かたちとは?/ ディック
[ 1569] しあわせのかたち - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%97%E3%81%82%E3%82%8F%E3%81%9B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%A1
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隔週刊時はテレビゲームを題材としたギャグ漫画。ページ数は初期は2ページだったが好評により増やされ、最終的には4ページとなる。 基本的にはゲーム漫画だが、複数のゲームや作者の趣味をミックスするというストーリー手法やコミカルなキャラクターなどで人気を博した。 初期の登場人物は題材となるゲームに依存していたが、「ゆうめいRPGII」から「おまえ」「コイツ」「べるの」の3人が登場、週刊化まで名や格好を題材にあわせて変えたかたちでレギュラー化した。なお、「ゆうめいRPGII」は連載時はそのまま「ドラゴンクエストII」というタイトルを使用していたが、メーカーからのクレームにともない、単行本では修正された。 終盤の「エフゼロエグゼス」ではなかばで作者が体調不良になり、週刊化までしばらく休載となった。エフゼロエグゼスの続きは単行本にかきおろし収録されている。 ファミコン通信が隔週刊誌から週刊誌になったことに伴い、ページ数が2ページとなり復活する。連載時のタイトルは「週刊しあわせのかたち」に変更され、内容もゲーム漫画から、作者の日常をつづる日記漫画と変貌する。日記漫画の系譜はその後の作品に長く受け継がれることとなる。 ポップな画風は隔週刊時代のものを継承していたが、連載後期で「しあわせのそねみ」と呼ばれるひねた作風の作品を数回にわたり展開した。暗く毒っぽい内容は賛否両論だったが、この作風もまたその後の作品に受け継がれた。 また不定期で「ラブラブルート21」という暗黒舞踏漫画を掲載。ファミコンと全く関係ない内容にも関わらずアンケートで上位となり好評を得た。 『ゆうめいRPGII』より登場。由来はムーンブルクの王女で、漫画のヒロイン的存在。苗字は本田、桜井、鈴木の三つあり、登場時によって変わる。。耳が4つあるが、理由は大人の事情でふれてはいけないことになっている。水森亜土の影響で語尾に「-お」をつけて喋ることが多い。 『悪魔城ドラキュラ』より登場。本編では主人公として活躍した。なぜかのちに暗いキャラクターとして再登場、定着する。 オホーツクに消ゆより登場。天気の良い日に空を見上げると見えるミジンコのような物。最初はおまえの目の中にいたが、実体化ののちアイドル化。意外と強い。玉吉の幼少時に体験したミジンコぴんぴん現象から生まれたキャラクター。 『ワンダーオオ』より登場。例の3人組のクラス担任。『おやぢの惑星』に出てくるようなキャラクター。どちらかといえばアニメ・CDドラマの方が活躍している。 この漫画の作者で、常に黄色いお面をかぶって登場する。隔週刊ではちょい役として登場していたが、週刊では主人公となる。 玉吉の高校時代の同級生で、漫画の着色を担当している。モデラー。頭にベニテングタケがはえている。のちに「ちょりぞう」と呼ばれる。口数が少なく淡々としたキャラクターでツッコミをいれる。 玉吉の高校時代の同級生。週刊MSXの編集者。耳に常に耳かきがさしてある。玉吉によってホモ疑惑がかけられる。 しあわせのかたちの初代担当。本名がフォークシンガーの加川良と同じなため「加川良」と呼ばれることもある。玉吉によると外見はねじめ正一に似ているらしい。 週刊時代の担当。ロッカー。当初はトロピカル帽子の似合う好青年だったが後に薬物でラリラリに。通称「鼻提灯」後に「シロセくん」と呼ばれる。 桜が『桜玉吉のかたち』で語った所によれば、モデルとなった担当・広瀬は真面目なためそのまま書くとキャラが立たず、本人と相談して「鼻ちょうちんを膨らました変なヤツ」にしたとのこと。 『ラブラブルート21』に登場する青年。暗黒舞踏の使い手。ひさ子に寄生している。普段はコートが似合うおとなしめな青年だが、暗黒舞踏を使う時は全身が白い姿になり、人の行動を妨害するひねくれた性格に変貌する。 愛蔵本全巻+玉吉のかたちの最後のページにある応募券を集めて送ると、新作漫画収録の小冊子「しあわせのかたち2000」と、「しあわせのかたち」の生原稿一コマ分が全員プレゼントという特典があった。 一巻二話形式で全8話。第1巻1話に桜玉吉と田中パンチが本人役で出演。ワンダーオオの話に力が入っている。 この項目「しあわせのかたち」は、アニメに関する書きかけの項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています(P:アニメ/PJアニメ)。 |
[ 1570] News Weekly Access Top10(2007年12月16日−12月22日)「初音ミク作品」騒動から考える、「次の著作権のかたち」 - ITmedia News
[引用サイト] http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/25/news096.html
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「ダウンロード違法化」に「初音ミク作品」騒動。先週は著作権とネットの関係がクローズアップされた1週間だった。 先週は、著作権関連の記事がアクセス上位に入った。違法にアップロードされた動画や楽曲のダウンロードを違法にしようという議論が「私的録音録画小委員会」(文化庁長官の諮問機関・文化審議会著作権分科会内)であったり、「初音ミク」を使って作られた楽曲の着うた配信契約について騒動があったり――著作権をめぐる旧来のシステムと、ネット時代の新しい創作やコンテンツ消費のあり方との矛盾が、改めてあぶり出された1週間だった。 そもそも著作権法は、一般ユーザーが独自に創作し、ネット上で配布する――という、「ニコニコ動画」で当たり前に起きている事態を、想定していない。「権利者」といえば、マス向けの販売を前提に、コストをかけて楽曲や動画などを作っている企業やプロが主体。一般ユーザーが、コストほぼゼロで制作したものが、視聴した一般ユーザーの応援を得て万単位の人々に受け入れられるといった現象は、「わたし作る人」と受け取るユーザーとの線引きがはっきりしている状態を前提にしている著作権法にとっては「想定の範囲外」だろう。 今回の初音ミク着うた配信に関連する騒動は、ドワンゴ・ミュージックパブリッシングとクリプトンとが共同でコメントを発表するという形で“和解”した。そのコメントには、「音楽著作権の処理に関しては、現在のシステム・ルールがネット時代に即応できていない、不十分な部分が存在するという認識で一致し、時代に即応した新しいシステム・ルールを構築できないか両社で協力し検討してゆく」とある。 ニコニコ動画では、多くの一般ユーザーが「クリエイター」となって動画作品を作っては投稿し、さらに多くのユーザーが閲覧してはコメントを残し、そのコメントがクリエイターの「糧」となる。また、他人が作った動画や音楽に触発され、それらを組み合わせてマッシュアップする人も。お互いに無償で利用しあうことによって、新しい作品が生まれ、創造のサイクルができている。 無名のクリエイターたちは「売れて対価を求たい」というよりは、自分の楽しみのためとか、みんなで盛り上がりたいから――といった理由で投稿するケースが多い。こういった「創造」に、現行の著作権管理システムで対応するのは難しいだろう。 例えば、着うた配信を円滑に行うため、著作権管理団体に配信権を信託すると、契約の形態などによっては「この楽曲をネット配信する場合は、常に許諾料が必要」となり、「ユーザー間で自由に2次利用しあう」という、創造のサイクルの重要な要素をあきらめなくてはならない――ということにもなり得る。 いわゆる「ダウンロード違法」の問題にしても、コストをかけてコンテンツを制作し、面倒な契約をクリアしながらネット配信している側に立ってみれば「無許諾でネットに公開された動画や音楽をダウンロードする行為も違法にしてほしい」と言いたい気持ちも、分からなくはない。だが、ユーザーの立場に立ってみると、「ネットの自由な利用を妨げられる」ということになり、風景はまったく異なってくる。 プロによる商業ベースを前提にした「著作権」と、CGMの世界でユーザーが盛り上げる作品の「著作権」とは、相容れないような気が、最近している。後者のコンテンツを新しい文化ととらえ、今後、繁栄していく環境を作っていくためには、何か新しい著作権の仕組みが必要になるだろう。 旧来の権利者団体とネットユーザーが対立し、ただ主張をぶつけ合うだけでは現状打開は難しい。お互いの見ている「著作権」や「作品」の姿があまりにかけ離れており、利害を調整する落としどころを見つけるのも難しそうだ。 従来の漫画に対するカウンターとして出発したコミックマーケット(コミケ)は、30年かけて独自の世界を築き、漫画界のメインストリームにも食い込むようになった。ユーザーが作った動画や音楽などの発信は、来年は今年以上に盛り上がってくるだろう。ネットの10年後、20年後を見すえた長期的視点に立ち、ユーザーがみんなで幸せになれるシステム作りを、1から考える段階に来ているのかもしれない。誰がなんと言おうと、インターネットと創作はまだまだ続く。 ドワンゴ・ミュージックとクリプトンが、一連の「初音ミク」騒動について“和解”し、共同でコメントを発表した。今後は「ネット時代に即応した音楽著作権の処理について、共同で検討していく」としている。 日銀の内部資料がネット流出 Winny経由か日本銀行松江支店の内部資料がネット上に流出した。鳥取県や島根県の金融機関の検査報告書や決算見込みなど少なくとも5種類で、Winnyのウイルスに感染したPCから流出したとみられる。 |
[ 1571] しあわせのかたち
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/
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■[現代思想・哲学] 相対主義者は相対主義の限界を見ることができるのか? それもまた相対主義が見せる幻想に過ぎないのではないか? 本日はコメントとTBをいただいた大野さん、freezingさん、瀧澤にレスを書くべきであるが、その前に私的なメモを残しておくことにする。この文章はあくまで自分用であり、誰に対する反論、指摘等を意図したものではない、と宣言しておく。 もし5年後、10年後の自分がこれを読み返したとき、私はどう評価するのだろうか。「狂っていた」と評価するのだろうか。それとも「間違っていた」と思うのか、あるいは「そんなことをこの時点まで知らなかったのか」と思うのか。興味は尽きない。 システムのなかにいる者は、自身に組み込まれたそのシステムを暴露することはできても、前傾化することができない。なぜなら「そのシステムを前傾化することができない」ということが、「システムに組み込まれた者」の定義だから。 「私は相対主義者である。なぜならマルクス主義者もフェミニストも実在主義者もフローディアンもキリスト教原理主義者も、それぞれ良いところがあり、悪いところがあり、それぞれのシステムの内部では論理的整合性がとれているのであろう、と認識し、それについてそれぞれのシステムの外部から言明、評価することができるのだから」 確かに「彼」はその言明と思想内容により正しく相対主義者であり、「自身のイデオロギー性に自覚的である」と言える(「システムの暴露」に成功していると言える)。 「相対主義は、相対主義だけは相対化できない、してはならない、という意味で絶対主義ではないか?」 「彼」は相対主義者のはずで、相対主義という「システム」に組み入れられた者のはずだ。「システムに組み入れられた者」に、どうして「システムの限界」が認識できるのだろう? 「イデオロギー」とは、その「イデオロギー内部にいる人間には論理的整合性がとれている」と思わせる装置のこと……であるはずではないか? イデオロギーとは「世界の見方」、「世界の切り取り方」を決定する方法のはずではないか? 「彼」が「正しく相対主義者であろう」とするならば、「相対主義は限界がある(論理的整合性がとれていない)」などとは考えられないのではないか? 自身が組み込まれているシステムの限界が見える、という点で、彼らは正しく「イデオロギー(システム)の内部にいる人間」だと言えるのだろうか? もし「どんなイデオロギー内部にも、限界が見えている人はいる。それでも彼らは彼らの事情があって、“選び直し”をしているのだ」と言ったとしよう。 「相対主義者」が「選び直し」と指摘する行為とは、改宗ではなく「単に一周回った相対主義」と言えるのではないか?(相対主義者が「選び直し」を可能とするならば) 「神は万能ではない」と、もしキリスト教徒が言った時、キリスト教内部では「その言葉もまた、神が言わせた」と考えるはずだ。それと同じことが相対主義内部でも起こっているのではないか? さらに重要なことに、もし相対主義者が「彼らにも限界が見えている」と言った時、それは「相対主義」というイデオロギーに組み込まれた「彼」が見ている、単なるイデオロギー的幻想と言えるのではないか? それは「あらゆるイデオロギーのなかで、ただひとつ相対主義だけが優れており、世界を俯瞰して見ることができる」ということだ。そんな特権化が果たして許されるのだろうか? それではまさに相対主義自身が否定した「神」の有り様ではないか。 「システム」とは、その内部にいる者の「認識」や「概念」を支配するものである。というよりも、内部にいる者の認識や概念をシステム化するものを「システム」と呼ぶ。 システムの内部にいる者は、システムの外部に、仮想的に自分を立たせることができない。「語り得ないことは、語り得ない」のだ。 そしてこのように語ることもまた、私という相対主義者が見る夢のひとつだと言える可能性も高い(あくまで断定はできない。私は私の相対主義性を正しく認識できないのだから)。 このエントリに対して、「それは相対主義スパイラルにはまり込んでいる」と言う人がいるかもしれない。 「私もまた相対主義者ではあるが、相対主義スパイラルにハマってはいない」と、相対主義者は言うことができるのだろうか???? つまり私に対して「相対主義スパイラルから出てこい」と言うことは、「(自分と同じく)相対主義について考えるのを止めろ」ということである。 下記は3/13日付けエントリに付いたコメントへの返信として書いたものですが、あまりに長くなったので、新規エントリにします。 また、いま読み返してみたら「これは美術批評でも同じ」という表現が散見されますが、まあ考えてみれば「文(芸)学」は「ある作品を見て(読んで)、どう受け止めるか」という基本軸において「美学」の一分野なわけです。 ですから大野(id:ohnosakiko)さんの専門領域と近しくなるのは当然なんですよね。ただ文芸批評のほうは日曜学者の数がおそらくアート領域よりもさらに多いでしょうから、トンチンカンなことを書くと遠くの高いほうからいきなりミサイルが飛んでくる可能性がより高く、ちょっとビビってますw だからというわけではありませんが、予防線張りまくりで無駄に長くなってまして、その点ご容赦くださいまし。 もちろんご承知のことかと思いますが、私は学士でしかないのでそれ以上のことは独学というか趣味で知っていることしかお答えできませんので(無責任w)、それを承知のうえでのご質問であれば歓迎いたします。 「つっこみどころ満載のテクスト」に「当然つっこみが入る」のは、学術の世界ではほとんどありません。だいたい無視されて終わりです。これはおそらく美術批評の世界もそうだと思うのですが、そうしたテクストが相手にされるのは(その批評の)書き手が学生だとか芸能人だとかの場合のみです。つまり「つっこむほう」も商売(教師だとかメディアだとか)である場合のみ、つっこむ、ということですね。まあ素人さんは別でしょうけれども。 んで、ご承知かと思いますが「学術の世界」と偉そうに言ったって世間で思われているほどサッパリはしていなく、大変ドロドロとして血の気が多い人間が多いので(特に批評関係は多い)、くだらない泥仕合もしょっちゅうあるわけですけれども。 「開かれている度合い」というのは、これを「面白さ具合」とストレートに言い換えてしまうと誤解を生む部分ではあると思うのですけども(いやまあ最初に並べて書いたのは私なんですがw)、「論文の被引用数」をイメージしたほうがわかりやすいかもしれません。優れた論文は数多くの論文に引用されます。もっと言ってしまえば「引用数の多い論文」が「優れた論文」ということです。たとえ大半が「反論」であっても、ですね。反論が尽きた時点で「そのテクストは完結した」ということになります(新批評的価値観では、「死んだテクスト」となります)。 で、ここが「学術の世界」と「一般の世界」との大きな違いであり、また構造だけ見ると共通要素もあったりして面白いところなのですけども(おそらくこれまた美術批評の世界とも通じる話だと思うのですが)、「一般の世界」では、「同じ話」が何度も蒸し返されて、クルクル回ります。 ここ「はてな」でも定期的に話題になるテーマがありますよね。「男女の友情は成り立つのか」だとか「はてブは偉そうか」だとか。政治思想界隈では「南京」や「慰安婦」なんていう話題がクルクル回ってます。 たいていは過去の議論の蒸し返しであり、「それ、すでに語られたことだよ」という話であり、学術の世界では「それはもう終わってます」という話になって終了です(ですから学術の世界では、まず先行研究をするわけであり、論文での引用には必ず著者名と【発表年】が記されないといけない、というルールがあるわけです)。 で、まあ、これまた学術の世界でも「クルクル回っている(ようにしか見えない)議論」というのはあることはあるんですけどね。「近代の超克」とか「小説はいかにして可能か」とか。 こうなると分野ごとの「積み重ね勝負」になりますし、以前エントリで書きましたとおり、近現代文学の「積み重ね」は社会科学ではナンバーワンです。漱石芥川クラスだと「先行研究」研究、「先行研究研究」研究なんて分野もあるくらいです。 それをクリアすると、着眼点、切り口勝負となるわけです(これに特化しすぎるとデカダンスとなって、これまた相手にされなくなります)。 純文学の批評なんていうのはかなり行き詰まっていて、業界的にはかなり厳しいようです。「手法(文体や技法)」の研究はとっくに出尽くした感があるようで、「具材(テーマや舞台)」勝負になっています。だから歴代の芥川賞候補作なんかを見ると、その時代時代における「新しめのテーマや舞台を持ってきている作品がいかに優遇されているか」がわかります。ドラッグや児童妊娠、タトゥー、経済問題、コロニアルもの(沖縄とかアイヌとか在日とか)、ジェンダーもの、福祉介護ものといった「社会問題として新たに前傾化してきたもの」が大きく取りあげられやすいわけですね(村上龍が大好きな得意技です)。 私としては学術的探求心や「学問としての使命」(後述)を別にすれば、「回っている内部の人間が楽しそうで幸せであるならば、それでいいんぢゃないかなあ」と思っています。いやマジでマジで。 そういった「クルクル回るだけ」という議論をブレイクスルーするのは、いつの世も「天才」が必要です。天才というとあまりに乱暴ではあり「才能だけあればいい」みたいな誤解が生まれそうで怖いんですが、そうではなくて「先行研究を踏まえてなお新しい視点、切り口を提供する」という才能のことを指します。「知識」と「切り口」は車輪の両輪のようなもので、切り分けることは難しいでしょう。 そんな人が市井(やネット)に転がっていることなどまずないわけですから、結局効率重視で足切りしちゃうわけですね。 んで、セコく外堀を固めるのはこれくらいにして、やっと大野さんがおっしゃりたい部分の核心に触れます。 >その判断を的確に下せる人が、下せない人に「そんな読み方はダメだ」と言うと思うのです。つまりその人は、何らかのコンテクストを知っているのではないか。 大野さんがアート関連のエントリや著作でおっしゃるように、「それを決めるのは結局“権威”だ、ということが文芸批評にも言えるのではないか」ということですよね? 細部の違いを排除して乱暴に言えば、そのとおりです。 どんなに優れた論文でも、アカポスがないと(学術分野では)洟もひっかけられませんし、そもそも批評対象である「文学作品」にしても、多くの人は芥川賞受賞作が老舗文芸誌五誌(文學界、群像、新潮、すばる、文藝)のなかからしか出ない、という実情すらあまり知られてないのではないかな(そこで天才・筒井康隆が「洟をひっかけ返す」という荒技をやってのけたというのはご案内のとおりです。時代は前後しますが、ああいうふうに開き直れなかった太宰は可哀想でしたね。やろうと思えば筒井なみの「砂かけ」ができる能力がありまくりだっただけに尚更)。 以前教えていただいたデュシャンの『泉』(でしたっけ?)ほどには、おそらく参入人口が多いぶんどん詰まってはいませんが、まあ似たような状況であることは間違いありません。 ここらへんは痛し痒しですよね。敷居を下げれば莫迦ばっかりになっちゃって、上げたら上げたで神格化しちゃって参入人口が減る。ま、規模は違えど台所事情は似たようなもんです。むろん、この「規模の違い」は結構重要なんですけどね。 さてここからは瀧澤宛のレス(お前よく顔出せたな)も兼ねることになるのですが、大野さんのおっしゃる「判断を的確に下せる人」については一点付記しておかなければなりません。 (rom向け注/ここからはよりいっそう哲学および現代思想っぽい話になります。言葉遊びのように見えるかもしれませんが、、、、ま、所詮言葉遊びか。そういうのが嫌いな方は華麗にスルーしてくださいまし) 中学の教室で「この前、映画見ちゃった。セカチューって面白いよね♪」、「そうだねー♪映画って面白いよねー」と言い合う議論と、「蓮實重彦の分析手法は“周縁をなぞり中心をえぐり取る”ということに尽きるのではないか」、「そうした蓮實評自体がすでにデリダが指摘したところの“差延”を勘案していない」と言い合う議論(どちらも単なる例です)と、どちらがより「的確な判断」と言えるのか? 無限後退を避けるためにはどこかで公理なり原理なり(いわゆる「想像され創造された真理」/「偉い人(神)の判断」とかね)を導入する必要があるわけで、相対主義スパイラルに照らせばやはり、「(西欧中心)科学とて、所詮宗教でありイデオロギーである」というのはやはり正しい。 科学は科学自身の理屈でもって「自分たちは前(や奥)に進んでいる。循環してはいない」と言いますが(あの大天才マルクスやヘーゲルでさえ!)、その「判断基準の根」が「時代性と地域性に縛られた特異なものである」と言えてしまう以上、よりメタな視線からは「冷たい社会と熱い社会は、規模と種類が違うだけで構造は一緒だよ」と言えてしまう(だから「歴史性」を担保にした実在主義者サルトルは、構造主義者レヴィ爺に敗れたわけです)。 これは以前瀧澤との話にも出てきた話ですけれども、未開のジャングルに住む人々はクルマもクーラーもPCも(カレンダーさえ)ないわけですが、クルマもクーラーもPCもある我々のほうが賢いし幸せだ、と言えるのかどうか。 これは自分自身の判断基準が「時代性と地域性に限定されたものである」と認めたうえで(相対主義スパイラルを一周回ったうえで)「やはり、選択肢が多いほうが賢いし幸せである」と、「宣誓(信仰告白)」するのがよいのではないかと思います。 私なりに精一杯掘り下げて原理っぽくて本質主義っぽい回答を探すとすれば、「そうすることを好むのが人間という生き物だから」となります。 さかのぼればそれは、ジャングルからサバンナへ「好奇心」でもって出ようとした者たちです。まだ見ぬ知らない土地へ。そこには何かがあるはずだ。そうして2足歩行を手に入れ、地球上の隅々まで住めるように適応し、前頭葉を肥大させ(ある種の奇形となって)、現在のかたちになった。我々はその末裔であります。 できるかできないかでいえば、できます。陳腐な例で恐縮ですが、そうした理屈でもって(世界の中心を気取っていた)西欧社会は先住民を虐殺し、原爆を作り、ホロコーストを経て、地球を汚してきた。 しかし同時に「そうしたことが人間の定義である以上、末裔である我々はその連綿と継がれてきたバトンを次の世代に渡す義務がある」とも、同じ程度の説得力で言えるわけです。 これもまた陳腐な例ではありますが、「世界は5分前に作られた」という命題さえ反証できないけれど、人間とは「これだけは言える」という「物語」を導入して生きていこうとするものであります。ならば、より強固で、より多くの人が信じる(信じられるであろう)物語を求めるものではないか。イーグルトンは『イデオロギーとは何か』という本で指摘します。「何も信じない者は、何かを絶対的に信じる者と同じだ」と。 では取り急ぎ、どのような思索のありようならば、「より賢くて幸せか、などと(メタ視線では)はいえない」という構造主義の考え方の前で有効なのか。「真理」を探求する哲学は、どこまで譲ればいいのか。どこまでなら「これだけは言える」と後退できるのでしょう。 私が知る限りでは、科学哲学の分野でカール・ポパーが引いたラインが一番適当に思えています。いわく、「いかなる事象、いかなる概念であっても、それに関する反証可能性が開かれているのであれば、あってよい」というものです。 常に「問い」を発していく。発していける構造を担保しておくこと。そこまで哲学は後退しています(だから哲学者はマルクス主義者が嫌いなのです。「マルクスは正しい」という結論が出ちゃっているので)。 疑ったうえで、前に進めばよいのではないかな、と思うわけです(後ろ向きかもしれませんがw)。前だろうが後ろだろうが、奥だろうが手前だろうが、立ち止まらずに動き続ける、その運動性自体が、「何かを生み出す可能性」を担保できるのではないかな、と思っています。 >ある批評なり感想なりを読んだ時、そこにある考えが道具として他の場面でも使えるものかどうか、応用が利くかどうかを考えます。それができるものは「開かれた」と言うのに近い気はします。 「他の場面でも使えるかどうか(を考える)」というとき、その考え方が「どこまで有効なのか」という範囲を考えることも同じくらい重要だと思うのです。 ある種の考え方、思想、論考は、それが優れているだけに、一見「なんにでも使えてしまう」ように見えてしまいます。マルクスの考え方も、フロイトの考え方も、ボーヴォワールも、レヴィ爺やポパーの考えでさえ、「それが有効な場面と、そうでない場面がある」ということを常に意識しておくこと。 そうでないと思想自体が死んでしまう(マルクス主義がよい例ですね)ということは、再三指摘されていいことだと思うので、書いておきます。 ごく私的に、大変アタマに来る事件が立て続けに起こってイライラしているので、衒学趣味に浸りきった自己満足な長文エントリを書いてみました。嫌がらせのように長いですが嫌がらせでは(以下略 中学や高校の国語の授業では、「ここで作者の言いたいことは何か? 30文字以内で書きなさい」という定番の問題があります。教師は生徒が書いた「答え」に点数をつけるわけですから、明確な「正解」があるはずです。 これはよく知られた話ですが、以前村上龍が雑誌のインタビュアーに「この作品で貴方の伝えたかったことは?」と問われて、「それがわかったら作家なんてやってない」と答えていますし、また、よしもとばななが以前、自分の作品(確か『TSUGUMI』)が大学受験に使われていたそうで、そこに「ここで作者の言いたいことは?」という問題があって、解いてみたら全然違ってた……なんていうのも書いていました。 作家と問題制作者は違うわけで、なぜ問題制作者は「作家の言いたいこと」なんていうことがわかるのでしょうか? 作者自身でさえ「わからない」と言うのに、なぜ? これは結論から書いてしまえば、「中学・高校の国語の授業とは、文章から“何か”を読み取る訓練だから」と言えます。ですから厳密に(「文学」における)学問上の話をするのであれば、唯一の「正解」は「読者の数だけある」ということになります。 本を読み、任意の文章を取りだし、これはどういうことだろう? こういう意味か? いやこっちの意味じゃねえ? こういう話にも読めるよね? こうした「正解」の見えない「問い」を立て続けることが、文芸学の本懐です(この方法を、文学は哲学から学びました。斯様に哲学とは、多くの学問に「考える方法論を提供する学問」です)。 受験のために勉強する「作者名や年表の暗記」、「文法」や「古典学習」は狭義には文献学や国語史、国語学に分類され、どちらかといえば史学、ないしは語学に近い領域と言えるでしょう。 ところが近代に入って「どうも文脈や行間のほうが重要なんぢゃないか?」ということになってきました。ゲームのルールは少しだけ複雑になりましたが、この時点でもまだ(書かれていない)「作者の本意」を読み取れば批評家の勝ち、間違っていれば負け、という基本ルールは変わっていません。 今でも文芸誌、読書誌などでは作者に「この作品の狙いは?」などと聞くインタビュー記事が数多く載っていますし、それを「唯一の正解」だと信じている人も多いでしょう。それはそれでひとつの考え方だとは思います。 ところが時代はポスト近代を迎え、ロラン・バルトというフランスのオッサンが構造主義思想を踏まえて「新批評」(ヌーベル・クリティーク)なる概念を持ちだし、このルール(「正解」は「作者」だけが決めうる)が一気に過去のものになります。 たとえば幼い頃に読んだことのある本を大人になって読み返してみると、「まったく別の話だということがわかった」という経験は、誰にでもあるのではないでしょうか? そこに書かれていた文章は一言一句変わらないのに、「読み手」が成長しただけで、意味がガラリと変わってしまう。 というよりもっと言ってしまえば、作者さえ「執筆時」と「それをあとで読み返した時」とでは、「まったく印象が変わる」ということがありはしないか? (これを読んでいるブロガーの方でも、ブログを始めた頃のエントリを読んで愕然とした経験がある人は多いでしょう) 結構誤解している人が多いので書いておきますと、「文(芸)学」という学問が現在のようなかたちで(少なくとも大学で教えられるようになるほどに)確立したのは、比較的最近の話です。19世紀の中頃ですね。 しかし長い人類史、学問史のなかで、文章(ここでは物語、詩、小説、伝記、旅行記、戯曲等を指します)を読む、という行為はあくまで余暇であり趣味であり(他学問への研究のため等)副次的なものであって、「学問として、その読み方を学ぶ」というのは(「語学」や「史学」ではあり得ても)研究対象としては成り立っていませんでした。 その証拠に……なるかどうかはわかりませんが、800年以上の歴史を誇るケンブリッジ大学に「文学部」が置かれたのは19世紀に入ってからでした(日本では旧制東京大学の開校時(1877年)から文学部が存在していました。世界的に見ても非常に早いタイミングと言えます)。 ケンブリッジ大学初代文学部教授のサー・アーサー・クゥィラー教授は講義を始める前に必ず「ジェントルメン」と呼びかけたそうですが、その教室の大半は(当時「学問」や「専門職」から疎外されていた)「女性*2」であり、「二流、三流の男性」*3だったそうです。 そして「文学とは何か?」という問いに、英文学の碩学テリー・イーグルトンは以下のように語ります。 文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないのはもちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとは単なる個人的嗜好のことを指すのではなく、ある特定の社会集団が他の社会集団に対し権力を行使し権力を維持していくのに役立つもろもろの前提事項のことを指す。 そんな読み方じゃダメだといわれても、いったい何に対してどのようにダメなのか、ダメじゃない読み方とはどういう読みなのか、それを完璧に実行できる人がいるとして、その人(たち)だけのために書かれるなら、その人(たち)だけに読まれるようにする必要があるとおもう。 この問いに答えるためには、「文学とは何か」というのを規定する必要があります。そして私にとって「文学」とは、ここまで書いてきたような非常に面倒くさいものです。 そしてあるエントリ、ある作品に対して「読み方の正解」は、私はないとは思っているし、もしくは「あらゆるものが正解」と言えるのではないかな、と思っています。 *1:文学理論は表現行為全般が対象なので(例/「彼は存在自体もはや文学だ」等々)、正確には「文章」には限らないのですけどね。中途半端な衒学趣味者向けに書くならば、これは「シニフィアン全般を指す」、と思ってください *2:この残滓は現在の文学部にも色濃く残っていますね。文学部と言えばたいていの四大で6割以上が女性です レビ記19章18節には有名な「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という文句がある。これは神学上何度か論争になっていることだそうだけど、「では自分を愛せない人は、隣人も愛せないのではないか?」という背理が潜んでいる。 「自分を愛する」ということは意外と難しい。ネットでは自傷的で自滅的な書き込みを見かけることは珍しくないし、刹那的で破滅的な行為に走る姿もよく見かける。 西欧近代哲学……と書くと小難しい話のようだが、おそらく現代思想が提示する「他者論」のすべては、上記の命題から発しているのではないか、と私は読んでいる。 世の中にはこういう難儀な問題が山積みされているわけだけれども、そういう時はイエス様とか孔子様とかラカン様とかジョン・レノン様とか、ずいぶん昔にそんなことばっか考えてた人の考えを聞いてみると、けっこう納得できたりするもんだ。 そういえばエーリッヒ・フロムは『愛するということ』(鈴木昌訳/紀伊國屋書店刊)の一番最初でハッキリと「愛? そりゃ技術の問題だよ。だから知識と努力が必要なんだな」と書いていた。難儀やねえ。 というわけで、十年一日のごとく話題になるみんな大好き「はてブコメ」の話(昨日のエントリで脳が疲れてるので本日は軽めに)。 そもそもな話、「ブロガーとブックマーカーでどっちが偉いか」なんて話はナンセンスなわけで、偉いわきゃないのに偉そうに書かれた文章を見ると、まあたいていの人は頭に来るわけだ。 それでもこの話題が繰り返し定期的に話題になる原因は(これさえも上記ですでに指摘済みな気がするけど何度でも書くよ)、私にはふたつしか思いつかない。 何度も「いや偉いわけぢゃないから」と言い続けてそれが浸透するのを待つか、「どっちかが偉いのだ」ということを万人に納得できるよう根拠づけて語れる人が出てくるのを待つかしかない。ま、どっちも無理そうだわな。 だから上記はほとんど解決不能であり、解決不能なものは放っておくしかないのであるけれども、まだなんとかなりそうなのはふたつめではないかと私は思っている。 たいてい「偉そうな態度」に頭に来るのは、その「偉さ」に根拠が感じられないからだ(多くの人が根拠に納得すれば偉そうにしていても問題にならない。それでも問題視する場合、問題視するほうが問題にされる)。 だとしたら、この「偉そう問題」は(コミュニケーションが続く状況であるならば)わりかし簡単に解決可能な気がする。 「なんとなくそう思っちゃったから」だとか「みんながそう言ってるから」だとか、「偉い人がそう言ってるから」だとか「すでにどこそこで証明されたことだから」だとか、本人が「これが根拠だ」と思っているものを語ってくれるかもしれない。 「ブックマーカーよりもダイアラーのほうが偉い」ということが敷衍し、この認識が支配的になれば「はてブ偉そう問題」はかなり少なくなるとは思うんですけどもね。そうはならないんじゃないかなあ……というのが個人的な見解です。 (そもそも私自身は根底に「作者(=エントリの権利保有者)」という全能的な響きのある概念にちょっと懐疑的な考えを持っているのですが、それはまた別の機会にでも) 「エントリにも言える」というのは、なるほどと思いました。そのとおりですね。その点、エントリ内で明記すべきでした。 「間違っているに決まっている」と思いながら書き込む人は滅多にいないんじゃないかな。どうでしょう。 で、で、その「相対的な正しさ」のなかで、「偉そうだと思う」、そして「それに腹が立つ」というのは、やっぱり「相手の“正しさ”に根拠が感じられない時」だと思うのですが、いかがでしょうか? 「感想」だったとしたら、例えば「つまらない」というブコメがついた時、「アンタのその“つまらない”という感想には根拠がない」とはね、言いたい人はいるんぢゃないかな。だから偉そうだと感じ、腹が立つのではないか、と(そもそも「感想に根拠を求めるな」、という話もあるでしょうけれども)。 *1:もちろん発言者が「どうしようもないバカだ」というケースや「いかんともしがたく邪悪だ」というケースもあるにはあるが、一般的に言われているよりはかなりレアだったりする。アレントが指摘したように、「悪」というのはたいてい凡庸だ 2008/03/07 21:30 長文ですが、自分のブログには書きたくないテーマなので、コメント欄で失礼します。私は一部のブクマカのコメントが気に入らないためにはてブ全体を語る記事は好きではありません。ネガティブなことをほとんど書かないブクマカを知っているからです。もちろん、私のことではありません。(むしろ、ショータさんあたりからはネガコメ代表くらいに思われてそうですねw)ネガコメを書き続けるブクマカなんて、全ブクマカから見れば微々たるものではないですか?だから、『「はてブブコメの中で問題になるのは「正しいと思ってる」ブコメではないか」が適切』ではないかと書きました。はてブに問題があるのではなく、はてブの中に問題のあるブコメがある、ということです。全体が悪い訳ではない。「正しい」という言葉を使ったのは、元々のタイトルに『正しい』という言葉が入っていたからです。私はあまり正しさにこだわりません。正しさにこだわると何も書けなくなるからです。>で、「正しいと思っている」の話なんですが、これ、程度問題だと思うのです。もちろん、程度問題です。その正しさをどれだけ持ってブクマを書いているかそのブクマカによると思うんです。で、ショータさんはどの程度の「正しさ」を問題にしているんですか?それを提示していただかないと話がかみ合いそうにありません。少しでも、無意識でも「正しさ」が入ってたらアウトですか?絶対的正しさですか?答えはショータさん自身が書いてこれ↓につきるとは思いますが。>そもそも「感想に根拠を求めるな」、という話もあるでしょうけれども)感想に正しさを求めることも同じですよね。「正しさ」について、実際の事例を出して書いてみます。ショータさんは以前、私をエントリをあげてまでオフ会に誘いました。あれはそれが正しい行為だと思ったからですか?オフ会をやったら楽しいに違いないと思っていたからですか?私が困るとは思いませんでしたか?この場合「正しさ」を決めるのはどちらでしょう?ショータさんが正しい行為だと思ったとして、私から見たらはた迷惑な間違った行為だと思う可能性も十分ある。では、ショータさんが書いたエントリについたブクマの正しさは誰が決めますか?エントリとブコメの「正しさ」の相関関係も似たようなモノがあるような気がします。一概にきめられるものでもないし、人によっても受け取り方は違う。上に例に出したショータさんのエントリについたブクマに関しては、私は、ショータさんの言葉を借りれば「すべて正しい」と思います。みんなが感じで書いたことです。間違いなんてありません。 2008/03/08 00:32 一番頭に書いておきましょう。エントリをあげてオフ会に誘われたこと自体は正直迷惑でした。が、あの時点では断る気はありませんでした。ブコメでもそう書いてないでしょ?(私は表だっての腹芸は苦手です)その点はメールで連絡した通りです。オフの件はちゃんと考えますから、というメールを差し上げましたよね?そして、オフをやってもいいが表沙汰にしてもらってはいろいろ困る旨もメールに書きましたよね?「迷惑」とはそれも含めます。そして、私が個々の事例を出したのは、基準がどこにあるのやら分からないどこかの誰かを想定するよりも、私とショータさんを出した方がわかりやすいかと思って出しただけです。二人の間の話ですもん。このコメントのやりとりのようにお互いの言動の補足ができます。どこかの誰かさんを例にしたとしたらできないことですよね。二人のやりとりで「正しさ」が一致してなかったことが証明されましたよね。同じようなことがブクマとエントリの間でも起こりうるということを言いたかったから、出した例です。ショータさんのおっしゃる通り「正しさ」なんて人によって基準は違うし、受け取り手によっても違うんですよ。「根拠のなさ」についても同じです。そんな曖昧なモノの構造を語ったとしてどこに当てはめる気ですか?語りたいのは構造だけですか?そうだとしたら、私が問題となるのは一部だけだという主張と一致しますね。そんな構造が運良く当てはまるのは一部だけです。「正しさ」や根拠のにブレがある以上、この事例は当てはまる、この事例は当てはまらないというしかないし、その「あてはまる」「あてはまらない」という基準の人によって違ってくるでしょうね?そんな曖昧「正しさ」「根拠のなさ」で語ったものは曖昧でしかない。曖昧なものではてブ全体を語るには不適切であり、一部しか語れないと思います。私はそう考えます。だから、タイトルは自分が適切と思う物を提示しました。で。ネガコメイクナイと言っている人は、正直な話「根拠がない」とかそんな小難しいこと考えてネガコメイクナイって言ってないと思います。自分のエントリを否定されたおt思ってむかついてると思いますよ。根拠まで考える人はネガコメイクナイとは言わないんじゃないでしょうか?それとも、この場合も「根拠」自体が根拠のない受け手のフィーリングの問題ですか?そうだとしたら、ますます私の意見と一致しますけれど。私として、ショータさんが「正しさ」を定義できると言えば、その定義にそって話をしましたし、予想以上に「正しさは人による」というお返事いただいて、だったら、こうじゃん的な返事を返してみました。自宅のPCだとコメント入力欄がむちゃくちゃ小さくて書きにくい!(もちろん、私のPCのせい)し、長文はやはり苦手です。次回は短く書く努力をします。 2008/03/08 00:47 ちょっと待って待って。いただいたコメントへのレスはさておき、>オフの件はちゃんと考えますから、というメールを差し上げましたよね?>そして、オフをやってもいいが表沙汰にしてもらってはいろいろ困る旨もメールに書きましたよね?あのう。。。。私、その旨が書かれたメールをいただいていないのですが。。。。いまgmailのフォルダを確認しましたが、羽天使さんからメールをいただいたのは一通だけであり、そこには上記の内容は書かれていないように読めます。2通目があるのでしょうか?それとも1通目で上記のような羽天使さんのお考えを読み取るべきだったのでしょうか????(むうう、マジでわからぬ。。。。) 2008/03/08 03:48 >再び羽天使さんどもです。先ほど「いただいた一通目のメール」のアドレスに返信するかたちでメールをお送りしました。事実確認のみです。で。私と羽天使さんのオフ話についてお書きになった意図はわかりました。重ねて私は個々の「正しさ」はあまり考慮していないし、しなくてもいいと思っていますが、羽天使さんにとっては重要なのでしょう。で。で。「根拠のなさの判定基準は人それぞれ」の話ですが、私は「根拠のなさ、正しさの基準が、それぞれ個々で違う【からこそ】、(あるエントリ、あるコメントに対して)偉そうだと思ってしまう(思われてしまう)」という主張をしたいのですが、これはもしかしたら若干話が違うかもしれませんので、ここで展開するのはよします。>ますます私の意見と一致しますけれど。私は(羽天使さんのおっしゃる)「はてブで問題になるのは一部であって、それを全体であるかのように読める書き方は適切ではない」という話については、「見方によって違うでしょう」とは思いますが、特に反対しているわけではありません。賛成しているわけでもありませんが、正直(「意見」ではなく)論点が違うと思ってますので「ぢゃあタイトル直そうか」とまでは思いませんけれども。>ネガコメイクナイと言っている人は、正直な話「根拠がない」とかそんな小難しいこと考えてネガコメイクナイって言ってないと思います。なぜそう思うのですか?(根拠を聞いてみた)短くてももちろん結構ですので、羽天使さんなりの根拠を(もし時間と語るべき根拠があれば)書いてくださると私は喜びます。むろん、「そう思っちゃったから」でも構いません。 [現代思想・哲学] 相対主義者は相対主義の限界を見ることができるのか? それもまた相対主義が見せる幻想に過ぎないのではないか? ブックマーカーもブロガーも、読まずに批判し、読まずにネガコメし、誤解したまま言及する - しあわせのかたち |
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