マクラーレンの牙城を脅かし始める。 1991年は信頼性不足や不運などで惜しくもタイトルを逃すが、翌1992年はアクティブサスペンション(商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた)を搭載した改良型「ウィリアムズFW14B」が10勝を挙げ、無冠の帝王と呼ばれていたマンセルとともにダブルタイトルを獲得する。(1992年シーズン中にFW15の投入を予定していたが、FW14Bでも十分と分かったため、FW15は1993年シーズンに向けて改良がされ、翌年FW15Cとして投入された。)しかし、マンセルとは契約金について合意に達することができなかっただけでなく、既にウィリアムズ入りが決定していた不仲のプロストとの待遇の差もあり、交渉は決裂。マンセルはシーズン中に記者会見を開きチーム離脱を宣言。イギリス国内からの非難に慌てたウィリアムズ側が引き留めにかかったが、時既に遅く、マンセルは翌年インディ参戦の為渡米してしまう。 そこで1993年は、プロストのチームメイトにテストドライバーであったデイモン・ヒルを抜擢する。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは「0」と「2」となるが、プロストは無能を意味する「0」を嫌がり「2」を選ぶ。既にプロストはキャリアの下り坂に差し掛かっていたこともあり、精彩を欠いたレースをすることもあったが、当時最強のハイテクマシン「ウィリアムズFW15C」の助けもあり、2年連続のダブルタイトルを獲得する。この年のマシンはあまりの高度ハイテク装備から一部メディアから「実物大ラジコンカー」とまで言われた。 1994年は引退したプロストの代わりに、当時最強のドライバーであったアイルトン・セナを迎える。そして前年までのキヤノンに代わりロスマンズをメインスポンサーとし、カラーリングも一新する。最強のドライバーと最強のマシンの組み合わせであり、シーズン開幕前からチャンピオンは決定してしまっていると言われた。この年ハイテクが禁止されたため、パッシブカーとしてデザインされた「ウィリアムズFW16」はリアサスペンションをカバーで覆うという、空力的に洗練された意欲作であった。なお、キヤノンのメインスポンサー撤退については、スポンサー料の大幅な増額を要求した為とも、相談も無くメインスポンサーを変更した為とも聞かれるが、いずれにしてもスポンサー継続の意向があった同社に対してウィリアムズ側が怒りを買ったことが原因とみられる。 開幕戦ブラジルGP、第2戦パシフィックGPと立て続けにセナがポールポジションを獲得するが、過敏なマシンにより1戦目はスピン、2戦目はアクシデントに巻き込まれてしまう。迎えた第3戦もポールポジションを獲得する。 このチームの最も暗い時間は、おそらくこの年のイモラでのサンマリノGPのあった週末である。スタート直後の事故によりセーフティカーが入るが、再スタート明けのタンブレロ・コーナーでセナのマシンはコーナーを直進しコンクリートウォールに激突してしまう。レースは赤旗中断となり、チーム関係者などが沈痛な表情を見せる中、セナはヘリコプターで病院まで搬送されるが帰らぬ人となってしまう。この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている。 期せずしてナンバーワンに昇格したヒルのチームメイトには、テストドライバーのデビッド・クルサードを昇格させた。シーズン当初はベネトンのミハエル・シューマッハに独走を許すが、彼が失格や出場停止となったレースで確実に勝利を収め、ドライバーズタイトル決定は最終戦オーストラリアGPにもつれ込む。コーナーを飛び出しふらついていたシューマッハをヒルは抜きにかかるが、強引なブロックにより両者接触リタイヤし、タイトルはシューマッハのものとなる。しかし、CARTの日程と重複しない、フランスGP・ヨーロッパGP・日本GP・オーストラリアGPに参戦したマンセルの働きもありコンストラクターズタイトルを死守する。 翌1995年はウィリアムズとして初めてのハイノーズマシン「ウィリアムズFW17」と投入する。しかし、ライバルであるベネトンが同じルノーエンジンを搭載したこともあり、改良型「ウィリアムズFW17B」を投入するが両タイトルを奪われてしまう。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、チームの戦略ミスと両ドライバーのミス、シーズン序盤のマシンの信頼性などでことごとくチャンスを潰してしまった事が敗因。またアラン・プロストも前述のチーム内に明確な序列を設けないチーム方針が、両タイトルを奪取できなかった敗因ではないかと当時メディアと通して発言している。 1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わりインディ・チャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴをアメリカから呼び寄せる。前年からテストを十分行ってきたこともあり、ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得する。レースもリードするがギアボックスのトラブルにより2位に甘んじる。この年は前年のチャンピオンであるシューマッハが当時低迷していたフェラーリに移籍したため、ウィリアムズの二人のドライバーがタイトルを争う。ヒルは先輩格の意地を見せ、日本グランプリで念願のチャンピオンを獲得する。しかし、チームはチャンピオンを獲得したヒルに対し、翌年は契約しなかった。これは、1998年以降ルノー・エンジンを失うことが決定していたウィリアムズ・チームが、BMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていたためと言われる。ヒルの契約は96年までだったのに対し、他方のドライバー、ヴィルヌーブは96?97年の2年契約だった。97年のドライバーとしてヒルの代わりにウィリアムズが契約したのは、ザウバーからの移籍のドイツ人ハインツ=ハラルド・フレンツェンだった。が、結局のところウィリアムズは98年にBMWエンジンを搭載することは出来ず、2000年まで待つことになる。なお、このヒル解雇劇は、彼の盟友であったニューウェイを激怒させたと言われており、この一件がニューウェイのマクラーレンへの移籍の理由の一つとも言われる。この年を最後にチームの戦闘力は低下の一途を辿っていく。 迎えた1997年シーズンは、ヴィルヌーヴとフェラーリのシューマッハの激しいチャンピオン争いとなり、最終戦ヨーロッパGPまでもつれこんだが、シューマッハが追い越しをかけたヴィルヌーヴと接触しリタイアという意外な結果により、辛くもヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得する。このシーズン末をもってルノーエンジンはF1から撤退し、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。 1998年と1999年はスポンサーがロスマンズからウインフィールドブランドになり、同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。ルノーのカスタマー仕様エンジン(それぞれメカクローム・スーパーテックと呼ばれた)を使用し、1999年に加入したラルフ・シューマッハが健闘したもののスーパーテックエンジンの戦闘力不足もあり、優勝戦線からは遠ざかった。 しかし、2004年は一転して特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、1勝に止まった。2005年シーズンはモントーヤがマクラーレン、ラルフがトヨタへ移籍したことを受け、ジャガーよりマーク・ウェバー、ジョーダンよりニック・ハイドフェルドがレギュラードライバーとして加入することとなったが、前年から続いてのシャシー設計(特に空力部門)の失敗とBMWとの不和から成績が低迷し、ついに2000年シーズン以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンを送ることとなった。 また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、元所属ドライバーが復帰を拒むという結末になり、名門ウィリアムズの地位低下が浮き彫りになった。 成績の低迷とシャシーを含めたフルメーカー参戦したいBMWの意向などからBMWとの間に確執が生まれ、BMWはザウバーチームを買収してコンストラクターとして参戦することを決意。結果としてウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなった。 BMWエンジンを失ったウィリアムズは代替のエンジンを求め、トヨタやホンダとの交渉が噂されていたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年については結局、コスワースからエンジンが供給されることになり、昨今の自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤについてもミシュランからブリヂストンへ変更されることになった。 ドライバーについては、マーク・ウェバーが残留し、そのパートナーには、ニック・ハイドフェルドが新生BMWチームへ移籍した為、11月3日にかつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子である、ニコ・ロズベルグの起用を発表した。また、3rdドライバーとして、前マクラーレンのアレクサンダー・ヴルツを起用することとなった。 しかし、ワークスエンジンを搭載していた他のチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの不振で、結局コンストラクターズランキング8位という、チームが現体制になって以来最悪のシーズンとなった。 2007年はチーム名の「F1」の部分を外すことになり、トヨタと2009年までのエンジン供給の契約を、AT&Tとメインスポンサー契約を交わした。更にドライバーラインナップも発表され、ニコ・ロズベルグが残留。パートナーは3rdドライバーのヴルツがレースドライバーに昇格、テストドライバーにはナレイン・カーティケヤンが残留し、さらに中嶋悟の息子である中嶋一貴が起用されることになった。ヴルツは2000年以来のレースドライバーとなる。なお、当初ウィリアムズは3rdドライバーは起用しない方針を明らかにしていたが、実際は5GPで中嶋を金曜日に起用した。ヴルツの引退が最終戦ブラジルをのこした中国GP限りでのこととなったため、中嶋がブラジルGPでF1デビューを飾ることになった。 かつては、レギュラードライバーは30代のベテランを起用したり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代中ば以降のドライバーに関しては、ミナルディやジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。このチームからデビューしたドライバーとして挙げられるのは、一番有名なのはデビュー戦の1996年の開幕戦でいきなりポールをとったCART(現・チャンプカー)出身のジャック・ヴィルヌーヴがあげられる。その他にも、ヴィルヌーヴと同じCART出身のファン・パブロ・モントーヤ、デビット・クルサード、ジェンソン・バトン、そして2006年にこのチームでF1デビューしたニコ・ロズベルグ、日本人で初めてウィリアムズのレギュラードライバーとなった中嶋一貴がいる。 また、アイルトン・セナにおいては、イギリスF3参戦中の1983年にテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。但し、セナはまだ若いということでレギュラードライバーの起用は見送られた。(実際にドライバー契約を結んだのは、それから11年もの後のこと)。 チャンピオンと言えどもドライバーの確保には執着しないため、ドライバーズタイトルを獲得したドライバーの内、過半数をその年限りで失っている。また、年俸の交渉などで揉めることがあるとすぐに放出することでもF1ファンの間で有名である。 ^ FIAによる2007年エントリーリストによると、1978年アルゼンチングランプリとなっている。これは、同一人物による運営ではあるものの、ウルフに買収されるまでとその後新規に設立した現在のウイリアムズを別記録としていることによる。 ジャック・ヴィルヌーヴ | ハインツ=ハラルト・フレンツェン | ファン・パブロ・モントーヤ | ラルフ・シューマッハ | アレクサンダー・ブルツ | ナレイン・カーティケヤン |
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